　ショスタコーヴィチの交響曲第１５番イ長調　作品１４１は、彼の人生の縮図である。

　まえがき

　冒頭のロッシーニの「ウィリアム・テル」からの引用は、彼が幼少の時にときめいた音形である。息子のマキシム・ショスタコーヴィチは「作曲者が子供のころ最初に憑かれた旋律」と証言しているが、ショスタコーヴィチに限らず、わたしたちもまた少年の頃、このロッシーニの愛すべきテーマを心に刻んだ。　

　１．アイロニー

　アイロニー(皮肉)という手法が、なぜショスタココーヴィチの音楽に現れたかというと、それは主としてスターリンの粛清にあったと言わざるを得ない。ただしスターリン批判を行ったフルシュチョフの時代のソ連は比較的自由な雰囲気があった。この時代に、ショスタコーヴィチは２つの交響曲で、一時的には精神的に解放される。１９３０年代に封印した交響曲第４番を初演したが、この作品はマーラー的な作品構成を持った前衛音楽そのものだった。ジダーノフ批判に始まるソ連当局の文化芸術政策「社会主義リアリズム」路線とスターリンの粛清を前にして、第４交響曲の初演を２５年間見送り、代わりに彼のもっとも有名な交響曲第５番が発表される。交響曲第５番は、その音楽の表面上は「社会主義リアリズム」に迎合したものとして聴こえはするが、実際は第３楽章の「ラルゴ」における「鎮魂」に認められるように、粛清に散った芸術家や政治家への哀悼が秘められている。これこそがショスタコーヴィチの「アイロニー」の始まりであろう。

　フルシュチョフ時代の今ひとつの作品とは交響曲第１３番「バビ・ヤール」である。エフトゥシェーンコの詩による共産党批判の直接的な歌詞を持つこの作品が１９６２年に初演できたことこと自体信じられないことだが、スターリンという頚木が取り除かれ、スターリンが批判された時代においては、当局の締め付けも緩んでいたのである。

　しかし１９７１年の交響曲第１５番作曲の時期のブレジネフ時代は、逆に、粛清こそ伴わないものの、独裁が復活して芸術家にも厳しい「凍結」の時代だった。(特に文学者への弾圧は６０年代のシニャーフスキー裁判と１９７４年のソルジェーニツィンの国外追放に見て取れる。)わたしは「凍結」という事葉を「雪解け」の対置としここで使っている。

　いずれにしてもこの時代に生み出された最後の交響曲は「アイロニー」の手法に満ちている。

　時代を戻して、１９３６年、とにかく彼は交響曲第４番を撤回した。

　作曲家の若き時代、ロシアンアバンギャルドの時代に、革命賛歌を伴った第２、第３交響曲作品にウルトラ対位法とか１２音技法を参考とした手法を導入した、その先進性を批判されるとはショスタコーヴィチ自身考えもつかなかったと思われる。ロシアンアバンギャルドは、スターリンによって「人民大衆の理解不能な難解さ」として槍玉に挙げられる。第１、.第２交響曲は、一種のロシア革命賛歌である。この時点で、ツァーリズムを打倒した革命は、若きショスタコーヴィチにとっても肯定的なものであったと推察される。革命がまだ「理想社会」の到来と誰もが信じていて、芸術家たちは自分たちの前衛技法をこぞって競ったが、それは革命の目指す「自由」とのアイデンティティーを持った芸術の「自由」へ希望であった。スターリンは一種のポピュリストで、芸術家のみが理解し、一般大衆が受け止められない「前衛」など権力には何の利用価値もないことをよく理解していた。よってそういう音楽は「プチブル的」との烙印を押す。後にスターリンは、ショスタコーヴィチの第７交響曲を大いに政治的プロパガンダに利用したが、大衆受けする戦争交響曲と思われているこの作品から、「レニングラード」というショスタコーヴィチのカモフラージュをスターリンは見抜くことができなかった。大衆の誰もが音楽の中に描かれた「敵」をヒトラーだと思い、ナチスに対する「勝利」の交響曲として迎えられたが、ショスタコーヴィチの「語法」は「前衛」を後景に隠しつつ駆使して、実はその「敵」とはヒトラーと並び立つスターリン本人だということを悟られないようにアイロニーの手法に込めるのである。

　ちなみにソ連が独ソ戦でアメリカの支援を得るために、つまり反ソ意識の強いアメリカ市民の同調を得るために『レニングラード交響曲』はアメリカ中で一大公演される。このときアメリカで指揮を務めたのはトスカニーニだったが、トスカニーニから贈られたレコードに対して、ショスタコーヴィチは「精神も性格もテンポも間違っている」と演奏に不快感を示したといわれる。作品がアメリカでは対独戦のプロパガンダとしてのみ解釈されていたのではないかとわたしは思う。

２．交響曲第１５番

　第１楽章は少年のころ憧れたテーマが破壊されてくのであるが、その破壊はさりげなく実に平穏にロッシーニから現代音楽に溶けていく移行である。この移行もまたショスタコーヴィチの思い出の「解体」の記憶である。１９０６年にドミトリー・ショスタコーヴィチを生んだ母ソフィアは革命運動寄りの思想を持っていた。よってショスタコーヴィチは少年時代から、労働歌などに触れ、作曲としても革命賛歌的な作品をいくつも創作している。ただし本人は政治運動にはあまり関与しなかった。彼は音楽の申し子であり、よって音楽院での作曲家としての鍛錬に余念がなかった。１９歳で音楽院の卒業作品として書かれた第１交響曲は、彼の１５曲の交響曲でもっとも革命とは無縁に聴こえる。ひたすら作曲技法に磨きをかけていたことが伺える。今から１０年ほど前にテレビの「N響アワー」で、第１交響曲について、池辺晋一郎先生が、「やりたいことを全部やった」とおっしゃっていたが、最初の第１交響曲は技法としてショスタコーヴィチの天才を示した「完成」された、「習作」というのは失礼なほどの出来ばえの作品である。

　音楽への純真な酔心の少年時期に、ロッシーニのテーマは希望の象徴であった。そして革命も、ツァーリズムの抑圧からの人民解放の希望であり、革命の成功は彼にとっても希望であり、自由への扉と思われていた。芸術家として過去の形式を打破して自分なりの音楽を創造する自由は革命の目指す自由と重なり、よって音楽院を卒業するや第２、第３交響曲の歌詞に革命を肯定的に扱うテキストを用い、同時にその作品に未来への希望としてひたすら前衛的な音楽手法を同居させた。革命は芸術家にとっても未来への希望と目されていた。ところが革命は独裁体制の進行と同時に否定されていく。第４交響曲の撤回は、ショスタコーヴィチがそのことを悟ったことを示している。

　この革命の「裏切り」の記憶が、ロッシーニの純真さ、大衆にわかりやすいテーマが、芸術家の内面の先進性に溶け込んでいく過程として描くことを晩年の作曲者が試みようとしていると思われる。第１５交響曲の第４楽章で、ショスタコーヴィチは、第１楽章のロッシーニから変形した「不安」にさせる前衛主題だけを引用している。このような構成に目を向けねばなるまい。

　第４楽章では、ワーグナーやハイドンからの引用も登場するが、特にハイドンの『ロンドン』交響曲の冒頭からの引用は、リズムは始めから変形されていて、テーマはすぐに半音上に転調する。

　リズムに関して言えば、とくに拍子が、第１楽章においては、２/４と３/４、第２楽章において、３/４と３/２、第３楽章では２/２と３/４、第４楽章においては４/４と３/４、２/３と変化する。特に第１.第４楽章では頻繁に入れ替わる。ショスタコーヴィチの作品ではめずらしいことではないが、この変化が「古典」音楽に慣れしんだわたしたちのリズム感覚を狂わせ、不安にさせる。　

　交響曲第１５番の第２楽章は、チェロの瞑想が奏でる葬送で始まるが、大音響の金管は葬送より悲劇性を強調する。なぜ死んだのかの理由すらわからない仲間のために、瞑想すら与えられない者の犠牲を作曲者自身が回想している。チェロの主題は発展するというよりは、この犠牲への思いを、非常に無味乾燥した霧の張りめぐる墓地の風景として、無感情に高揚して悲劇の一撃を導くがごとく表現されている。粛清による犠牲とは究極の「意味のない無駄死」を意味するようにわたしには思えてならない。この葬送行進曲は、葬儀を送り出すBGMではなくて、６５歳を超えた晩年の作曲者の記憶にのみ残る「仲間たちがかつて存在した」という思いだけだ。その人々は具体的な「誰か」ではなく仲間「総体」のイマージュである。

　第３楽章は、アイロニーに溢れる。それとともに滑稽さと落ち着きが同居しているような感覚に襲われる。わたしはこの楽章が好きだが、字数制限の関係上この件は別の機会に述べたい。、

　交響曲第１５番の第４楽章のさめた「平穏」は、アイロニーに満ち、このひと時のうわべだけの「平穏」(ブレジネフ時代)の崩壊を予感している。ショスタコーヴィチは「ソ連の崩壊」の１６年前に亡くなっているが、この作品はそれを予感しているようにわたしには思える。ベルリンの壁が人々に破壊されたりレーニン像が引き倒されたりする映像は、大変ドラマチックではあったが、第４楽章は「ハイドンの引用」以外は終止「静かに」進行し、特に冒頭とコーダは、静寂の中の「不安」とでもいうべきであろう。それはあたかも古ぼけた町並みの大通りに、無味乾燥なそよ風が吹いていて、しかしその風が運んでくる微かな「臭い」は平穏に見える社会の不条理と不正と狂気を帯びていることを感じさせる、とでも表現しておきたい。若き時代の、ツァーリズムという「不合理」を打倒した「革命」への熱い支持が裏切られた後に、スターリン後のソ連社会の「病い」を感じ取っていたショスタコーヴィチは、「このような社会はいつか終わる」と思っていて、その「病い」を一芸術家として秘かに背負っている自分の精神をアイロニーの語法で表現して見せたのではないか？だからわたしには、例えばルーマニア革命のチァウシェスクの末路などに見られる旧東側の体制の崩壊は、「権力欲」「暴力支配」などの不条理が、実は、単純に「腕白な子供がガキ大将を張りたがる」ような、とても「不道徳」で「単純で野暮な精神」「最もしょうもない」「幼稚」な精神から端を発していたということを明らかにしたと思う。こういう蔑むべき精神を葬るには、ドラマチックな大衆の「変革」の映像より、第１５交響曲のコーダがふさわしいように思える。独裁者は思い出すだけの価値もないからである。

３．CDについて

　ムラウィンスキーとバーンスタイン

　ムラウィンスキーは旧ソ連を代表する指揮者であるが、彼のショスタコーヴィチの交響曲に関しては二つの不可思議なことがある。

　一つ目。

　彼はショスタコーヴィチの交響曲のうち、第５、第６.、第８、第９、第１０、第１２交響曲の初演を務めているのだが、これらの交響曲がすべて声楽抜きの純器楽曲であること、そして録音も上記以外に、第７、第１１、第１５交響曲と、これまた器楽交響曲に限られている。この事情についての詳細は明らかではないが、確かにムラウィンスキーという人は、オペラ指揮者ではなくてコンサート指揮者ではあるが、１９４９年にはショスタコーヴィチのオラトリオ『森の歌』の初演を行って、録音もしているから、けっして声楽が苦手とは思えない。

　これはわたしの想像ではあるけれど、ムラウィンスキーもまた自分に対する当局の目を常に気にして生きていかねばならなかったのではないだろうか？そう考える理由のひとつとして、わたしはムラウィンスキーがあの共産党批判の歌詞を持つ交響曲第１３番『バビ・ヤール』の初演を拒否したことを挙げたい。彼はロシア系指揮者としては、自国のチャイコフスキーからわたしたちからは一見マイナーと思えるカリンニコフ、グリンカ、リャードフなどを採り上げる一方で、ベートーベンやブラームスなどのドイツ物を盛んに演奏している。旧ソ連が健在だった１９８０年代まで、ソ連の指揮者によるLP録音では、当時のソ連の指揮者の有名どころであったスベトラーノフ、コンドラシン、ロジェストヴィンスキーなどによるドイツ物などほとんど存在していなかった。モスクワより西欧的雰囲気の強かったレニングラード(現サンクト・ぺテルスブルク)の違いもあるだろうが、終身レニングラードフィルハーモニーの指揮者だったムラウィンスキーは、ロシアの音楽家である前に、西欧音楽の旗手たらんとしたのではないか？ゆえに純器楽の語法こそ彼の内面を良く示すことができた。革命賛歌の歌詞である第２、第３交響曲はショスタコーヴィチの革命に対する賛同を当初は示し、それが作曲者にとっては「失われた」理想である、ということを指揮者自身が理解しており、逆にスターリンを含むソ連当局批判に彩られた第１３交響曲を取り上げることは、音楽家として自己の思想を純粋な抽象表現でとどめておくことができない。歌詞が文学的な「思想」を語るからである。ムラウィンスキーは自分の思想的立ち位置を「言葉化」されてしまうことを嫌ったと思われるし、それが危険であることも理解していた。

　二つ目。

　ムラウィンスキーは１９３７年に、ショスタコーヴィチの第５交響曲を初演している。この作品については１９５９年の旧ソ連のメロディアのモノラル音源が残されている。また１９７８年のステレオ録音ほか、来日ライブを始め７０～８０年代の多数の録音がある。が、５９年の録音だけ、Allegro non troppo　の第４楽章の冒頭の第１主題のテンポが異常に遅い。(このテンポに近いのはハイティンク盤である。おそらく４０年ほど前に日本のテレビドラマ『部長警事』の冒頭で使わせていたのはこの演奏。)　だが、７８年以降の録音はすべて早めのテンポで、第４楽章の演奏は５９年のモノラル録音ものより演奏時間が約１分短い。(第４楽章は１０分程だから一割も違う。)これについても憶測であるが、実はこの５９年にバーンスタインがニューヨークフィルとモスクワに客演し、ショスタコーヴィチの第５交響曲を演奏し、会場にいた作曲者が絶賛して演奏終了後に舞台に上がり、指揮者に握手を求めるという有名なエピソードがある。このバーンスタインの第４楽章の第１主題こそ、高速で駆け抜ける演奏である。このことからムラウィンスキーは、Allegro(早く) non troppo (しかし早すぎず)　の解釈を変えたのではないかと思われる。３７年の初演より「社会主義リアリズムの手本」とされてきた作品の演奏の言わば「模範」を作り上げてきた５９年より前のムラウィンスキーの演奏は、おそらく５９年の録音にも反映されていると思われる。

　１９５９年のムラウィンスキー

　ショスタコーヴィチ　第５交響曲の第４楽章

　１９８３年のムラウィンスキー

　ショスタコーヴィチ　第５交響曲の全曲

　一方バーンスタインの録音は、第１、第５、第６、第７、第９、第１０、第１４番が残されているが、一見して第５番以外は「革命」がらみを避けているのだが、実は第５交響曲の愛称「革命」は作曲者の命名ではなく、「俗称」で、ベートーベンの「運命」ともども特に日本における商業主義(レコードを売る目的)的な現象に過ぎない勝手な「名付け」である。最近では「革命」「運命」を示す表記がCDのジャケットにもオーケストラスコアにも見当たらなくなった。(「田園」の場合は、ベートーベン自ら「パストラルシンフォニー」と命名している)むしろ器楽交響曲に限定した録音の事情は、アメリカの指揮者であるバーンスタインが彼の死の１９９０年以前に、「レーニンを称える歌詞」の交響曲第２番などを採り上げることは至難の業だったと思われる。ソ連が崩壊したのは翌年の１９９１年である。

ムラウィンスキー指揮　レニングラードフィルハーモニー管弦楽団

ショスタコーヴィチ　交響曲第１５番イ長調　作品１４１

バーンスタイン指揮　ニューヨークフィルハーモニー交響楽団(１９５９年モスクワライブ)

ショスタコーヴィチ　交響曲第５番ニ短調　作品４７　

　西側で、ショスタコーヴィチの全集に早くから取り組んだ、インバルやハィティンクの場合、そもそも東西冷戦時代の西ヨーロッパでは、イタリア共産党とかフランス社会党の中に認められた「ヨーロッパ社会主義(ユーロコミュニズム)」という政治思想が大衆から一定の支持を得ていた土壌があって、アメリカとは事情が違う。もっともこの二人はマーラーに傾倒していて、彼らがショスタコーヴィチに取り組む動機付けは「ポストマーラー」としてのショスタコーヴィチであったと思われる。

　話をムラウィンスキーの第１５交響曲の録音に戻すが、わたしとしては、テンポが速すぎる点と、もっと室内楽的にやってほしいという感想である。

　ロストロポーヴィチとバルシャイ

　わたしのお気に入りの２枚だが、特にロストロポーヴィチの室内楽的で落ち着いた解釈がお薦めである。チェリストとしての彼は、大音響を抑制して、「晩年のショスタコーヴィチの生涯による回顧」というわたしの勝手な解釈にふさわしい。バルシャイ盤については別の機会に譲る。

ロストロポーヴィチ指揮　ロンドン交響楽団

ショスタコーヴィチ　交響曲第１５番イ長調　作品１４１

　ところで、CDについてではないが、わたしはこのブログ記事において、主として旧ソ連の政治との関連で交響曲第１５番をはじめとするショスタコーヴィチの作品について述べてきたわけだが、作曲者の死から４５年、ソ連崩壊から２４年が経ち、今日のショスタコーヴィチの演奏にしても、また鑑賞にしても、こういう知識や背景には関わることなく、純粋にショスタコーヴィチの音楽と向き合うといあ態度、あり方で一向に構わないと思う。と言うか、そういう時代になったと思う。日本人の若手指揮者も盛んにショスタコーヴィチを取り上げる今日、確かに指揮者は、プロとして作曲家や作品の背景は研究しているだろう。このことを痛切に感じたのは、小沢征爾先生がまだボストン交響楽団の音楽監督だった３０年ぐらい前に、タングルウッド音楽祭の若手オーケストラに対してリハーサルをしている映像をテレビで見た時である。この時に稽古をつけていたのはR・シュトラウスの『ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快な悪戯』だったが、稽古の後半に小沢先生は若者奏者たちにこう語りかけていた。「君たちは、ドイツ中世のティル・オイゲンシュピーゲルの物語を知っているか、ティルがどんな人物だか知っているか？　知らないなら勉強しなさい。」というようなことを仰っていた。つまりプロの演奏家とはそういう背景を探る鍛錬をも惜しんではいけない、という意味である。

　しかし、ショスタコーヴィチの聴き手としての単なる鑑賞者であるわたしたちは、そんな背景に関係なくショスタコーヴィチを楽しんだらよいのである。例えば、ショスタコーヴィチは権力から抑圧され、プレッシャーを掛けられて作曲していたのだが、そういう権力の抑圧というのは現代でもわたしたちの世界にあるからである。アメリカで起きている人種差別(黒人差別)に、警察権力の暴力が伴っていたり、それに対するトランプの警察擁護の発言や態度を見れば、東側の共産主義がなくなったからといって、わたしたちが完全な「自由」や「人権」を手に入れたわけではないことが理解される。具体的に述べはしないが日本でも権力者が、権力をもって自らの都合の悪いことをもみ消して、わたしたちを真実の情報から遠ざけるようなことをやっている。

　ショスタコーヴィチのアイロニーの語法に、上記のような今日の矛盾を重ね合わせることも出来るし、そんな具体的な「こじ付け」を待つまでもなく、今日の社会に生きるわたしたちも、常に社会の不条理の下に置かれた精神を持っているから、社会情勢とは無媒介にショスタコーヴィチを聴くことができる。ベートーベンの生涯について知らない人でも、ベートーベンの第５交響曲が好きな人はいくらでも存在する。それと同じことであり、またそうであるからこそベートーベンの音楽は「不滅」なのであろう。そして今日のショスタコーヴィチブームは、彼が作曲家としてベートーベンと同様の「不滅」の地位を占めていることを示している。

４．『ショスタコーヴィチの証言』の光と影

　ところでわたしが高校時代に出版され翻訳された有名な『ショスタコーヴィチの証言』１９７９(ソロモン・ヴォルコフ　著　　水野　忠夫　訳　中央公論社　１９８０　以下『証言』と略す）があるが、この書籍をわたしは１９８１年に読んだ。その時の感想は、「一体この本はどのように取材されたのか？」というものだった。

　この本の「影」の部分を先に述べる。

　この本が世に出る以前、日本を含む西側では、「ショスタコーヴィチはソ連当局の御用作曲家」と見られていた。第２、第３交響曲の内容や歌詞、オラトリオ『森の歌』など知られていた作品からすれば当然と言えば当然だが、『証言』はこの「常識」をまったく覆してしまった。つまりショスタコーヴィチを、当局の思想統制に苦闘する隠れ反体制の芸術家としてヴォルコフは描いたのである。

　しかし、出版当初から、この本に対する「真贋論争」が起きた。ヴォルコフの叙述が、「１９６０年代以前のショスタコーヴィチ自身の論文やエッセイを年代を偽って使い回したものだ」とか、２０００年代になると、『証言』の各章の「ショスタコーヴィチのサイン」が「切り貼りしたものだ」という主張がなされている。

　問題を複雑にしたのは、ヴォルコフ自身が、周囲からの疑問や問題提起に対して、再三反証を求められたにもかかわらず、一切答えず、音沙汰なしで今日まできたということである。

　これについて、わたしはヴォルコフは「一発屋」だったと結論付けたい。要するに彼はジャーナリストであり、ベストセラーを得て富を得たかったということである。そして彼は、ショスタコーヴィチの内面をそれまでのイメージとは真逆の「本当は反体制作曲家だった」という衝撃的ストーリーを構想した。ただしそのようなことを発表するには、それなりの説得力のある「根拠」が必要である。よってヴォルコフは彼なりに努力し、調査し、取材した。(おそらくこの取材は彼の「捏造」も含まれている。)それは当時の西側では誰もまともに行っていなかった開拓であったことは間違いない。

　『証言』の「真贋論争」には錯綜した部分がある。それは「『証言』に書かれている内容がショスタコ-ヴィチの真実か？」という点と、ヴォルコフが自分の取材は「直接ショスタコーヴィチと何度も面会し、メモしたものに基づいていると主張していることは事実か？」とい点が混乱しているということである。

　また、研究家の一柳富美子氏は、「(イリーナ未亡人や息子のマキシム・ショスタコーヴィチなどと比べて)ショスタコービッチからの距離が遠くなるにつれて『証言』を本物と認める、という奇妙な現象に気付いた。ショスタコーヴィチをよく知る人間ほど辛辣に『証言』を批判し、ショスタコーヴィチに会ったこともない音楽家たちが、真実と思い込んでいる。」(『ショスタコーヴィチ大研究』　「『証言』のあとで」　一柳富美子　春秋社　２４３頁)と述べている。

　『証言』の「光」の部分を述べるとしたら、それは、たとえこの本が「捏造」と「でっち上げ」の部分を含むとしても、西側におけるショスタコーヴィチ像を一変させたし、ショスタコーヴィチがそのような反体制の本質を持ち合わせた作曲家であるという視点が主流を占めるきっかけとなったということであろう。

　結語

　ショスタコーヴィチという人に関すること、彼に対する研究の錯綜は、事実について「はなはだ困難な不透明性」のままである。だから中途半端な知識で彼に関する各々の情報に、自分の賛否、意見を表明することは困難を伴う。

　交響曲第１５番が、彼の生涯の回顧としてあり、第４楽章は「ソ連社会がいつか崩壊すべき矛盾としてあった」ということを表現している、というのがわたしの個人的な「聴き方」である。そういうことに過ぎない。

　ゆえに、この記事のタイトルは「破綻の予告」なのである。

　ひとまず終わり