　ショスターコーヴィチやプロコフィエフになると、音楽はどちらかというと現代ということになる。ストラビンスキーもロシア出身で、現代の直前の「ロシア音楽」となると、チャイコフスキーではロマン派そのもので、現代とロマン派の中間を見つけるのは至難の業である。

　ロシアンアバァンギャルドは、第１次大戦前後のロシアの前衛芸術運動の総称だが、特に美術界における一瞬だが華ばなしい「光」を放つ。

マレーヴィチ　『冬』　１９０９

　キュービズムの影響が見られつつも、まだ構図は具体的で、抽象画ではない。表現の方法を斬新に改革することと、表現そのものを具体から離れて行く事は同じではない。町並みや木立という具体的な世界をデフォルメするが、わたしたちが知っている「冬」からは多少ずれている。雪の上に青を基調とした光の反射を導き、「凍てつく」冬より明るい幻想的イマージュである。

カンディンスキー　『即興　渓谷』　１９１４

　こちらの作品になると、もはや何が「渓谷」なのか一瞬で理解できない。だが鮮やかな色彩に付加された「白」が、「不透明なぼかし」を醸し出し、中央に低い谷があって、底の位置が理解される。マレーヴィチの作品のような具体的な手がかりはなく、しかし抽象的な、わたしたちの心の「深み」に引き込まれる。

　ロシアンアバンギャルドから３０年後に、抽象の世界にもう一度孤立した具体を据える作品がある。

岡本太郎　『夜』　１９４７

　背景は「黒」を基調とした「夜」だが、立ち尽くす女性の心理は、闇に包まれつつ「おびえる」ことなく敢然と立ち尽くす「意思」を現す。

　この作品と同じく、「夜」を基調として「敢然と立ち尽くす」のではなく、具体的な世界において「恋人を失った」悲しみを起点として抽象(現実離れした観念)の世界に引き込まれる自我の世界を映し出す音楽が、シェーベルクの『期待』であろう。

シェーベルク　『期待』　作品１７　ラトル指揮　ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

１９００年代の初頭は、世界的に芸術表現の革新の時代だった。美術界における｢キュビズム」も音楽界における「印象派」や「１２音技法」はそうしたものの代表である。

　ロシアに関する限り、この革新は、ソビエト連邦の成立により「社会主義リアリズム」のもとに、道半ばで摘み取られてしまった。だからチャイコフスキーとショスタコービッチの中間を埋める音楽を探すのは容易ではない。しかしカンディンスキーの絵画にみてとられるこの時代の生き生きとした芸術の新たなる旋風は、今日のわたしたちに貴重な作品を残すことになった。

　今日紹介したいのは、アレクサンドロ・スクリャービン(１８７２-１９1５)である。

　まず

　スクリャービン　交響曲第３番　作品４３　『神聖な詩』

　第１楽章　闘争

　第２楽章　悦楽

　第３楽章　神聖なる遊戯

　からなる３楽章４５分ほどの作品である。

プレトニョフ指揮　ロシア国立管弦団

　スクリャービンといえば、第４交響曲『法悦の詩』だが、この第３番は楽章につけられたタイトルは作曲くの意図を示した作者の啓示である。「タイトル」ではない具体的な物語に収斂されない、一種の器楽曲であり、標題音楽ではない。『法悦の詩』を聴いたことがある方は多いと思うが、この第３番もコンセプトは同じで、一般に「神秘主義」といわれる傾向を示す。では神秘主義とはなんだろうか?

　「引用」

　英語: mysticism などが「神秘主義」と訳されている。この mysticism の語源をたどるとギリシア語: myein（眼や口を閉じる）に由来するとされており、こうした表現が選ばれたことにより、すでに通常の表現が許されない経験が示唆されている。

　神秘主義の根本的な特質は、unio mystica （ウニオ・ミスティカ、神秘的合一）と呼ばれる、絶対者と自己との合一体験にある。行うことが人間を超えた絶対者との合一であり、通常の自己からすれば絶対的に他なる者との合一であるから、それは必然的に自己からの脱却、あるいは自己という枠を突破することを意味する。つまり絶対者との合一は、脱自を行うということになり、神秘家というのは、いわゆる脱我（＝エクスタシー）を体験している者である。その体験において、我々が普段“自己”と信じているものは、絶対者の前に吸収されつくして無になり、同時に絶対者は対象ではなくなり、それが真の自己の根拠になる。このような、“自己”の徹底的な死と復活と言える脱我的合一が神秘体験の宗教的な核心となっているのである。

Wikipedia　より

　簡単に言えば、個人的な「神体験」とでもいうべきであろうか？　しかし１９世紀末の芸術とはそのようなものを目指す萌芽がちりばめられているというか、表現の多様化へと向かう現代への多様化の出発点に思える。

　人々にとって、永らく「神体験」とは、教会と聖書を媒介としてしか得られないものであった。脱自とは、神があたえるものである。そうではなくて人間自身が主体的に脱自にいたる方法としては「創造=芸術」があって、芸術とは作者の精神の発露だが、同時に作者の「神体験」としての｢美意識」でもある。

　バッハからベートーベンに至る過程で、音楽は人々娯楽から「創造」に転化したのである。だがそれよりずっと以前は、庶民には娯楽であったが、「神体験」としては「教会音楽」であり、神聖な音楽とは「神と庶民を結ぶ」聖歌として権力とともに君臨していた。ハイドンの作品はなるほど「貴族」のため書かれたが、このころ、作曲家は貴族には不可能な音楽の創り手としての「プロ」となり、宗教的テーマを離れて「神」を創作する独立を果す。純音楽としての発展は、音楽という手段だけで「神」を獲得する。

　ベートーベンが第９交響曲で、「歓喜」という「普遍」を表現したことは、キリスト教によらない「人間性」の「歓喜」の獲得という歴史的意味があった。「器楽曲」の発展は、キリスト教的神の「抽象」に取って代わる「芸術の神」を生み出すことになる。ロマン派以降の表現主義の拡大は、人間の心のうちに「神」を発見する過程である。

　この点、わたしはブログ記事「受胎告知の内実①②」(２０１９年２月１２日)記事で、宗教的テーマが現代社会の日常を背景として描かれて行く変遷を述べた。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、1850年

　１９世紀の「受胎告知」だが部屋の漆喰の壁もベットの小ささも１９世紀という時代を映している。そして「マリア」というよりもはや「少女」である。この「少女」と「天｣結ぶ光線も描かれていない。ある意味で「了解済みの」「受胎告知」の奇跡を「現代にもありうることとして」描きながら、それを信じるかどうかは「神」ではなく「人間」なのだという主体性を奪還した小さな愛すべき「弱き」人間の「強さ」を表現しているのである。この少女は「神の為に息子を産むのではない」と主張していて、ゆえに大天使に対する「拒絶」は、人間の「宗教」に対する拒絶を表現している。教会や古代の貴族の建物などここにはない。

　３８年後に無人のシチュエーションでゴッホが描いた「アルルの寝室」が１９世紀を醸し出し、ロセッティの寝室よりカラフルだが、そこはゴッホの作品である。無人であるが部屋の構図は良く似ている。

　１９世紀とはついこの前である。１２００年代のマルティーニから、もうすぐキュビズムというところまで来て、マリアは「庶民」になっている。ただし大天使ガブリエルの告知の内容には戸惑いを見せている。

余談３

　このロセッティの『受胎告知』に関して

　わたしがこの記事「受胎告知の内実」の最初の版をブログアップをしたのは、２０１９年１月２２日だが、そのあとに、自分の述べていることの是非を調べたくなって、２月１０日に、高梨秀爾先生の『受胎告知』絵画でみるマリア信仰　(PHP文庫)　を購入して読んでみたら、このロセッティのマリアは、ロセッティ自身の妹がモデルで、大天使のモデルはロセッティの母であることが書かれていた。まさにこのマリアは紛れもない１９世紀の少女であったのです。

　高梨先生の本に書いてあることと、わたしの述べていることはかなり近いものがありました。もちろん先生は専門家ですから、特に美術の技法と美術史の流れ(ゴシックとかバロックとかいう時代区分)に関してはわたしなどはおよそ及びません。違う点は、わたしは哲学史の一環としてこの記事を書いているということです。が、高梨先生も社会史としてのキリスト教の衰退と近代人間主義の台頭ということは鋭く指摘されています。

　まとめ

　(1) 神の具象化としてイエス

　一神教の宗教の中で、イエスという存在が特異であるということには大きな意味がある。

　釈迦は人間であり聖職者(僧)で、ムハンマドも預言者であり人間である。アッラーは人々の想念の奥で感じるものであって具象性はない。仏教は仏像という偶像崇拝をむしろ奨励する。ゆえに仏教美術は大発展する。具象を嫌うイスラームは抽象的な幾何学模様を発展させる。

　イエスだけが神の子として、神の具象化を示す。だが人間という具体性を得た根拠は、母人間マリアの子であるということである。実はここがキリスト教の強みである反面、教えが常に人間中心主義に逆転するという意味では一神教の自己否定を引き起こす要素でもある。他の世界宗教であるイスラーム教や仏教は、宗派分裂という現象はあっても、ルターの宗教改革などに見られる「権力と権威に成り下がった教団を人の手に取り戻そう」というような動きはなかなか出てこない。　

　イエスは人の外皮を纏って(まとって)いるという意味では信仰の対象が見える。そしてこのイエスに人間性を与えている母マリアもこの目で見ることができる。すなわち神の「可視性」である。

　(2)　具体性は芸術のテーマに転嫁する契機である。

　だから古代より教会という空間には、十字架に磔されたイエスの「像」が堂々と存在し、中世以降マリアは絵画で描かれるのである。現代抽象画の中でも描かれている対象が何かすら判別できないようなものが抽象的な「神」を表現できるかもしれない。が、「受胎告知」を描くときには、わたしたちの日常と同じ人間を描くという具体性になる。これは親しみやすく理解しやすい。しかも神聖なテーマであるということが歴代の画家たちの創造への意欲を掻き立ててきたわけで、ここに西洋絵画が世界にぬきんでて発展する契機がある。画家たちの要求を媒介して絵具やカンバスや筆もまた発展する。１４００年ごろに油絵が登場してよりリアルな描写が可能となる。当然絵画というコンパクトな作品は、そのマリア像を庶民が家に飾ることを可能にする。それまではわざわざ教会に行って壁画(フレスコ画は石や漆喰の壁に描くものである。)の前で祈りをささげていたが、自分の家の壁に掛けた「イエス」や「マリア」に祈りをささげることができるようになる。すると商業の発展で富をつかんだ豪商たちは競ってよい作品を作らせようとする。ますます絵画は発展する。

　（3)　描写技術の発展と人間中心主義

　「イエス」「マリア」が具体的な人間として描かれるということは、ひとびとの日常生活の中に引きいれて描いてもよいということである。だからマルティーニの抽象的世界は、やがて画家たち本人の日常風景にとって代わり、最後はマリアを描くのに、具体的なマリアでない現代人をモデルにするということになる。すると「マリア」とはすべての人の母であると表現することに、二重の意味が込められていくことになる。

　すなわち、一方で「イエスの母マリアは万人の母として人々をお守りくださる」ということではあるが「わたしたちの実際の母もまたマリアである」ということがオーバーラップされるのです。

　ラファエロのマリアの微笑は、わたしたちの母の慈しみを表しているのです。

当ブログより

　だが、誤解してはならないのは、音楽の楽典の理論や、絵画における遠近法は、キリスト教の世界観をより綿密に描こうとする意思から生まれてきたのであり、そこに近代科学の発展が寄与して、自然界の法則たる「音」「色」「空間」「時間」の中に、「神=宗教的か神でない自然の偉大性」の意思を再発見したという事である。

　ひとつの例として　

　セザンヌが、遠近法の破壊の先駆をなして同一絵画に複数の視点を持たせたことが最も分りやすいだろう。

。

セザンヌ　『りんごとオレンジのある静物』　１９０５

　よく見ないと複数の視点を読み取ることはできないが、陶器に差し光は左方向から向けられていて、各果物の頂点はまばらで、上方または右から光が当たっているのが分る。

　このような「遠近法」からの脱却は、実は人類史以来、はじめてではない。ルネサンスの｢遠近法」確立以前、宗教画も遠近法に頼ることができず、平面的な絵画に終止していたが、古代ギリシア文化は、「遠近法」を科学的にではないが「感性的」に獲得していて、その高みにまで上り詰めていたのに、人間はその文化をキリスト教の権力化によって自ら放棄してしまう。古代ギリシアの自然哲学者達は、「立体」の意味を問い、「３次元」という神の技たる｢空間」の本質を追い求めた。

　具体的に示された｢絶対者」としてのキリストの神の登場は、古代は「人格神」よりも後の人間社会が求めた権力の集中を象徴していて、神が人間精神の具現化として芸術に対象化されていた良き時代は失われてしまう。

　近代になって表現は多様化する一方、ひとびとが神を体験する場は「教会」であり「聖書」であるという事から解放されて、直接的に「神体験」に興奮する芸術家たちの躍動の時代がこの１００年である。

　スクリャービンの音楽が「神秘的」と評されるのは、わたしたちの捉える感覚が、それまでの表現主義とは異質なものを感じるからだが、それほど彼の音楽が「特異」かというとそうではない。彼の直前をなすロシアロマン派と、彼の音楽がかけ離れているわけではない。スクリャービンが死んだ１８１５年は、まだ革命前で、｢ロシア正教」も厳然たる宗教権威であった。ただし近代は不断に宗教と俗世間の乖離が進行して、「信仰」と「生活」は分離して行く。スクリャービンの描く「神秘」はかつてのキリスト教ならば「異端」の烙印を押されただろう。いくらかセクシャルな意味を含意しているような「エクスタシー」とか「超現実」に結びつきやすく聴こえるのは、観念の抽象事態をテーマとする芸術には付きまとう誤解である。

　スクリャービンがロマン派の申し子たったことを理解するのに比べたい。

　チャイコフスキーの交響曲　第４番　ヘ短調　作品３６

　フォン・メック夫人とともに「わたしたちの運命交響曲」と作者が呼んだという逸話の真贋はともかく、音楽や技法として似ているとはいえないにせよ、この作品が、ベートーベンの第５交響曲の精神の構成をとっているのは明らかだし、このことはショスタコーヴィチの第５交響曲にも当てはまる。そこに描かれる観念は、キリスト教の神が与えた「試練」とは無縁の、人間的「苦悩」である。

　これに対して、

　スクリャービンの音楽は、描いている対象が精神的なもので、この世の現実では出会えない世界である。というかそれを最終的に目指したのであって、最初から彼にその目標があったわけではない。

　スクリャービン　交響曲第２番　ハ短調　作品２９

　第１楽章　アンダンテ（4/4拍子、ハ短調）

　第２楽章　アレグロ（6/8拍子、変ホ長調）

　第３楽章　アンダンテ（6/8拍子、ロ長調）

　第４楽章　テンペストゥオーソ（12/8拍子、ヘ短調）

　第５楽章　マエストーソ（4/4拍子、ハ長調）

スクリャービン　交響曲第２番　ハ短調　作品２９　　

スペトラーノフ指揮　ソビエト国立交響楽団　１９８８

　この作品はタイトルなしの「器楽曲」として構成されているが、チャイコフスキーの第４交響曲と比べて極端に乖離した「神秘主義」傾向を示すものではない。むしろその影響は明らかである、第１楽章のクラリネットの主題の開始は、時間にして短いものの、クラリネットから徐々に発展する低音オーケストラのパッセージと起伏の扱いチャイコフスキーの第５交響曲の開始を連想させる。稀にスクリャービンに比肩される印象派ドヴュッシーだが、表現のアプローチはかなり違う。第３楽章で登場する木管は「自然」の直接的描写に溢れるが、ベートーベン的な直接性を逸脱していない一種のリアリズムである。ドヴュシーは自らの「印象」表現の擁護でもあろうが、ベートーベンの田園交響曲の第２楽章のビワ(フルート)とカッコウ(オーボエ)の描写を極端に嫌った。ドヴュッシーの音楽もまたベートーベンン以来の１００年の音楽表現に支えられているのだが、すでにその表現主義のひとつの完成を見たドヴュッシーには、絵画的に感性で捉える自然に、「パンの笛」のギリシア的幻想が重要であった。

　スクリャービンの第２交響曲は、いまだベートーベン以来のロマン派を超えられず、所々にドヴュッシーには理解を超える「ワーグナー」的音響にあった。

　ちなみにスクリャービンの第２交響曲の第２楽章は、どこかR・シュトラウスの響きがある。これは彼の管弦楽法とリズムの傾向として一考に価すると思う。

　スクリャービンのピアノ協奏曲　嬰へ短調　作品２０などは、まだ十分チャイコフスキーやラフマニノフの雰囲気で、音楽はとても「前衛」といえるものではない。なじみのない人でも楽しめるはずだ。

アシェケナージ　ピアノ　　マゼール指揮　ロンドン交響楽団

　最初から「神秘主義」を目指したわけではないが、そうした方向性は彼には必然だったのかもしれない。

　スクリャービンのロマン派から「神秘主義」への変遷をはっきりと見て取れるのは、ピアノ作品である。

　スクリャービン　ピアノ前奏曲集

　ピアノの技巧の達人としては、５０年前のショパンは模倣かつ目標であった。スクリャービンの「前奏曲」「練習曲」など初期の作品は、ショパンを意識し、尊敬と畏怖が聴き取れる。

　ラフマニノフの前奏曲もそうが、ショパンとは神聖な憧れであった。だがラフマニノフも同じであったと思うが、ほとんどピアノ曲しか残さなかったショパンの生き様は、ヴィルトヴーゾを極める自己目的に完結していて、時代もまたそれを許容した。ヴァイオリンにおけるパガニーニもそうである。単なるピアニストとして終わることでも生活は保障されていた。

スクリャービン「前奏曲集」　べクテレフ盤

　だが新しい表現主義は、それを超えて行く意思との対決は不可欠であった。演奏家とはプロの奏者だが、あくまでも「再生芸術家」であって、作曲家こそ「創造主」たりうる。神の技をもった「奏者」と、神を体現する「創造主」とは別の道である。

　とにかく、スクリャービンが当初は「神秘主義」を目標としたのではなく、後期ロマン派の、いわばチャイコフスキーやショパンの後継としての「天才」を宿命つけられていたのは間違いない。

　ところが、後期のピアノソナタには、調性の逸脱、リズムの複雑化があって、さながら確立した現代音楽の様相を示す。

スクリャービン　ピアノソナタ第１０番　ホロヴィツ(ピアノ)

　この飛躍は実は、ピアノの技巧におけるスクリャービンの卓越にあると思っている。交響曲の第１番～第４番はにも、「神秘主義」の萌芽は認められるが、脱調性は不十分だし、形式はベートーベン以来の伝統を継承している。これらを唯一克服しているのは、後期のピアノソナタである。

　スクリャービンの後期のソナタのピアノ譜を眺めていて、このピアノ譜をどのようにオーケストレーションするかという困難な課題が見えてくる。作曲技法に従えば、オーケストレーションは４手のピアノ譜から楽器を割り当てるが、４声を２段譜のピアノ譜にあらわしているスクリャービンの横軸に従って、４っの声部を分散させるのは簡単だが、その横の動きに無関係にちりばめられている縦軸の和声を同一楽器に容易に展開できない。

　しかしここのところが「神秘主義」音楽の目指すところである。

　「引用」

　《神聖な詩》は、1905年にレフ・コニュスがピアノ4手用に編曲を行なっている。レオニード・サバネーエフは、この交響曲は、オーケストラで上演するよりも、ピアノで演奏した時のほうが分かりやすいと述べており、セルゲイ・タネーエフのある門下生の次のような発言を引用した。「スクリャービン本人がこの交響曲をピアノで弾いた時にどんなふうに響いたかを聞きとらなければなりません。スクリャービンはこの曲を、《ピアノのための詩曲》の一種であるかのように扱ったのです。その印象は忘れがたく、オーケストラによる演奏にもまさって聞こえました。」

Wikipedia　より

　まだロマン派の色のただよう第３交響曲を一種の「ピアノののための詩曲」と評したスクリャービンの本心はどこにあったのか？

　真意は分らない。

　だが、ピアノソナタにおける「前衛」と交響曲の「浪漫派」的性格をどうにか統合しようと努力していた結論が、第５交響曲である。

　スクリャービン　交響曲第５番　『焔の歌・プロメテ』　作品６０

　前出のアシュケナージ盤のピアノ協奏曲にカプリングされている作品に手掛かりがある。

　交響曲というより単一楽章によるピアノ協奏曲である。プロメテウス神話を描写するというよりも、人類に天界から火（叡智の象徴）を授けた(神から火を盗んだ)英雄として、音楽を通じてプロメテウスを崇め奉る作品である。

　ピアノソナタの前衛は、実にこの交響に結実を果したが、それは道半ばというべきであろうか？

　だが、この作品を聴くにつけ、ピアノの独奏に込められた「神秘主義」を何とかオーケストラ化しようとする意図があり、「そうか、彼はこれがやりたかったのだ」と納得する。

　音楽的には、平均律１２音の矛盾を解消しようとして、

　「引用」

　スクリャービン本人はこの曲のリハーサルにおいて、「神秘和音中の第11倍音（基音の増4度上）は低めに演奏されるべきだ」と述べている。第11倍音は平均律上の増4度よりも約四分音低い（微分音を参照）。同様に第7倍音も平均律上の短7度より約六分音低く、オーケストラ上では音程の取り方をそのように配慮した方が、自然倍音上で共鳴することにより良く響いて聴こえる。

Wikipedia　より

　ピュタゴラ音階や純性律の響きを聴き取る能力は、おそらくピアニストとしての彼の聴覚の研ぎ澄まされた「繊細」な感覚に帰するのだろうが、彼がショパンにこだわった過去にその源流がある。

　神秘主義の音楽といえども、それを目指して最初からあるではなくて、そこにいたる過程は前段の音楽の内実にあって、突然現れるというものではない。

　スクリャービンに「浪漫派」的要素を聴き取ることが「脱浪漫派」への試行錯誤を理解することでもある。

　ロシアンアャバンギャルドは、一瞬にしてついえ、ショスタコービチとチャイコフスキーの中間を聴き取れる音楽はなかなか見つけることができないが、スクリャービンにその意義を見出すことはできると思う。

　おわり

神秘主義の意味