“風色のグッドバイ” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“風色のグッドバイ”

 私が古い友人の高坂と再会したのは、ある晩秋の昼下がりだった。余生はひっそり静かに好きなことでもやりながら暮らそうということで移り住んだ妻の郷里だった。道楽ついでに開いたカフェの前の街道をあのまるで勇者の鼻歌のようなエンジン音を轟かせて駆け抜けたバイクがくるっと引き返してきた。ドアを開け、ぬっと入ってきた長身の初老のライダーはその種の雑誌のグラビアから抜け出てきたようないでたちだった。歳月を経た再会にはよくあることだが、私たちは互いに旧知の間柄であることに気づかなかった。片隅の席に陣取った客はホットコーヒを注文し、主人はかしこまりましたといつもの手順でほどほどの一杯を淹れてテーブルに運ぶ。界隈の昼下がりはいたって静かで、精々車が走り抜ける音が響く程度だ。

「よくこんな場所に店開きましたね」ときた。

「そうですね~、つまりは世の中にはお客さんのようなもの好きな方々もけっこういらっしゃるということではないでしょうか。十分なお答えにはならないかなとは思いますが」

「論点が少しずれたかな。ま、いいか。ともあれ、一休みするのにはうってつけだ。われわれのようなライダーにはね」

「あれ、いつ聞いてもいい音だ。ご自慢の愛車ってところですね」

「他人に自慢するのは好きじゃないが、褒めてもらえるのは嬉しい。ただ、愛車っていうより相棒って感じかな」

「なるほど、いわゆるバディーってヤツだ」

「あんたも乗るのかい?」

「滅相もない。4輪も手放して今はもっぱら人力駆動の二輪車ですね。さすがに一輪車は無理なんで」

「適度な運動にもなる・・・うん? ひょっとして、あの真っ赤なドロップハンドルのパリジャンヌかい?」

「年甲斐もなく」

「なかなかにセクシーだ。ママチャリが20台は買えるってところか」

「中古ですよ。若い頃乗りたくても乗れなかったもので、車も手放したことだしちょっと奮発して」

「なんにせよ、風を切って走るってのは好い気分だ」

 ライダーがくるっと振り向いて提案してきた。

「どうんだい、ちょこっと店閉めてひとっ走りってのは。どこかいいとこないかい」

 私は少し迷ったがその提案に乗ることにした。ま、どうせ2、3時間店を閉めたところで大した不都合はない。千客万来って時間帯でもない。

「じゃ、海でも見に行きますか」

「いいねえ」

 並走するわけにはいかないので、道案内もあって私が先を走った。30分も走ればすぐ海だ。例の勇者の鼻歌交じりに追尾するライダーのバディー君には少々物足りない散歩になったかもしれないが。

 松林にバイクと自転車を乗り捨て、松林を抜けて海岸に出ると目の前に大きく湾曲した砂浜が広がっていた。ベンチ代わりの流木を見つけて二人並んで腰を下ろした。ライダーがシャレたシガーケースを開けて勧めてきた。

「いや、止めたんだ」

「ほ~、あんなに吸ってたのにな」

 「いつから気づいてた?」

「店出るときカウンターの隅にあった郵便物だな」

「なるほど」

「珍しいって名前じゃないが、オレの人生においてはたった一人の友人の名前だ。ま、その前からなんか感じてはいたけどね。お前さんも気づいてたんだ」

「首筋の二つの黒子」

 ライダーいや高坂茂は首筋を撫でながら苦笑した。

「やれやれ、自分の体の見えない部分ってのが、世界でもっとも歯がゆい謎だな。合わせ鏡なんかで見ることができないわけじゃないが、肉眼でしげしげと眺めることが絶対的に不可能な世界の闇の一部であることには変わりない」

 私は持参したポットのコーヒーをカップに注ぎ、その一つを高坂に渡した。

「特段自分の背中を自分の目で見てみたいなどとは思わないが、こんな身近なものを自分の目で見ることができなっていうこの身体の成り立ちってものの不条理には腹立たしいものを感じることはある」

「相変わらず面倒くせ~こってすな」

「わざとさ」

 互いに勝手な方向を向いて笑った。

「50年にはなるか」

「ま、そのくらいだな」

 すっと立ち上がった高坂が足元の小石を拾い沖合に向かって投げた。

「飛ばないね」

「ああ、びっくりするくらい飛ばなくなった。だから、もうこういうことはしないことにしてるんだが、ちょっとね」

 振り返った高坂が少し淋し気な苦い笑いを浮かべた。

「甲子園目前までいったエースのこれが55年後の現実ってヤツさ」

「もう青春じゃない」 

「青春ね~、そういうワードを思い浮かべることさえ稀になってるな」

「噂には聞いてたよ。君にそういう才能があったとはね」

「騒がしい学内の空気がイヤになって船に乗って当てのない旅に出たってわけさ」

「何年くらいだ?」

「7年くらいあちこちしたかな。最後はアメリカだった。そこでできたつながりで若い世代向けの服飾や雑貨を輸入する商売を始めたんだ。まだこの手の業者が少なかった時期でね。それを20年くらいやってそれは若い連中に譲って別に皮革製品の工房を始めた。前の商売で知り合った腕のいい職人を集めてね。少しは自分でもやってたんだが才能に限界を感じてさ。だから営業に専念した。人脈もあったんで、これもまあまあ巧くいって今があるってことさ。山谷がなかったわけじゃないが、まあ、不思議なくらい幸運な人生だったよ」

「おいおい、まだ総括は早いだろう」

「いやね、そろそろそういう世界からも足を洗おうかと思ってさ。疲れたってわけじゃないが、老害扱いされるのもイヤだからさ」

「そういう目に遇ってるのか?」

「そういうわけでもないが、散々若い連中とやり合った後トイレの鏡で自分を眺めたときなんか愕然としたりしてさ」

「潮時を感じるってのはあるな。ふとある日向こうからやってくる」

「お前さんもかい」

「目だな」

「出版社だったかな」

「視力の衰えにはまいったね。だから、定年ですぱっと辞めたよ」

「家族は?」

「妻が一人と娘と息子が一人ずつだ」

「そっちはどうなんだ」

「妻が3人に子供はいない」

「つまりバツ2あるいはバツ3ということか」

「3人目とは12年目だ。今50ちょい過ぎってところだな」

「やれやれ、そういう分野でも放浪癖があったってことか」

「もうこれで打ち止めだな。なかなかのヤツでね。後を任せられる」

「ま、なんにせよ今は落ち着いてるってことだ」

「あっちは飛行機でね。今頃、宿に着いてる頃だろう」

「じゃ、行かなくちゃな」

 飲み干したカップの底を覗き込むようにして高坂がしみじみ言った。

「妙なもんだな。お前さんとこんなところで思いがけなく再会して一気にこの50年が遠のいていったような気がするよ」

「そういう時間をともにしたってことだ」

「オレたち、この50年本当に生きてたのかな」

「当り前じゃないか。生きてたに決まってる。総括すれば概ね幸運だったんだろ?」

 視線を落としたまま高坂がぽつりと呟いた。

「ジュール・エ・ジム」

 私の口からもそれは自然にこぼれた。

「ジュール・エ・ジム」

 バイクにまたがりメットを被った高坂が名刺を取り出してよこした。

「後でここに住所やらアドレスやらメールしてくれ、いつか必ずまた会おう。じゃあな」

 勇者は鼻歌を轟かせながら風のように走り去っていった。

「高坂の妻女から電話があったのはそれから2か月後のことだ。もう長くはないんですと落ち着いた声で告げた。その声音からもうかなり以前から腹をくくっていたことが分かった。

 高坂の葬儀はなかなか盛大なものだった。最後列に席をみつけ葬儀場を見渡してしみじみ思った。なるほどこれが高坂の人脈ってヤツかと。老若男女、種々雑多な業界の参列者で溢れていた。高坂の葬儀に列席した後、東京郊外の息子の家に向かった。中央線のドアの脇に身を寄せて目を凝らすとあの頃と同じように富士が見えた。日暮れ前の富士は心なしか沈んで見える。棺に横たわった高坂の顔が浮かんだ。「まあまあ幸運な人生だったぜ」と微笑しているように見えた。たが、あいつの中にも割り切れぬまま胸底に抱えた秘密があったということだ。

 中央線のシートに身をあずけ、半月前の夜を思い出していた。9時を回り店を閉める片づけを始めた頃、電話が鳴った。

「お気に入りのバリジャンヌは元気にしているかい?」

 高坂だった。

「ああ、快調だ。で?突然どうした?」

 それには答えず高坂はつづけた。

「店はつづいてるみたいで結構なことだ。ま、繁盛することが迷惑そうな粋な店だから主人が息している間はまあ大丈夫だろう。精々うまくやってくれ。ところで突然だが、オレはもう長くない。察しのいいお前さんのことだから、気づいていたかもしれないが。選りにも選って膵臓とはな。もっとも厄介な臓器だ。まあ、悪運尽きたってことかな。特段悪行の限りを尽くしたってわけでもないが、まあ、色々出入りもあったし、ましかし、会ったときにも言った通り、概ね満足な旅だったよ。思い残すことは無い・・・と言い切りたいところだが一つだけあった。オレたちのカトリーヌのことだ」 カトリーヌ、オレたちのカトリーヌ、加藤小夜子。言葉が出なかった。

「彼女が突然姿を消してお前さんもこの50年心にかかっていたんじゃないか?」

「ああ、忘れたことはない」

「かれこれ20年になるかな。パリで偶然カトリーヌと遇ったんだ。信じられるか? 東京の銀座じゃないんだぜ。パリのそれもデイープな下町の街角で」

「生きてたんだな」

「ああ、だからもう50は過ぎてたが変わらず清楚でキレだったよ。・・・・・今のため息、分かるよ」

「なんかちょっと来たな・・・でも良かった」

「よ~く耳をかっぼじって聞いてくれ。北原真夜って知ってるか? 知らないわけないか。今や押しも押されもせぬ大女優だ。カトリーヌの娘だ」

 また言葉を失った。北原真夜と言えば、鬼検事シリーズという長年つづく連ドラの主役であり、歌を歌えばヒットを連発し、その上ピアノの名手でもある。ピアノ・・・そうか小夜子の血を引いて。

「面立ちはどこかお前さんに似てる」

「オイオイ、それはないよ、誓って」

「分かってるさッ。これから話すことは、断るまでもないようなもんだがここだけの話で他言は無用だ。墓場まで持って行ってくれ。セーヌ河岸で風に吹かれながら彼女自身の口から聞いたことだ」

 そこから高坂はやや絞り出すような口調で語り始めた。

「オレたちのあの時代は一言では言えない。騒々しくてきな臭くてとても落ちついた気持ちでは生きられない時代だった。その所為で道に迷った連中も大勢見た。カトリーヌがバリケードの中に入ったのは高校時代の友人に請われてのことだ。ある部屋でピアノが見つかって是非聴きたいということになってその友人が思いついたようだ。お前さんもあのバリケードの中でどんなことが起きていたか薄々は知ってただろ。ある意味普通のモラル感覚が崩壊した無法地帯だった。ピアノの音を聞きつけて別部屋で酒を飲んでいた連中がどっと部屋に押しかけてきたそうだ。なにが起きたかは言葉にしたくない。カトリーヌはその日以来しばらく自室で死んだように過ごした後、母親の勧めでフランスに渡ったそうだ。もちろん母親も同伴した。しばらくして体調の変化に気づいたそうだが、加藤家は代々敬虔なカトリックだからな。・・・ま、しかし、ものは考えようだ。だから、われわれは北原真夜というスターを得たってわけだ。別れ際に娘の写真を見せたカトリーヌは誇らしげだったよ。その笑顔を見てオレは安心して帰国したってわけさ」

「まだ眩暈が収まりきらないよ。結局、今更怒ってもしかたないってことなんだな」

「そう考えてくれ。明確には口にしなかったが、カトリーヌはお前さんに好意を持っていたようだ。お前さんにはこのことは知らせないで欲しいって固く口止めまでされたよ」

「まさか、いつも楽しそうにやり合っていたのは君の方じゃないか」

「ま、オレはこんな感じだし、気楽に話せたってことだろう。謙虚と鈍感は似ていて微妙だな」

「やかましい」

「そろそろショックは収まったようだな。気をつけろ、ある日北原真夜があなたが私のお父さんですか?なんて突然・・・」

「そんな馬鹿な」

「はは、冗談さ」

「居所は聞かなったのか」

「それとなく水を向けてみたんだが、私たちのあの伝説の季節も誰かがクッキーかなにかの缶に仕舞ったまま封をしちゃったのよ。それでいいんじゃない?ってさ」

「さすがカトリーヌだ。巧いことを言う」

「正直オレも同感だ」

「今更年賀状もないしな」

「そういことだ」

「存外元気そうだ」

「薬が効いてるのさ。本当は会って話したかったんだが、ま、こういうことだから勘弁してくれ」

「近いうちにそっちに行くよ」

「気持ちはありがたいが、それは遠慮しとく。よく聞くだろう。やつれたところなんて見られたくないってさ。オレも例外じゃない」

「分かった。希望通りにする。・・・奥さんは大丈夫か?」

「正直分からんよ。だが気丈にしてる。それを信じるしかないじゃないか。オレには結局なにもできない。たとえ演技にしてもやっぱりおろおろされるよりこっちも楽だ」

「いい奥さんだ」

「言ったろ。オレは運がいい」

「概ね好い人生だったってことだな」

「お前さんもどこかで偶然カトリーヌと遭えるかもな。そんなことでもあったら、よろしく伝えてくれ。概ね幸せな人生を終えてジュールだかジムだかはさっそうと愛馬にまたがって旅立っていったってな」

「そうしよう。いつかどこかで偶然カトリーヌと遭うことがあったらな」

「長くなったし、少し疲れた。そろそろ切るが、これだけは伝えておきたくてな。ショックでもあっただろうが知らせないわけにはいかなかった」

「いや、礼を言うよ。長年のつかえが下りた。・・・それにしてもこの世界ってのは不思議なできだ」

「しかし、だから生きてけるんじゃないか。結構面白かったぜ」

「・・・君は凄いよ。だが、東京から愛馬で来たって話はウソだな」

「当り前だ。ちょっと費用はかかったが運んでもらった。それにしてもあのプチツーリングは楽しかった。また一緒に一っ走りしたかったな。そいつあ~来世に持ち越しだ」

「オレのことプロにでも調べさせたか?」

「まあな、さすがにプロだ。アッという間だったよ」

「本当はカトリーヌのことで来たんだろ」

「奥さんの郷里に引っ込んで夫婦仲良く余生を送ってるお前さんを見たら、とてもじゃないが話せなかった」

「でもよく来てくれた。嬉しかったよ」

「まだ普通に動けたんで良かった。ともあれ、多分これでお別れだ。こうして話ができてオレもつかえが下りた。好い夜だったよ。お前さんにはもう少し時間がありそうだから心残りのないように生きてってくれ」

「分かった。そうしよう」

「じゃ~な」

 電話は切れた。一気に夜の静寂が下りてきた。それは本当のことだった。世界ってのは実に不思議なできだ。久しぶりに再会した古い友人との最後の別れだったということがぼんやり夜の闇の中へ溶けてゆくようだった。なぜかまたいつか必ず会えるという思いがほんのりと心の中に残った。だから、さよならじゃない。

 車窓から飛んでゆく外の景色を眺めながら遠く過ぎ去った日々のことを思い返した。新宿の名画座、土曜日の最終回で度々出くわすようになった3人が自然に言葉を交わすようになり、そのうち約束して会うようになった。ただ、確実な連絡方法を持たなかった高坂や深窓のご令嬢である小夜子の自宅への電話連絡ははばかられたという事情もあって連絡はもっぱら学生寮で暮らしていた私を介してということになった。大学とバイトが半々という高坂、音楽大学のピアノ科で日々練習に明け暮れていた小夜子、そして高坂同様講義に出るより出版社のバイトが忙しくなっていた私。月に1、2度1年に満たない交流だったが、夢のように楽しい日々だった。あの映画を観て以来、高坂と私は小夜子をカトリーヌと呼び、私たちは小夜子から“ジュール・エ・ジム”と呼ばれるようになった。どちらがジュールでどちらがジムかは不明確なままに。実際、映画のシーンを真似て3人で東京郊外の湖畔でサクリングに興じたこともある。そんなある日突然私たちはカトリーヌに会えなくなった。カトリーヌが不在する中でジュールとジムのつき合いもまた薄くなっていった。そして50年という歳月が流れた。私はふと一人の男のことを思った。この国を代表する大女優がこの世に送り出されることに深く関わった不届きな男。今どこでどうしているだろうか? だが怒りはもうなかった。かといって敢えて無事を祈る気にもならなかったが、なぜかきっとどこかで生きているのだろうと思った。

 高坂の都合が悪くてカトリーヌと二人だけになった夜があった。映画を観終わった後、駅に向かって歩きながら話した。

「私ね、時々思うの。この広い宇宙にはいくつも地球と同じような星があって、私たちと同じような知的生命体が暮らしていて、私たちと同じように映画なんかを観た後ぶらぶら帰り道を辿りながらこんなふうにとりとめもなく話しているの。そんなことを思いながらこうして空を見上げると向こうからも同じようにこっちを見上げているカップルがいる。なんか楽しいでしょ。それに、そんなふうに想像するとなんでも耐えられるなんでも許せるって気がしてくるの」

 雑踏の中で立ち止まり二人で曇った新宿の夜空を見上げた。避けるように流れてゆく人波の中には露骨に迷惑気な表情をする者もあったが気にならなかった。私は夜空を見上げるカトリーヌの美しい横顔を密かに誇らしく思っていた。男のしたことは許されることではない。だが、違った角度から考えてみるとまた違った見え方もしてくる。今も燦然と輝きつづけている北原真夜という現象のことだ。宇宙に散在していた北原真夜となるべきものたちが北原真夜という集合点に向かって一斉に集結してくる。そして、自らの強い意志で壁を突き破るかのようにこの世に一人の女性がその存在を現す。そのプロセスがどうだったかなんてお構い無しにだ。そんなことを考えているとその男の無事を祈らない理由もまたないような気がしてきた。突如一つの言葉が一筋の光のようによみがえった。シモーヌという名のフランス人女性が残した言葉だ。「この宇宙にどんな善もない。だが、この宇宙はよいものである」。しみじみと言葉が沁みた。それに引きずられるように一つの光景が脳裏に広がった。ダンボールを抱えた同僚や部下たちを従えて悪徳国会議員の事務所内に踏み込んだ男がそれを阻止しようと立ちはだかる者たちに向かって一枚の紙をかざしこう言い放つ。「東京地検特捜部の鬼平こと鬼塚修平です。これより強制捜査に入ります。無益な抵抗は止めてわれわれの指示に従って下さい!」。この想像はむやみに私を喜ばせた。男は生涯身を賭して罪を償いつづけたのだ。悪くない! 男が自分の分身のことを知ったらどんな感想を抱くだろう。だが、おそらく彼は生涯それを知ることはないのだ。それがもっとも手ひどい罰であり償いなのかもしれない。