本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝」 です。
第48回目は スコッティ・ピッペン。
1965年アーカンソー州ハンブルグ出身。
ネイティヴ・アメリカンの正統な子孫を誇りとしていたものの、育った家庭は12きょうだいで貧困の極みだったそうです。
兄たちの助けで高校進学しましたが、バスケットボール選手としては目立たず、高校の教師の口利きでセントラルアーカンソー大バスケット部、マネージャーとして奨学入学します。
食事に困ることがなくなったせいか、ピッペンの体は急成長。6ft8in(203cm)まで伸び、持って生まれた運動能力が開花し、選手として頭角を現しました。
NCAAのチームではない地方大学の無名選手。
それでもNBAのスカウティングはおそるべしで、1987年NBAドラフトでは各チームが 「隠し玉」 としてリストアップしていました。
指名順はなんと1巡目5位の高評価。シアトル・スーパーソニックスの交渉権を、ピッペンにゾッコンだったシカゴ・ブルズがトレードで譲ってもらい、ブルズ入団となります。
当時のブルズは、マイケル・ジョーダンが孤軍奮闘する勝てないチーム。ピッペンが入団したことで、ジョーダンもようやく優勝を本気で狙うようになりました。
史上最高のオールラウンダー
スターターに定着したのは2年目の1988-1989シーズン。
イースタン最強はデトロイト・ピストンズで、ジョーダンのブルズを毎年撃沈していました。その激しいディフェンスは暴力的ですらあり、ヒジ打ち、足蹴りは日常茶飯事。ピストンズとの試合となると、ピッペンは偏頭痛になるほど手強い相手でした。
ジョーダンの相棒としてピッペンに求められたのは要するに 「ぜんぶ」 で、長い手足を生かしたディフェンス、パスワーク、スピード、シュート力の成長は、やがて 「オールラウンダー」 の称号を得ます。
1989年、1990年とピストンズに敗れるなかで、精神的にもタフになったピッペンは、1991年ついにピストンズを撃破。ロサンゼルス・レイカーズとのNBAファイナルではマジック・ジョンソンのマッチアップを務め、ブルズ初優勝に大きく貢献しました。1992年バルセロナ、1996年アトランタではドリームチームに選出され、金メダルを獲得しています。
3年連続優勝のあと、ジョーダンが一時引退していた1994年、1995年ではブルズのエースになり好成績を挙げましたが優勝は出来ず、ジョーダン復帰後に二度目の3連覇を達成し、合わせて6回のNBAチャンピオンを経験しました(1991~1993,1996~1998)。
1998年、ジョーダンが二度目の引退を迎えるとピッペンもブルズを去り、他チームで6シーズンを送ったのち、2004年に38歳で引退します。
マイケル・ジョーダンの相棒ということで、「史上最高の二番手」 という評価に止まるピッペンですが、ジョーダンの栄光の何割かはピッペンのおかげであることは、ジョーダン自身も認めるところ。
見ている人は見ているもので、ブルズ全盛期でもシカゴのユナイテッド・センターに観に来る子どものファンはみんな、近寄りがたいジョーダンよりも、気取らない、人当たりの良いピッペンの方が大好きでした。
現在54歳のピッペンは、ロサンゼルスに在住し、ESPN局でNBA解説者を務めています。