[4793]『ぼっち・ざ・ろっく!』 と『ヤマノススメ』

 
 昨日は主人公の雪村あおいと後藤ひとりについて論じたので、今日はマンガとして論じます。しかし『ヤマノススメ』と『ぼっち・ざ・ろっく』を一緒に論じるに当たっては、劇画論がまず必要。表現、題材、テーマに絞って。例えば梶原一騎は『巨人の星』と『あしたのジョー』でそれぞれ野球とボクシングを題材としたが、前者は「父を乗り越える息子」、後者は「何度負けても立ち上がる」、「真っ白な灰になる」をテーマとして、名声は残ると考えられ。
 注意すべきは『タイガーマスク』なども含めた梶原の劇画において、表現/題材/テーマに重複がないこと。それはスポ根を終わらせたと言われるあだち充の『タッチ』も同様で、表現は繊細、題材は野球、テーマは約束と解釈でき。しかもあだちは劇画がマンガ界を席巻した時代にデビューしたこともあり、動きを含めた人体の絵は正確。ならば本題の『ヤマノススメ』や『ぼっち・ざ・ろっく』は?
 まず山が題材の『ヤマノススメ』は山を含めた外の世界に主人公を誘うのが(4巻までの)テーマだから、「題材」と「テーマ」に重複があり。一方の『ぼっち・ざ・ろっく』は、「表現」と「題材」がロックで一致。私はぼっちちゃんの(文字通り)体を張った過剰表現が、原作者はまじあきとアニメスタッフによる強烈な反発と思えてならない。『宇宙戦艦ヤマト』以後、劇画の影響か余りにも大きい日本の(商業)アニメに対する反発。
 実際、『機動戦士ガンダム』はヤマトをつぶせても、重厚な物語と自然な芝居のためにキャラデザはあり得る体形が基本。『新世紀エヴァンゲリオン』だって概ね登場人物は細身だけど、関節や腕や脚のふくらみなど、デッサンの基本は押さえてる。しかし『ヤマノススメ』がマンガ家デビューだったしろは、特に初巻はデッサンでもマンガ表現でも発展途上でした。一方のはじまあきのデビューは2012年で、『ぼっち・ざ・ろっく』の連載は2018年から。公開されている原作カットを見ても、デッサン力は確か。つまり、はじまの『ぼっち・ざ・ろっく』でもやっているだろうぼっちちゃんを主とした過剰表現は、劇画が「マンガ表現/漫画家の門戸」をせばめたことへの批判と憶測し。つまりアニメ『ヤマノススメ』てもなし得なかったことを『ぼっち・ざ・ろっく』のアニメ化ではやってしまったという意味。
 だから残るは『ぼっち・ざ・ろっく』のテーマ。実は先週の第3話で推察して、今週の「ジャンピングガール(ズ)」で確信したのは「Get a chance」、つまり「チャンスをつかめ」。
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