「生物は遺伝子の乗り物である」という定義を表明したリチャード・ドーキンスの本。イギリスの、
生物学者で専門は進化生物学と動物行動学ですが、「吐き気がするほどロマンチックだぜ」という、
ミチロウの宣言とも合致すると考え、すぐに納得。学校では生物は遺伝子=DNAで設計されてると、
教わったのに、設計図=情報が生物に命令しているような定義の理由とは?

 実際、英語圏の読者も「私たち人間は遺伝子に操られているの?」と悲嘆した人がいるらしい。が、
高度情報社会の今なら「生物」を「記録メディア」と置き換えれば、当時よりは反発を防げる筈。そう、
CDやUSBメモリ、あるいはSDカードに記録された0と1の連なりをDNAの四つの塩基に、
アプリケーションや動画や音楽など、人間にとって意味のある「表現物」を生物に準えるわけ。

 しかし生物は生きているから生き物=生物であり、人間の文明の所産と比較できるかという批判は、
当然のこと。実は両者の比較を徹底すると「ミーム」という別の概念の解説に展開するのですが、
今日は生物を「活動・運動する記録メディア」と定義して論じる。電子メディアもモノである限り、
情報=データの消失=喪失の問題が存在し。でもデジタルデータだから、そっくりの複製が可能で。

 実は遺伝子の実態のDNAはアデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン (C)で、
連ねた「二重螺旋」であり。つまりデジタルデータで、複製が容易な物質。利己的な遺伝子の理解には、
まずはCDやSDメモリを千年とか一万年置きっぱなしの状態を想像。磁性もだんだん剥がれる筈だが、
もし記録メディアが「ひとりでに」分裂して「同じもの」を作れたとしたら?

 実際、アーサー・C・クラークの『2010年宇宙の旅』で増殖する木星表面のモノリスの説明に、
月面開拓の工作機械が自ら自分の複製の作成を登場人物が指摘。月面の鉱物を加工して作るのが、
「複製工作機械」であり、分裂して増えるのが(地球の)生物という違いは持ち。

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