「管理人」の言葉で思い出すのは音無(旧姓千草)響子。
彼女が主人公となるマンガ『めぞん一刻』について、たびたび話題にしてきたアニメ、
『機動戦士ガンダム』の影響が見てとれるので、その解説を。
 恋物語として考察する場合、五代裕作=アムロ・レイ/音無響子=ララァ・スン/
三鷹瞬=シャア・アズナブル、という構図がまず浮かび。

 しかしこの構図、恋敵二人の性格や役割としては申し分ないのですが、
響子さんに該当するララァが中途からの登場なので、若干の疑問。
 むしろ、五代さんと響子さんの恋物語と、アムロとシャアの対立を対応させて論じた方が、
有益かと。つまり「音無響子=シャア・アズナブル」説。『ガンダム』の二人の実際の出会いは、
溝にタイヤを捕られたアムロの自動車を、シャアが引き揚げた場面ですが。実はそのとき、
ララァもシャアとご同行。とはいえアムロとシャア、
当初から(モビルスーツごしとはいえ)互いを意識してきたのは事実だし。

 それに響子さんとシャア、それぞれ3つの呼び名があるのは知っての通り。
 それは、音無さん/響子さん/管理人さん、
もう一方は、キャスバル・レム・ダイクン/エドワゥ・マス/シャア・アズナブル。
 あとは恋物語と対立の対称性を論じるだけ、ではないのですね。アムロとシャア、
ロミオとジュリエットと捉えてみたら? ここで扱うのはおもに一年戦争の時分ですが、
グリプス戦役の2人について引き合いに。
 ここで「なぜ地球に戻ってきたのです?」と訊くアムロに対し、
シャアは「きみを笑いに来た、と答えれば満足するのかね」と手痛い返し技。
 そこに年上の女性がたしなめる、実力を開花していない年下の男の子を投影することは、
無理なく思え。それはまさに『めぞん一刻』のテーマ。

 同性愛などパロディマンガと思われるかも。
 それが正当化できるのは、土井健郎の『「甘え」の構造』によれば、
夏目漱石の『こころ』における、「私」の「先生」に対する感情は恋、
つまり同性愛的感情と定義しているため。

 ではなぜアムロはシャアと共闘出来ず仕舞い? アムロは五代さんになれなかった。つまり、
結果的に三鷹さん止まりの役回りに過ぎず。五代さんは実在する三鷹さんを恋敵にしながらも、
死んだ人、つまり響子さんの亡夫である惣一朗さんさえ、対峙を強いられ。
 一方三鷹さんは、亡夫の存在を知っていても「3年でも5年でも待ちます」という姿勢であり、
名前さえ知らずに終わったことは、致命的。三鷹さんほどの社交性と自信家であれば、
響子さんを幸せに出来たはずで。

 アムロも同様にシャアとの対決に拘泥するあまり、その向こうのジオン・ズム・ダイクンの存在に、
目が行かなかったことは人類にとって痛恨の極み。しかもアムロはジオンの人となりを、
報道や書籍などで先刻承知。そんな偉大な父に対するシャアの思い/想いは?
 そこに思い至らなかった限界があったのが、アムロ。クェス・パラヤに対して、
必要なものを認識しながら能力がないアムロと、能力がありながら認識できなかったシャア、
その対称性を『逆襲のシャア』の最後に表現しているため、余計その思い強く。

 「ララァ・スンは私の母になってくれるかも知れなかった女性だ」
と弱音を吐いたシャアですから、ララァとなら父ジオンを乗り越えられたという認識が、
つまり彼女が五代さんだったという理解こそ。
 彼、シャアが乗り越えられなかったもの。