前略 朝日新聞社説、引用された部分を読む限り青臭い部分はあれど、そう的はずれとは思えず。
それを否定する貴方の指摘、まずは「自分の意見や主張を反映する限りの国家に対する愛」は、
そんなにいけないものなのか。「反映」が「実現」に置き換わっていたら、
青臭い中坊の駄々になるけれど。まして「妥協が必要なときは妥協して」という文言あり。
私なりに社説氏の主張を補うと、意見をたたかわしていくうちに連帯感が生まれ、
その連帯感の対象を拡大していく方法が、より健康な愛国心という主義。
また「民主主義とは極言すれば多数による少数の支配を正当化する論理と制度」
という論理はまさに極言であり、「声なき多数派」という問題無視。
私の論理は、窮屈な存在である国家は強制力があるが故、国民を守って当然というもの。
ですから人質になった人たちを、脇が甘かったかも知れないけれど、自業自得の不心得者など、
間違っても定義することは反対。政府や与党が責任転嫁のために喧伝した事実を知れば、なおさら。
「延長された表現型」を読了しているので指摘する権利があるけれど、
貴方の、「社会」が「拡張された表現型」として定義している部分は誤解を生み勝ち。
私の理解では延長された表現型は「遺伝子に直結した行動様式やその結果」ということだけ。
つまり昆虫の巣やビーバーのダムが、その代表者。一方で社会や国家は、
脳が生み出した、私が伝播子と訳すところのミーム。
それでも愛国心が必要というならば、よく云われることですが、
時の政府や政策を賛同することにすり替えられる事例、数多。
<日の丸>や<君が代>を強制という形で定着させようとするのが政府の方針であれば、
不健全だとして反発する教師が出てくることは、まず自然。
それでも教育基本法の理念の人材が多く育っていないというのなら、
60年代、70年代、80年代、90年代それぞれの、学生の問題点と、
教育行政の場当たり的な対処の仕方を考察してみれば、貴方の主張が結果論だということ、
十分理解できるものと。私は政府は、衆愚政治を進展させたという認識。
早々
それを否定する貴方の指摘、まずは「自分の意見や主張を反映する限りの国家に対する愛」は、
そんなにいけないものなのか。「反映」が「実現」に置き換わっていたら、
青臭い中坊の駄々になるけれど。まして「妥協が必要なときは妥協して」という文言あり。
私なりに社説氏の主張を補うと、意見をたたかわしていくうちに連帯感が生まれ、
その連帯感の対象を拡大していく方法が、より健康な愛国心という主義。
また「民主主義とは極言すれば多数による少数の支配を正当化する論理と制度」
という論理はまさに極言であり、「声なき多数派」という問題無視。
私の論理は、窮屈な存在である国家は強制力があるが故、国民を守って当然というもの。
ですから人質になった人たちを、脇が甘かったかも知れないけれど、自業自得の不心得者など、
間違っても定義することは反対。政府や与党が責任転嫁のために喧伝した事実を知れば、なおさら。
「延長された表現型」を読了しているので指摘する権利があるけれど、
貴方の、「社会」が「拡張された表現型」として定義している部分は誤解を生み勝ち。
私の理解では延長された表現型は「遺伝子に直結した行動様式やその結果」ということだけ。
つまり昆虫の巣やビーバーのダムが、その代表者。一方で社会や国家は、
脳が生み出した、私が伝播子と訳すところのミーム。
それでも愛国心が必要というならば、よく云われることですが、
時の政府や政策を賛同することにすり替えられる事例、数多。
<日の丸>や<君が代>を強制という形で定着させようとするのが政府の方針であれば、
不健全だとして反発する教師が出てくることは、まず自然。
それでも教育基本法の理念の人材が多く育っていないというのなら、
60年代、70年代、80年代、90年代それぞれの、学生の問題点と、
教育行政の場当たり的な対処の仕方を考察してみれば、貴方の主張が結果論だということ、
十分理解できるものと。私は政府は、衆愚政治を進展させたという認識。
早々