ぼんじょるの!イタリア!

おっっっっっっっっそろしいほど間空いて更新します。

忘れてたわけでも、ネタがなかったわけでもないんですが…

なんとなく更新めんどいなってなってる今日このごろ。

 

実はなんですが、夏休みの間だけ丸々一月タリに行って参りました。

冷静と情熱のあいだを読んでからイタリアに取り憑かれたワタシ…。

気づいたらイタリア語の本を買い、家族の後押しの元、現地語学学校を申し込んでおりました。

 

イタリアと言えばイタリアン!ご飯ご飯!って感じだったんですが、

実はヨーロッパ初めて民なので、景色の綺麗さに圧倒されて食事に関しては今ひとつ印象が薄いです。

 

滞在先はイタリア パドヴァ。

学園都市なので今住んでいる台南とちょっと似ています。

治安もいい方なので割りとゆったり過ごせました。

1ヶ月なので在住というよりは長期観光。完全に観光客の過ごし方をしたので、あまり住むという面では分からないことも色々ありますが…。個人的な感覚としては東京より治安いいぞ???

女子一人でも問題ない。みんな、イタリアに行くのだ。

 

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今回はパドヴァを拠点に、ヴェネチア、ボローニャ、アーバノテルメ、トレビーゾ、フェラーラ、ロビゴ、ベローナ、ローマに一人旅しました。有名所のミラノやフィレンツェは夏休みシーズンで人が多過ぎたため断念。

”冷静と情熱のあいだ”が好きと言いながら聖地巡礼しない系クズです★

でもドゥオモはどこも似てるので…(言い訳

そんなこんなで、もう台灣には戻ってますが、暫くイタリアの記事を更新したいと思います。

 

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今回受け入れしていただいた語学学校はベルトランドルッセル。

夏休み期間中は臨時講師もいるので授業の質はちょっとバラバラなようですが、1ヶ月のみの観光客としては楽しく和気あいあいとした雰囲気の授業は好きでした。

 

 

食事はもちろんパスタ、ピッツァ、パスタ、パスタ、ジェラート!!

ってな感じで、本当にります。

長期滞在者の中にはビーガンの人も多く、実際に食べてみると意外とイタリアのビーガン食って台灣のより美味しいんです。

長く住むならビーガン食をうまく取り入れると太らないのかも???

 

これ、朝ごはん。

1ユーロのセットです。カプチーノとブリオッシュ。

家族いわく、フランスのブリオッシュはこんなんではないらしく…。

国によって色々あるんですねぇ。

イタリアでは甘いパンは全部ブリオッシュでした。

んでもって朝食は基本これ。

 

最終日には飽きが来て、朝は水のみ!みたいになった。

 

 

パドヴァでの生活はこんな感じのご飯をひたすら食べながら

博物館や美術館や遺跡を徒歩で延々とめぐる感じでした。

語学学校が朝9時から1時までなので、観光の合間に学校行く。みたいな雰囲気。

 

イタリア語はゼロレベルからの参加でしたが、言語交換やイベント参加のお陰で割りと簡単な会話ができるくらいにはなりました。

ま、一ヶ月ならこんなもんかなぁ(´-﹏-`;)

先生が英語できない人だったこともあり、イタリア語、ホントに伸びました。ありがとう先生。

 

第一回はここまで。

一人観光したところを順に紹介して、10記事くらいでまとめるつもりです。

しばしお付き合いください。

 

では!

慣れすぎて暇

台灣の大学生活も2年目。ついに選課(履修申請)失敗して、新学期早々履修単位足りない疑惑なんですがww

とりあえずあんまり興味ないけど人の少ない科目を2つほど申請して保険かけた上で

人気の科目9つに志願届けだして抽選待ちなうです。

 

でもって、一応保険の科目にも出席しとかないと抽選はずれた後で地獄を見るので嫌々出席しています。

でも退屈すぎて授業中にブログ更新し始めるレベルww

抽選当たれば絶対こんな講義とらないわ👏

 

教授日本人嫌い過ぎな。

台灣人は親日だと言うけれど、一部の人が熱狂的なのであって、日本人嫌いな人は割と嫌いだよってことを此の4年で学んだよね。

 

まぁ大学だし色んな人がいるし、学生なら関わり合いになりたくなくとも同じ講義履修してたら会っちゃうもんな。

それに関しては仕方ないと思うし、私レベルの中国語の奴と同じグループでレポートやらされる子は可哀想だとすら思う。

ってことでグループより個人プレーできる科目をできるだけ履修したい。(私は元々コミュ力とか協調性がない。)

 

今、嫌々とってるのは文学歴史なんだけど、どうしたって日本統治時代からは逃れられないわけで…

すると統治時代の良いことも言うけど悪いことも言うわけよね。

統治時代に日本軍が何をしたかなんか日本の歴史では全く持って登場しない。

その部分を深く集中的に語られて、意見を言え!なんて言われた日にはもう……しんど( ´Д`)=3

 

私がやったわけでもないし、なんならその話初耳ですし?

 

感覚的には他県の人に「100年前、お前と同じ県の出身者がこんな悪いことしたんやで?なぁ?どんな気持ち?同じ県民としてどう思う?」って聞かれてると思って。

 

解答はもちろん「知らんがな。」一択。

ここで私が謝るのも違うよね?

かと言って肩を持つのは無理な内容だし…。

教授とか生徒は私に一体どんな回答を求めてるんだろね??

 

 

もう已に5回当てられて心折れそう。マジでこの授業とりたくないわ〜。

教授、興奮すると台湾語混ぜ始めるのもしんどい。

小刻みに混ぜてくるんだけど、全然違う言語過ぎて最早ネタにしか聞こえないレベルwww

どんな感じに聞こえてるかっていうと

「日本統治時代JHD@(#DNUこの前の32頁IOHD@!*いつかJOJ@J@大体がこんな感じであった」

…みたいな?バグ?

 

抽選どうか当たってくれぇ…。

3時間もこの教室に座ってる意味が見いだせない。

こんな身にならない講義とったら学費もったいない気もする。

 

 

後2時間。暇。

ここ数年の報告

無事に大学も2年生後半。新学期の履修作業も終わり、いよいよ卒論の準備です。

就活に関してはバイトと兼ねているので底また後ほど書きます。

 

長らくブログを休んでいました。(サボっていたとも言うw)

その間別段変わったこともなく、大学に入ってから日常生活が非常に単調になりました。

 

台灣で語学学校、一人暮らし、良ぐらし、引っ越し、ゲストハウスでバイト、カフェでバイト、フリーライターのバイト、サポートセンターの事務バイト、ジム通い、一人旅…

などなど、色々と初めてのことを積み重ねてまいりましたが、ここ数年歳のせいなのかあまり新しい出来事に刺激を受けなくなってきた挙句に、仕事以外で人と関わるのが面倒になってきました。

で、このままじゃヤバそう(主に就職後のコミュ力的な意味で)と思い、此の夏から又新しいこと始めようと思います。

 

もともとコミュ力がない私。なのに育った環境のせいか無駄に猫かぶり能力だけが高い私。

年々なくなる外見への自信。確実に減っていると確信できる体力。気づけば同級生が子持ち既婚者ラッシュ。

 

このまま台灣でのんびり2年過ごしてたら、なんの収穫もないままつまらない社会人になりそう。。。。

ってことで、とりあえず台灣のバイト生活もはや3年、地味に使うあてのない「もしも貯金」も溜まったところなので

思い切って今までずっと行ってみたかったイタリアに「住んでしまおう!」と思いました。

 

旅行しようと思ってたんですが、短期の女一人旅ってなんか失恋旅行みたいで嫌だなと思ってww

せっかくだから今勉強してるイタリア語磨きにいきたいなー。そしたら1週間じゃ短いなー。

なんてぐだぐだと考えて、、、、気づいたら申し込んでました。語学学校。

正直、、、、

勉強、すっごく嫌いです。

学校、死ぬほど嫌いです。

でもなぜか台灣の語学学校だけは2年も続けることができたので、今回も語学学校で頑張ってみようかと。

 

今のところイタリア語の能力は本見ながら観光会話できるくらいしか無いww無謀ww

でもよくよく考えたら最初台灣行った時って予習せず、中国語の本すら買わずに行ったなぁ…

じゃ、今回も大丈夫かな。多分。

ってことで、2年の新学期は単位取りに集中しつつ、イタリア語もやりつつ、バイトに勤しんで金を貯めよう。

と思ってます。頑張れるトコまで頑張る。

 

申込んだのはとりあえず夏休みの期間中。そっからは金の様子見つつって感じで。

 

では。

 

好久不見

お久しぶりです。

冬休みの一時帰国中です。

 

この休みは夏休みみたいにパリピにならず、黙々と家の手伝い、通訳業務、バイトの翻訳、現地の人に頼まれたものを仕入れ買い付けするバイヤー業務に徹しております。

 

堂々と働けない外国人なので、台湾版メルカリにて日本で仕入れた商品を、不用品のカテゴリで販売していますwww

あとは頼まれた物を買って持ち帰る代理購入。

最近依頼品のリストを見ていて気づいたんですが、少し前まで依頼品は大体台湾国内だと高いものを安く手に入れたい人からの依頼でしたが、ここ数年は変化していて、お金がかかってもいいから日本にしか無いものが欲しい!という方が増えています。

台灣も経済的な変化が大きいですね。

 

 

実際台灣に住んで4年目、あらゆるものが高騰化しており、若干住みにくくなっておりますw

今回帰国前に台灣で「日本のほうが安いかも〜」と思って諦めたコスメの類、ドンキでみたら10円ほどしか値段の差がなかったです。調衝撃。

 

したがって今回のお買い物はメルカリとかで遠方のものをお取り寄せがメインになりました。

どこでも買えるものは台灣で買います。

 

コスプレ衣装とかは断然台灣のが安かった…。

服は日本のが可愛いけど、値段は可愛くない。

 

 

今回は友達に会いまくってパリピらないんで、仲いい女友達2人くらいにちょこっと会って、ひっそり帰国します。

台灣基盤の生活が馴染みすぎて最近は台灣に「帰る」感のが強い。

来学期の選課も終わったばかりけど、そろそろ違う国行って勉強の糧増やしたいなーと思い中。

 

 

帰国

お久しぶりです星駆登です。
大学1年、初の夏休みにて長期帰国です。
何気にこんなにも長期で帰るのは珍しい。今年の夏も友達と会って、遊んで、買い物して、バイトもして
台南で勉強とバイトばっかりのクッソ真面目な日々を送っている分取り戻す勢いで最高の夏にします!!!



長らくちゃんとしたブログを書いていなかったのでどこまで何を書いたか思い出せませんが
とりあえず変わったことといえば大学生になって人付き合いが極端に減ったことと、
語学学校の頃よりも台南に慣れすぎて買い物もいかないし、寧ろわざと夜と午後の講義を選んで3時くらいからしか表に出ないヴァンパイアのような昼夜逆転生活紙についたことです。。。

あ、あとスマホがiPhoneになった。
ファッションとメイクの系統がロリ系からギャル系にシフトした。
髪の毛がどんどん派手になった(笑)
くらいかな?

あとはお手伝いしていたゲストハウスの方に色々あって住み続けることが難しくなったので
ついに外に一人暮らしを始めた!


あ、意外とビッグニュースありましたわww
なんかその都度その都度本当に忙しくて、引越ししなきゃいけなくなったときは中間試験真っ最中で、
バイトしながら家さがしつつ、試験勉強もして、レポート書きつつ荷物を移動して…
ってかんじでブログ更新する暇なんてなかったQQ

1年の前期より後期の方が、引越しを機に私生活に変化が出て大変だったイメージ。

2年になるに向けてこんなんじゃやばい気もするけど、もう引越しないし、またそろそろサークルにも復活しようかなー
なんて甘いこと考えています。
ギターも長いこと弾いてないや。
この夏休みはやりたいこと全部やって台湾戻りたい!!!!

・ギターの練習
・ペン字の練習
・毎日運動(期末の期間にサボったランニングとストレッチ)
・自室の断捨離
・ブログの更新
・中国語の勉強(復習も予習も)
・お風呂にゆっくり入る
・自分の専科に関係ある土地に旅
・友達に会う
・買い物する(生活必需品とか食品じゃなくて好きなもの)
・読書をする
・メイクをして、おしゃれする!!

これが今のところのやりたいこと。
大学入ってから身なりをしっかりすると教授に怒られる、日本ならありえない現象に遭遇するせいで
大学ではすっぴんメガネ、ジャージとかジーパンTシャツ、リュックという残念な出で立ち。
髪も派手すぎると目をつけられているのでいつもお団子黒ネット。
服を着る楽しみすらないのは地獄。

あと、時間に追われない読書がしたい。「あと何分できる」じゃなくて「あと何冊読もうかな」にしたい。
台南の生活は時間をどれだけうまく使えるかが勝負!みたいなとこあったけど、日本にせっかくいるなら、ちょっとは心休まる昔の生活を取り戻したいよね!

ついでに期末でガチガチになった肩をなんとかしたいし、体のガタも治したい。

ついでにバイト以外で日本語使わないっていうストレス環境にいるから日本の友達と会っていっぱい話したいかなー。内容はなんであれ、仕事で好きでもない人とくだらない話をするなら同じくだらなさでも好きな友達とがいいよね!!





色々なことがあった二学期。新しいことにも半ば強制的にトライして、台南に一層馴染んだ気はするかな。
これでもうすぐ台南4度目の夏がやってくる…。

部屋の荷物、黴びるのが怖いから全部トランクに詰めようとしたけど、僅か20キロのトランクなんかには収まりきらなかった。この3年、私がここで暮らしてた痕跡がこんなにあったんだなってしみじみしたよね(笑)
まぁ逆に収まっちゃってもつまんないと思うし、これで戻った時にカビだらけでもそれはそれで歴史としてカウントしようと思って全部おいてきたよ(笑)(笑)

この夏が折り返し地点。

一緒に台南にきた友達はもうみんないないし、私の最初を支えてくれた人たちももうみんないないけど
あの頃の目標「今度は自分が誰かの支所を支える人になる」っていうのはバイトの面で緩やかに達成されつつある。
あと3年と数ヶ月。これまで過ごしてきた時間や、託されただれかの時間や期待を無駄にしないような3年間にしたいと思う。
大家好、真的好久不見、こんにちは、ほんっっっとうにお久しぶりです星駆登です。

使い古された「最近忙しかった」という言い訳を今回も使わせていただきます。

このところずっと読書ログばっかり更新していたので勘のいい皆様はお察しかと思いますが
そう!すっとレポートに追われていました。

文学部のレポート量舐めてちゃいけない。


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【フォーラムにいきました】

先日バイトの一環で台北の台湾留学フォーラムにアドバイザーとして参加させていただいてきましたが
よくある質問としてやっぱり一番多いのが「課題ってどんな感じ?」でした。

まぁ学部にも、大学によっても差はあると思いますが、うちの大学の文学部はかなりえげつないです。
日本の大学がどんなものかはわかりませんが、同等、もしくは厳しめ。

コピペで通る日本のレポート。という言葉を耳にしたことがありますが、こっちのレポートは割と自分の意見をメインに書かされることが多いので、コピペが使いにくいのが難点です。
特に私の場合「お前は日本人なんだから、日本人の視点でこの問題について書いてこい」と言われることが多く、自力で仕上げる必要性がかなり高めです。


先日のフォーラムでも実際に提出した課題や、講義のPPTなどをまとめた冊子を無料配布しましたが
私の拙い中国語がどれほどみんなの役にたつのか…。
今更ながらに恥ずかしくなってまいりました。

最近ここを更新していないせいでDMでの質問も減りましたが、もし台湾留学を検討の方でフォーラムで配ったレポートサンプル冊子欲しい方がもし!もし!いらっしゃれば連絡を下さいませ。
郵送なり、PDF添付なり対応します。



【よくある質問①】
さて、気づけば台湾で3度目の誕生日を迎えました。
記念すべき20歳の誕生日は大好きな先輩と海に行って花火して、、、、、
あのお陰でずっと台湾で頑張ろうって思えたなぁと、今でも思い出すたびに先輩への感謝で一杯になります。
もうあの当時のメンバーは誰も身近にいなくなってしまったけど、ここで一人まだ頑張っていこうと思います。


そうそう!フォーラムに来ていた子の中で高校1年生で私と同じく高卒から2年かけて語学学んで進学志望の子がいて、「一番辛いことはなんですか?」って聞かれたけど
断然こういう「見送ることが増える」ってことだと思います。わたし的にはね!
あんまり人とのつながりを大事にしない人とか、一期一会を楽しめる人なら大丈夫だと思うけど。

語学学校時代の最高の仲間はもうみんな地球のあちこちに散らばっています。

個人的には出会った人、一緒に出かけた人、一瞬でも優しくしてくれた人とかに必要以上に思い入れを持ってしまうタイプなので、古い集合写真見ながらもう誰もここにいいないんだなぁと寂しくなることは多いです。

【よくある質問②】
あと、フォーラム中に2度3度聞かれたのが言葉の問題
わたしやっぱり語学学校の時は意外とできてた方だったし(日本人だと漢字ある分強い)ちょっと自分めちゃくちゃ中国語上手くなったんじゃない!?位のスタンスでいましたが、
大学進学後は語学学校A班に逆戻りした気分です。
本当にみんな何言ってるのかわからない。
書いてある文も半分以上わからない。
この2年間、なんだったんだろう??と思うくらい、THE外国人対応にさらされ続けます。
これに関しても一度高まったメンタルを上からガンガン打ち込まれますので、なんとか頑張って折れないようにすることが大事です。

私の場合、女性の話す言葉は割とOKですが、年配の男性の話す中国語が聞き取りにくいです。
あと、若い子に多い語尾が切れがちな喋り方をする子の言ってることもわかりにくいです。
表情が変わりにくい子との会話も意図が読み切れなくて冷や汗もんです。

言葉に至ってはきっと一生「外国人」です。
最近バレないようにすることを諦めました。せめて日本人韓国人とか観光客って言われるのを防ぐ為に頑張って
香港人とか大陸人、ハーフ?って言われるあたりの高みを目指していく位のモチベで頑張りましょう。。。


【最後に】
もうすぐ、台湾生活4度目の夏がやってきます。
フォーラムで出会った3年前の自分みたいな夢のかたまりに触れて、台南に馴染みすぎてしまった自分にちょっと反省しつつ、今後も頑張っていきたいと思います。
すいません、今回のブックレビュー、メモ用なので日本語版はないです。
レポート多い…最近レポートと倍tの終われる日々でブログ更新したくてもネタないんですよ。
面白いことっていうかネタにでることがないワケじゃないんですけど…。時間がない。本当に。

気づけば全然写真撮ってないし(笑)

スマホの画像フォルダ開いたら講義のメモ用写真ばっかりでゆうつお花の写真が一か月前に一枚…

そういや最近ご飯の写真も撮ってないなぁ。

あ、後気づけば誕生日過ぎました。

大人になると誕生日気にしなくなるって言うけど、あれ本当ですね。

今頑張って、将来は自分の誕生日を祝えるような余裕のあるババアになりたいです!!!!!



Michel Foucault,1992,《規訓與懲罰--監獄的誕生》
這本書內容很令人震撼,開頭敘述的處決儀式,很令人不忍,但這種殘酷的懲罰方式,隨著時間流逝,刑罰漸漸的從公開處決的酷刑慢慢過渡到無痛苦和隱密的空間下,Foucault認為這證明了現代處決的儀式有雙重的進程,即示眾場面的消失和痛苦的消失。如法國一七九一年的法典為例,凡處死刑者皆處以斷頭,這代表了幾點意義,無論犯罪者的身分和地位,相同的罪行受到的懲罰是一致的。其次,對犯人的死刑將在一瞬間,以一次打擊完成,不再戲劇般的拖延時間與施行殘酷的懲罰,因為這對犯人而言,實在過於殘忍。第三,懲罰只針對個人,這將使的懲罰的恥辱性對犯人的家庭影響最小,不至於使家人承受污名的恥辱與傷痛。



但這些懲罰都是加諸於肉體之上,但慢慢的懲罰的重心不在是製造疼痛的酷刑,主要的目標慢慢演變成剝奪財富或權利上。但如果最嚴厲的刑罰不再施加於肉體,那麼它施加在什麼之上呢?書上討論到如果對象不再是肉體,那就必然是心靈。以Mably的話來總結這個原則的話就是「如果我來施加懲罰的話,懲罰應該打擊靈魂而非肉體。」這有什麼重要性嗎?這代表了一個新的、重要的歷史時刻開始。懲罰有形的場面―肉體和鮮血退開了,躍上舞台的的是無形的心靈層面,也因此司法機構必須穿透心靈這種無形的層面。



也因此這本書的目的主要是在論述關於現代心靈與一種新的審判權力之間相互關係的歷史,論述現行的科學―法律綜合體的系譜。書名是《規訓與懲罰》,書的主軸也就掌握在懲罰的脈絡上, Foucault在研究懲罰的過程是聚焦在權力策略的後果上,而他認為在研究上認為這種研究應遵循四個原則:

1.如果將懲罰視為一種複雜的社會功能,那麼對懲罰機制的研究,就不會單純的限於「鎮壓」效應和「懲罰」方面。

2.分析懲罰方式時不只將它視為法律的後果,也將其視為普遍行使權力的技術的一種領域。

3.不要把刑法史與人文科學分開來看,這兩者並不是獨立的兩門,而是要去思考與考慮這兩門是否有相互關係,是否存在著某種共通的本質。

4.試圖來發現心靈的層次進入了司法形式的舞台上以及科學的知識被纳入法律實踐發生改變的效果。



所以根據Foucault的研究原則來看,我們分析具體的懲罰制度,是將具體的懲罰制度當作一種社會現象來分析研究,而不能從刑法上的角度或單純的從司法結構與體制上來解釋,當然也不能單純的以道德的層面來思考。一般普遍都認為懲罰措施,是一種消極的機制,這應該是源於懲罰措施鎮壓、防範、消滅等的功能,但懲罰措施其實還有一系列積極的、正面的使命與效果,而這也是在我們的研究中所必須要揭示的。



人與權力關係也是Foucault在書中探討的一點,人因為處在政治領域中,所以人基本上是因為有生產能力而被賦予權力和生產關係,也正因此,權力關係直接控制著、籠罩著、給它烙上標記、規範著、折磨著、強迫它完成某些任務、遵守某些禮節以及發出某些符號。這種對人的控制,我用我自己的看法來解釋就是一種權力關係的內化,人因為被權力所逼迫,而外在的權力關係也逼迫人進而去完成其本身的任務,我的解讀是這樣,但感覺人有點被權力關係逼迫的黑暗感。



接下來我想探討書中Foucault對權力和知識關係的分析,Foucault認為權力與知識是互相指涉的,因為權力產生知識,而權力鼓勵知識並不因為知識為權力服務,而權力使用知識也不光是因為知識有用。我將這段解讀為權力與知識間應該拋棄其利害關係的對立,而是要看權力關係與知識如何把人體轉為知識對象,這樣說起來的話,人又成為臣服於權力之下的奴隸,怎麼感覺都這麼悲慘啊。



看完Foucault的《規訓與懲罰》會讓我想到大一上選修的通識課程罪與罰,在課程上討論了刑法存在的意義為何呢?其實刑法的存在意義其實並非在於以匡人入罪為其要務,而是作為社會最後手段原則來制衡,意思就是說其實刑法並非要將人定罪,而是為了維護社會正義機制的最後手段。而死刑,就是其中最為嚴厲的一種刑罰方式,以剝奪犯人生命的一種刑罰。



這幾年來,討論死刑是否存廢的聲音始終沒有消失過,如果我們以Foucault的刑罰演進的歷程來看,死刑廢止的聲音出現好像也不奇怪,從當初公開處決的嚴厲酷刑,慢慢的演進到隱藏式,快速較無痛苦的方式,不在對外公開的行刑方式,甚至提出了以打擊心靈,而非懲罰肉體的論調,其實死刑打擊的並不只是肉體,對心靈的壓迫更是巨大,曾經看過一篇報導,它說死刑犯在要槍決的那天凌晨(這篇報導的時候,處決還是在凌晨,近幾年從台北看守所開始,以改成晚間執行槍決),從看守所走到刑場的短短幾百公尺的距離,卻幾乎沒有犯人能夠自己走過去,幾乎都是要法警架著腋下托著走過去,這樣的心靈上的打擊夠強烈吧,我想這種心靈上的折磨與煎熬,絕對會勝過處決肉體上的那聲槍響。



我看這本書時,一直想到我小時後看的一部國片,叫做「我在死牢裡的日子」,陳松勇主演的,我看過兩三次吧,這部片真的令我印象深刻,小時後看的,但到現在幾乎全部的情節都記的住,這部片裡有很多情節跟Foucault提到的情境都可以對照,「對犯人的死刑將在一瞬間,以一次打擊完成。」,在電影中主角最後要被槍斃時,趴跪在地上,法醫在他背後心臟的位置畫了個圈,可是行刑的法警是個新手,第一槍射歪了,沒有一槍斃命,導致主角多受一次的痛苦折磨,這真是一種殘忍的畫面。還有一幕是主角的老婆要帶小孩出國,原因是因為小孩的朋友、同學都會取笑他的爸爸是個死刑犯,雖然受到刑罰的是

犯人本身,但這個社會的價值觀押諸在犯人家屬身上的枷鎖與異樣的眼光,卻是無比沉重的,真的是一人犯法,全家遭殃。這部片子的整體感覺很黑暗,但也透露出一股很濃厚的氣息,就是自由,在片中每個人身上都是背負著死罪,有的人身上的死罪還不只一條,他們渴望生存,也對過去的一切懺悔,但為時已晚,劇中有個雜役叫阿坤因為監獄早晚要點名,而他在喊點名時,語氣很像減刑,所以大家都很喜歡它輪值,電影沒有多說什麼,但可以表現出那種對自由的渴望感。而最後一幕是主角被槍斃了,一個跟他很要好的雜役在幫他把腳鐐敲掉時跟一個獄卒的對話:「你幫他把腳鐐敲掉,是做善事,因為你幫他獲得自由,而我就不同了,每個犯人的腳鐐都是我架上去的,好像是我送他們去死的。」其實不管是獄卒、法警、法醫在做這些事情都是出於職責,但感覺他們就像是劊子手,犯人在行刑的空間下,反而成了受害人,我想原因或許死刑本身就是一個悲劇吧,犯人都是悲劇英雄吧。

人都想活的有尊嚴,或許刑罰的本身就是一種壓迫吧,當人犯錯處於被懲罰的空間下,都無法固守其原有的尊嚴,只能任憑社會強大的制裁力的欺壓,這是社會創造出來的悲劇,但也希望有天社會正義的實踐能變成一種喜劇。

 

G・ガルシア・マルケス「十二の遍歴の物語」に収録されている「光は水のよう」を読みました。マジックリアリズムのエッセンスが詰まった短いながら考えさせられる作品です。

 

文学読解の課題で同じタイトルの台湾人作家の作品である吳明益の「光は水のよう」と同時に読み進めていましたが、なんせこっちの方は子供用なので比較的早く讀了。

 

 課題の内容はこちら↓

 「馬奎斯與吳明益的同名小說〈流光似水〉的關係」 

(訳:マルケスと 吳明益の同一題の小説「光は水のよう」を読みその関係性を述べよ)

 

… はい無理ー。

 

まず馬奎斯が「マーキス」なのか「マークス」なのか「マルクス」なのかで悩み、さんざん検索しまくったら「ガブリエル・ガルシア・マルケス」だったっていう…。長い上に日本語だとG・ガルシア表記のものが多く、マルケスまでたどり着かない罠。 結局あらすじを日本語で読むの諦めて原文読みました。思ったより星の王子様よりの哲学感漂う作品でした。

 

ここからはレポート用下書き↓

 

♦♫♦・*:..。♦♫♦*゚¨゚゚・*:..。♦♦♫♦・*:..。♦♫♦*゚¨゚゚・*:..。♦

二組の対比

対比という言葉であっているのか自信が持てませんが、二対の言葉がこの作品では印象的です。「光」と「水」、「マドリード」と「カルタヘーナ」です。

 

光と水

光と水は似たものとして扱われています(だから対比という言葉は不正確かもしれません)。「私」(私が誰なのかについてはいろいろ議論ができるでしょう)が無責任にも「光は水のようなものなんだ」という発言をしたことから物語が始まり、子ども達は水上を航海する道具で光の中をも航海しようとします。

光が何を表しているかについては後の項で語ります。

 

マドリード(スペイン)とカルタヘーナ(コロンビア)

マドリードの原住民(ヨーロッパ人に対し原住民という言葉を使うのは不思議な感じがします。もちろんそれは、ヨーロッパ的な価値観に毒されているせいでしょう。これが誤訳でなければきっと意図的にそういう表現を使っているはずです)は光の中を航海することに長けていたことはないという言葉の裏には、一方コロンビアでは、という言外の意味を読み取れます。

 

光は何を表すか

光が何を表していると読むかでこの物語の持つ意味は大きく変わるでしょう。

有り体な答えですが、私は光とは文明の象徴であると考えます。文明というのは水のように溢れてくるものであり、マドリード人は文明の中で溺れてしまいます。

一方、コロンビア人は光の中を航海することに長けているのでしょうか。水に近しい自分たちなら上手くやれるぞ、と言っているようにも見えますし、光は川や海に流れていってカルタヘーナには留まらずそこで溺れることはないと言っているようにも見えます。いずれにしても、カルタヘーナ人はマドリード人とは違う、という主張を感じ取れます。

 

マジックリアリズムの入門書としての側面

私自身マジックリアリズムに詳しくないので確かなことは言えませんが、「光は水のよう」は中南米文学やマジックリアリズムの入門書としての側面を期待されて多くの国で国語の教科書採用されていたのだと考えます。

マジックリアリズムがどういうものかをわずか数ページで体験できる「光と水のよう」はこの表現力と文章力による世界観の変化を体感することができる一冊だと感じました。

レポートの課題図書感想。というかまとめ概論。このあとちゃんと中国語になおします。哲学とか経済とか社会学とかの本は共感できて納得できる部分もあるけどできないところはとことん理解も共感もできないから読了後のモヤモヤ晴れないのが苦手。 最近本ばっかり読んでるけど昔みたいに日本語で好きなジャンルのものを読んでるわけじゃないから時間もかかるしちょっと読書苦手になってきた気すらする。

 

 ●序論  

一、(p22)自殺の定義;死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。  

二、

(A)自殺は個人的要因で行われるものなので社会学には関係ないと思う人もいるだろうが、個々の自殺を全体的に考察すれば、単に寄せ集められた自殺の和ではなく、それ自体が一種独特の新しい事実を構成していることがわかる。その性格はすぐれて社会的なものだ。 

(B)短い期間では、同一の社会における自殺の数はほぼ一定している。また、一時的に大きな変化が見られる時は、社会の一時的な危機の時期と重なる。たとえば、1848年(フランス二月革命)に全ヨーロッパで自殺の激減が起こった。もっと長い期間では、より大きな変化もみられる。いったん変化が起こると、その変化が慢性化する。 

(C)それぞれの社会は歴史の各時点において、ある一定の自殺への傾向を持つ。その比率は、死亡率などよりもはるかに安定している。(p32)それぞれの社会は、ある一定数の自殺を引き起こす傾向を備えている。この傾向こそが社会学に属する固有の研究対象となる。これからとりかかろとするのも、この傾向についての研究に他ならない。 第1編 非社会的要因 

 

●第1章 自殺と精神病理的状態  

一、従来、「自殺は精神錯乱である」「すべての自殺者は狂者にほかならない」と言われてきたが、この章では、これが本当かどうかを見ていく。
二、自殺への傾向はその本質からして特別な限定されたものだから、もしそれが精神病の一種なら、それは単一の行為に限られた部分的な精神病でしかありえない。そうした限定的な精神錯乱は、精神病理学では「偏執狂」と呼ばれている。しかし、偏執狂の存在は、今日の科学では否定されている。1つの精神の機能は、他の無数の精神の機能と結びついていて、1つだけの機能が冒されると、その侵害は次々に波及しないわけにはいかない。実際、偏執狂の明白な事例をただ一つでも見つけることはできなかった。
 三、自殺は健康な状態では起こらない、精神異常の確実な指標だろうか?精神錯乱者の自殺は、動機を書いているか、あるいはまったく想像上の動機によって引き起こされている。しかし、多くの自殺は現実に起因した動機を持っている。また従来、政治的・宗教的信念などで自ら死を選んだ人の死を自殺と呼ぶことを拒否したりして、そのように言葉の意味を恣意的に限定することではじめて自殺を精神異常に関連づけることができたのだ。精神病とはかかわりのない自殺が、おびただしく存在することは間違いない。
 四、精神異常と、知能の申し分のない均衡との間には、あらゆる一連の中間的形態があり、それらは通常、「神経衰弱(neurasthenie)」と呼ばれる。それらが自殺に影響を与えているのかどうか、みてみると、それらの間には必然的な関係はみられない。 

[1]神経衰弱者は男子よりも女子に多いが、自殺とは本質的に男性的なものの表現である。女子の自殺1に対し男子の自殺は4にのぼる。 

[2]精神病は、他のどの宗教よりもユダヤ教徒にはるかに多発しているが、自殺傾向のほうは、正反対に、ユダヤ教徒の場合は極めて小さい。

 [3]あらゆる国で自殺傾向は幼児期から最高齢期まで一貫して増加しているが、精神病は壮年期に最も多く発生する。 [4]精神病者のきわめて少ない国は、自殺のきわめて多い国でもある。 [5]最近一世紀の間に、精神病も自殺も規則的に増加しているとみなされるので両者は比例関係にあるようにみえるかもしれない。しかし、未開社会では精神錯乱がきわめて少ないのに往々にして自殺が頻発しているので、常に両者が比例関係にあるわけでもない。  

五、アルコール中毒は、しばらく前から人々が現代文明のほとんどあらゆる悪の源泉とみなしがちだが、これが自殺と関係あるだろうか?まず、自殺がいちばん多いのはもっとも知的な階級ともっとも裕福な階級だが、アル中が多いのはこの階級ではない。統計を調べても、アル中の多い地域と自殺の多い地域は重ならない。


●第2章 自殺と正常な心理状態-人種、遺伝 

 一、人種は、ある類似した人々のグループを指すが、人種の決定的な特徴として、その類似が遺伝するということだ。しかし、その定義はまちまちで、不確かな要素が多い。  

 

二、ヨーロッパの人種は、モルセッリの分類によれば、ゲルマン型(ドイツ人、スカンディナヴィア人、アングロサクソン人、フラマン人など)、ケルト-ローマ型(ベルギー人、フランス人、イタリア人、スペイン人)、スラヴ型、ウラル-アルタイ型(ハンガリー人、フィンランド人ロシアの若干の地方)の4つある。但し、最後の1つはヨーロッパにはほとんどいない。前者3つのうち、自殺傾向は多い順に、ゲルマン、ケルト-ローマ、スラヴとされてきた。しかしこれには多くの反証がある。しかし同じケルト-ローマ型の間でも、フランス人の自殺率は百万人あたり150人、イタリア人は30人(スラブ型のボヘミア人は158人に達している)と、大きな開きがある。同種の民族と比べて自殺率の高い民族は、文明のすすんだ民族でもあるので、これは人種の差ではなく、文明の発展の差ではないのか。また、ドイツ人は自殺傾向が非常に高いが、国外のドイツ人はそうではない。スイスに住むドイツ人とフランス人を、カトリックとプロテスタントに分けた場合、両民族ともカトリックだった場合自殺率は(百万人あたり)80台で、プロテスタントの場合、ドイツ系が293、フランス系が456だった。また、古ケルト人には自殺が多かったが、今のケルト系は自殺が少ない。このように、自殺率に影響を与えているのは人種ではなく宗教や社会などの外的状況ということが伺える。


 三、人種を自殺傾向の重要な要因とみなすことは、暗黙のうちに、自殺傾向が遺伝的であることを前提にしているが、自殺の遺伝は果たして証明されるかをみてみる。確かに、自殺が多発する家族、家系は多い。しかしそれが遺伝によるものだと証明されるには、遺伝という主張に都合の良いいくらかの事実をひいてくるだけでは十分ではない。次の3つの条件を充たさねばならぬ。 [1]証明しようとする事実が、偶然の符合に帰せられないほど十分な数に達していること。 [2]それ以外の説明の余地のないこと。 [3]他のいかなる事実とも矛盾しないこと。 

[1]については、ある精神病者の施設で、多少とも自殺への傾向を持った39人のうち、家族に同じ傾向を持つ人はただの一例にすぎないという報告などばかりで、自殺が遺伝する事を証明するに足る事実は確認されていない。

 [2]については、自殺が同じ家系内で起こりやすいことは、(A)遺伝するのは自殺を起こしやすい精神病であって、自殺傾向そのものではない、(B)自殺は伝染しやすいため、遺伝でなくても同じ環境内での自殺の多発は説明できる、などがある。 

[3]については、(A)女子は自殺はきわめて少ない。自殺は性別に特定されるものでない以上、もし遺伝だとしたら、男女に等しく作用しない理由を説明できない。(B)自殺は子供には少なく、老いていくに従って多くなる。もし遺伝なら、なぜ子供に少ないのか?また、たとえばヒゲや動物のツノなどのように、ある年齢に達した時いっせいに現れない。そして老人にいたって最も多く現れるようなものが先天的と言えるかどうか、あやしい。


●第3章 自殺と宇宙的要因  

自殺という現象の示す増減の少なくともある要素は、社会的原因を持ち込まなくても、物質的環境によって説明できるのでは?
 この種の要因のうち、自殺への影響があると認められたのは、気候、季節の気温の2つだけに限られる。
 一、ヨーロッパでは、緯度が43~55度にある地域で自殺が多いから、「気候が暑くも寒くもない所で自殺が多い」と言いたいところだが、これは、この地帯で文明の発達しているから、という説明のほうが合理的だろう。気候が変わっていなくても、「今は自殺が少ないが昔は多かった」というイタリアやインドのような地域もある。
 二~三、 自殺は夏に多く冬に少ない事はどの地域でも共通しているので、気温は自殺に直接に影響を及ぼすようにみえる。その理由として、暑さは人を興奮させ自殺に至らしめるというが、鬱で自殺する数もそれに劣らず多い。暑さが前者の自殺を増やすなら、後者の自殺を減らして総裁されるはずではないか?また、エジプト遠征中の仏軍に自殺が多かった例のように、極端な暑さは人を自殺させるという説明もあるが、モスクワ退却時の中でも仏軍の自殺は多かったので、これは夏に自殺が増え冬に少なくなる説明にはなっていない。また、ヨーロッパのあらゆる国の自殺数は1月から6月頃まで月々一貫して増え、6月から12月まで一貫して減少する。しかし一年で一番暑いのは、7月か8月であるが、自殺は8月から非常に目だって減少する。ある者は、気温の高さではなく、変化の度合いが自殺を呼ぶと主張するが、統計からはそれを裏付ける事実は読み取れない。
 四、自殺数と、昼間の長さをみると、関係は完全に並行している。また、あらゆる季節を通じ自殺の大部分は昼間に行われる。しかし、真昼はかえって少ない。これらから、昼間に自殺が多いのは、社会生活が最も激しい時間だからと考えられる。このように、自殺の増減に影響を与えるのは、物理的環境ではなく社会的環境である。


●第4章 模倣  

一、模倣と言う時、以下の3つに分けられる。

(1)共通に感じること、(2)世論の権威に従うこと、(3)他者の行ったことを自動的に繰り返すこと。

しかし、(1)は再現というものが欠けている。(2)は、模倣は表面的な帰結であって、その行動の本質や動機ではない。よって(3)のみが本当の模倣である。
 二、この(3)の模倣の自殺にあたると思われる自殺の詳細。
 三、あらゆる統計を見ても、模倣が自殺の社会率に影響を与えている事実は確認できない。
 四、これらの模倣の自殺は身体的原因に基づく伝染であるという説明では、軍隊などの連続自殺は説明できず、社会的要因に帰するしかない。

第2編 社会的原因と社会的タイプ

 

●第1章 社会的原因と社会的タイプを決定する方法  

一、自殺傾向は社会的原因に基づくという結論を前編では出した。この自殺は単一ではなく何種類かに分けられると仮定し、データは形態学的なものは不足しているので、原因から探っていく。因果律がある限り、結果の種類の分かれは、原因の種類の分かれに基づくに違いないから。
 二、各国の統計では、自殺の数の増減があっても、その原因の比率は変わらないのが常なので、あてにならない。その直接の原因を出した、「より一般的なある状態」を探らねばならぬ。


●第2章 自己本位的自殺 

 一、データからみて、プロテスタントはカトリックより自殺率が高く、ユダヤ教徒はそれらよりも少ない。
 二、一でみた事実の理由は、宗教が社会をつくり、その宗教がメンバーに強い帰属意識を与えているから。その度合いが強いのは、順にユダヤ教>カトリック>プロテスタントとなる。
 三、知識を持つ人が多い社会では、自殺率が大きいが、これは知識が自殺をenvokeするのではなく、不安定な社会は人々に知的欲求をもたらすため。だから、自分の身を守るために知識を身につけるユダヤ人は、自殺率が低いままだ。
 四、この章から、2つの重要な結論が出てくる。(1)知識が人を自殺に導くのではなく、宗教社会の衰退が、知識への欲求を生み、同時に自殺の原因ともなる。(2)宗教が自殺の抑制効果があるのは、宗教自体が社会だから。

●第3章 自己本位的自殺

(つづき  一、結婚が自殺に及ぼす影響は、統計上、次の通りである。
 (1)極端な早婚は、自殺に促進的な影響を与える。
 (2)二十歳を越えると、既婚者は未婚者よりも自殺しにくくなる。
 (3)(2)の自殺しにくくなる率(抑止率)には、男と女で違う。どちらが有利になるかは、社会によって違う。
 (4)自殺抑止力は、一般的に言って、既婚者>やもめ>未婚者の順である。
 二と三、(A)未婚者の自殺率が高い理由として、結婚できない者は人間的に弱者だからという結婚淘汰説があるが、当たらない。未婚者に対する既婚者の自殺抑止率は、まだ結婚していない人を多く含む若年層で最も高いことからもそれが分かる。(B)結婚が自殺を抑止するのは、夫婦関係はさほどではないが、子供がいることが彼らを大いに抑止している。(C)やもめの抑止率は、既婚者のほぼ二分の一である。
 四、 (A)家族という社会は、宗教社会と同じように強力な自殺の予防剤である。この抑止作用は、家族が密であるほど完璧なものになる。 (B)密度の高い家族というものは、それなしには人々の生きていくこともかなわないような日々の糧である。(C)一つの社会が結びつきが強ければ抑止効果は高い。
 五、政治的な変動は、その社会の自殺率を上げるが、ただ、それに伴う熱狂(戦争や白熱した選挙)の数ヶ月は逆に自殺率は低くなる。
 六、(A)自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する。(B)社会的自我に逆らいそれを犠牲にして個人的自我が、過度に主張される状態を自己本位主義(エゴイズム)と呼んでよければ、この2つの章でみたタイプの自殺は自己本位的と呼ぶことができる。 (C)常軌を逸した個人主義は、単に自殺傾向を抑制している障壁(社会的絆)を取り除いてしまうだけでなく、自殺への傾向をまったく新たに創造する。 (D)文明人の高度な形態(芸術、道徳、宗教、政治的信念、科学)は、すべて社会という集合的な起源を持っている。そういう我々にとって、社会的絆の喪失は、我々の本性と矛盾するし、余りにも不安定である。 (E)自己本位主義は、単なる自殺の副次的要因ではなく、その発生原因である。人々を生に結び付けていた絆から弛緩するのは、彼らを社会に結び付けていた絆そのものが弛緩してしまったためである。

●第4章 集団本位的自殺  

一、(A)自己本位的自殺は過度の個人化から生じるものであったが、それにひきかえ、後者は余りにも未発達な個人化を原因とする。つまり、前者は一部分あるいは全体的に解体に瀕した社会が個人をそこから逸脱するにまかせているために起こる。他方は、社会が個人をあんまりにも強くその従属化においているところから起こる。 

(B)集団本位的自殺…自我が自由でなく、それ以外の何かと合一している状態、その行為の機軸が自我の外部すなわち所属している集団におかれている状態が集団本位的と言えるが、その結果生じる自殺をこう呼ぶ。

 (C)集団本位的自殺という道徳慣行が一般に汎神論的信仰とともに並存していることは、昔から注意されてきた。汎神論は必ずしも有神論ではなく、その本質的な特徴は、個人の中に実在するものは個人の本性と何のかかわりもないという観念、個人に生を与えている霊魂は個人の霊魂ではないという観念、従って個人は固有の存在は持たないという観念などにある。

 (D)(p273)この集団本位的自殺は、3つの変種を含んでいる。

 

(1)義務的集団本位自殺、

(2)随意的集団本位的自殺、

(3)激しい集団本位的自殺(その完全なモデルは神秘的自殺である)


 ニ、

(A)現代の社会では、個人的人格が集合的人格からしだいに開放されてきているので、集団本位的自殺はそれほど広がることはできないと思われるが、軍隊ではそれが慢性化して見られる。 (B)兵士は、命令によって身を犠牲にする覚悟を要求されるが、それは没個人的である。軍隊は、未開社会の構造を最もよく連想させる。緊密な大集団が個人を強く掌握し、個人が独自の行動をとることを許さない。この道徳的構造こそ、集団本位的自殺の発生の本来の基盤である。

 (C)軍人の自殺促進率は、一般市民全体の自殺傾向に反比例する。これは、両者の自殺の要因が異なっているばかりか、むしろ反対の性質のものであることを証明している。 

(D)その社会が伝統主義的な場合、市民の自殺率は抑えられる(自己本位的自殺が防がれるから)一方で、軍隊の自殺を促進させる。その社会が個人主義的な場合、市民の自殺率が多くなり、兵士の集団本位化を弱める。


 三、集団本位的自殺の支配的なところでは、人はいつでも生命を放棄する用意をしているが、そのかわり他人の生命をそれ以上に尊重しようとしない。反対に個人的人格に特に高い価値を与え、それにまさるどのような目的も認めないところでは、他者の人格も尊重される。このように人格が尊重されていると、同胞の人格を傷つけるものでさえ、すべて苦悩の原因となる。人間的苦悩へのこの惜しみなき共感は、あの未開時代の熱狂的な献身にとってかわってあらわれる。
 

●第5章 アノミー的自殺  

一、(p292-300)(アノミー的現象の紹介)社会経済の急激な変動は、たとえそれが好ましい上昇であっても自殺を増加させる。また、貧しい地域には自殺は少なく、豊かな地域のほうが自殺が多くなっている。それはなぜか?
 二、(p300-313)(アノミーの説明)人間が他の動物と違う点は、動物が服している拘束は物理的なものだが、人間が服している拘束は精神的なものであり、それを提供する権威を持つものは、社会しかない。しかし、社会の価値観が混乱すれば、この権威を個人の上に行使できなくなる。(p310)人間の欲望は制約が取り払われれば限界がないので(物理的ではなく精神的なものゆえ)、いったん慣れてしまえばあらゆる規則を耐え難いものにしてしまう。人々は欲望に駆り立てられ、新たな欲望を手に入れようとするが、他との競争は熾烈になり、成果はだんだん少なくなる。歯止めを失った欲望は少々の逆境にも耐えることができなくなり、そうした中で人々は生への意欲を失っていく。


 三、(p313-320)前近代社会では、宗教はじめすべての道徳的権威は、産業が発展することを規制してきたが、19世紀初頭以来、その規制が取り払われることで経済が発展してきた。この産業至上主義に煽り立てられ、解放された欲望が、とどまるところを知らず、アノミーを社会に常態化させている。「無限なものを目指す常念は、無規制的な意識-それは当の意識を苛んでいる無規制状態を原理にまでしている-の中でしか生まれないにも関わらず、常に卓絶した道徳のしるしとして説明される。ともかく進歩を、それも可能な限り急速な進歩を強調する説が、一つの信仰箇条となってしまった」(p317)こうした中、人は常に進歩をすることに駆り立てられ、それが阻まれると、大変な苦悩にさいなまれるような体質になっている。
 工業、商業は、自由業と共に最も自殺の多い職業だ。また金利生活者の自殺率は百万あたり720と法外な多さ。自己本位的自殺とアノミー的自殺は関係が深いが、前者は知的職業に多く、後者は商業の世界に多い。


 四、(p320-349)(家族アノミーについて)アノミーに伴って、どこにでもこの無限という病は発生する。(p337)結婚は、人に、ただ一人の異性と結びつくように強いる事によって、異性愛を限定づけすると共に、人に安定感をもたらす。しかし、独身者にはこの限定づけがないためアノミーが発生しやすく、自殺率が既婚者よりも高い。また、離婚が多い国は自殺率も高いが、これも、離婚の可能性が、既婚者からも、結婚が本来与えるはずの安定感を奪っているから。
 ところで、離婚の多い社会では、既婚者の自殺抑止率は、男の場合は低下し、女子は上昇する。このことは、安定した結婚生活が、より男のようにメリットがあることを示す。結婚生活に於ける男女の愛は、肉体的なものを土台としながらも、精神的なものになっている。肉体的なものには自ずから物理的制約が加わるが、精神的なものは際限がないので、結婚という制度がそれを制約し、アノミーを防ぐ。男女愛がより精神的なのは男のほうである。「女子は、一般的に言って、精神生活がそれほど発達していないので、その性的欲求も、あまり精神的な性格を帯びていない。彼女たちの性的欲求は、肉体の欲求とごく直接に結びついていて、その欲求に先んじるよりは、むしろそれに追従しているので、結局肉体の要求のうちに有効な歯止めを持っている。言い換えれば、女子は男子よりも本能に支配されやすいため、心の平安を見出すにはただ本能に従うだけでよいのである。」(p339)

●第6章 種々の自殺タイプの個人的形態  

一、今まで見てきた3種類の自殺は個々のケースでどのように現れるかを見ていく。①自己本位的自殺(p347-354)、②集団本位的自殺(p354-356)③アノミー的自殺(p356-364)④この3つの自殺は混合する(p360-364)

 二、(p364-369)自殺の種類(①~③)と、死の方法の間には何の関係もないことについて。


★自殺の社会的タイプの原因論的分類と形態学的分類 ・基本タイプ


 ・自己本位的自殺(P347-354)…
 (基本的性格)無気力。
 (二次的な変種)自己満足を伴った、ものうげな憂鬱。懐疑者のさとりきった冷静さ。
 ・集団本位的自殺(P354-356)…
 (基本的性格)情熱的あるいは自発的な力。
 (二次的な変種)平静な義務感をともなう。落ち着き払った勇気を伴う。

 ・アノミー的自殺(P356-360)…
 (基本的性格)焦燥・嫌悪
 (二次的な変種)生一般に対する荒々しい非難。ある特定の人物に対する荒々しい非難(殺人-自殺)

・混合タイプ
 ・自己本位的・アノミー的自殺(P360-)…動揺と無気力、活動と夢想の混交
 ・アノミー的・集団本位的自殺(P362-)…怒りの沸騰
 ・自己・集団本位的自殺(P363-)…ある種の道徳的堅固さによって和らげられた憂鬱

第3編 社会現象一般としての自殺について 

 

●第1章 自殺の社会的要素  

(第1章全体の要約)社会とは人間個々を単に足したものではなく、それ自体、人間の中には探りえないような独立した実在といえる。


 一、各社会集団は、自殺に関して固有の集合的傾向を持っている。個人的傾向はこの集団的傾向から派生するものであって、集合的傾向が個人的傾向から生まれてくるのではない。
 二、「平均人」「平均タイプ」という概念では社会現象は説明できない。社会というものを、その社会の中の平均的な人間によって表そうとしても不毛である。その社会の中に起きる希少なできごと、例外的なものの中にも不変性はある。
 三、(A)自殺率の一定性は、個々の自殺の事例をすべてこえた、何か非個人的原因・恒常的な作用によるものとしか考えられない。(P388) (B)社会は実在する。
 四、(A)三、のような考え方で自殺を見てみる。 (B)残った問題は、なぜ毎年同じような数の自殺が生まれるかである。 

●第2章 自殺と他の社会現象との関係  

一、(p412-428)自殺が歴史上どう評価されてきたかをみていく。(A)集団本位自殺の盛んな未開社会では、正確には言えないが、自殺が満足げに受け取られていたという事実は、自殺は厳禁されていなかったことを伺わせる。

(B)近代社会から歴史的に先行した諸社会すなわちギリシア-ラテンの都市についてみると、自殺は、国家が許可しないのに行われた時にだけ不当であるとみなされた。

(C)キリスト教社会が形成されて以降は自殺はそれ自体反道徳的であり、例外なく罰せられるようになった。
 このように歴史をみると、自殺の禁止は緩和されずにますます徹底されていくばかりだ。たしかに、ギリシアやイタリアの都市国家末期に、自殺に関する規定がほぼ完全に効力を失った時期はあったが、これは都市国家の体制そのものが凋落に向かった時期に限られた出来事で、この寛容が当時これらの社会をおそった甚だしい混乱状態と関連あることは疑いない。(p418)


 この、何世紀もの間、同じ一つの方向をたどってきた道徳的進化が、逆戻りすることは考えにくい。したがって今日、自殺について寛容にみえるとしたら、それは偶発的、一時的原因から生まれたものにちがいない。(p420)
 自殺が非難されるのは、人が自殺によって社会への義務を免れてしまうからだとよく言われてきたが、それならば個人が国家に強く服従する未開社会において自殺への非難が頂点に達するはずだが、実際は国家の権利に対して個人の権利が伸張するにつれて非難がますます強くなる。これは、人間の人格についてつくりあげた新しい考え方のうちに存している。未開社会→都市国家→近代社会へとすすむにつれて個人の存在は大きくなり、自分自身よりも、また社会よりも優越したところに置かれるようになった。人格が神格化し宗教的様相を帯びるようになった。


 ところで、もし人格の尊重、超越的地位が宗教に由来するとしたら、科学的な批判精神はそれに価値を認めないのではないか?生きる権利は死ぬ権利も含んでいるのではないか?
 この議論は当たらない。我々が社会生活を営む中で、集合的感情がある強度に達すれば、それは超越性を帯びてくるものだ。社会的な要請は、個人が犠牲を要求する。我々がそれに自主的に従う時でも、それは外部からの声だと認識されるので、それを外部の自分よりも勝っていると考えられる存在に投射する。これこそが宗教や道徳の根底にある超越性の観念の起源である。(p423-424)


 (A)歴史の流れをみても、個人が社会に対して独立した存在になり、(B)社会の複雑化、分業化に伴って個人のあり方も多様になっていく。そんな中で社会が絆を維持するのは、人格尊重によって結びつくしかなく、またこれは近代社会の追及している目的の一つでもある。よって自殺は反道徳的行為と分類されるべきである。

 二、(p428-433) ある社会において自殺と殺人の増減は反比例の関係にあるという。しかし統計上、両者の間にはどんな類の比例関係も反比例関係も認められない。仮に認められたとしても、2通りの説明が可能である。(a)両者は2つの相反する流れであり、極めて強く対立しているので、両立しがたい。(b)両者は同一の源泉から発する2つの異なった水路であるため、片方が増えれば片方は減る関係にある。イタリアの犯罪学者は(b)をとっている。つまり、両者は反比例関係を示しても、比例関係がすべて退けられるものではないから、(a)だと説明できなくなる。モルセッリによれば、両者を比例関係にする条件として、3つをあげている。(1)気温(両者は暑い季節にピークを迎える)、(2)性別(両者とも女子より男子が多い)、(3)年齢(両者とも年齢がすすむにつれて多くなる。)
 自殺とは変形され、弱められた殺人だとすれば、自殺という弱い悪が増えれば殺人というより強い悪を減らせるのではないか?よって、殺人を抑制するため、自殺は容認されるべきではないか?
 以上のいかにも巧みな説は果たして正しいか?問題は二重にある。(A)犯罪と自殺の心理的条件はこのように一つのものか?(B)両者の依存している社会的条件の間には相反する関係が存在しているか?
(ここで「自殺と殺人は反比例関係にある」という説が立てられ、その説明として(a)は退けられ、(b)が残った。(b)の説明として(1)(2)(3)が挙げられた。続く三、では(1)(2)(3)が反証され、(A)について答えられ、続く四、では(B)が答えられている。)

 三、(p433-438) (2)については、女性は男性ほど社会生活にさらされていないため、殺人を犯す機会が少ないだけで、殺人への傾向は男女差はそれほど違わない。一方、自殺は女性よりも男性のほうがはるかに多い。よって(2)の指摘はあたらない。
(3)については、自殺は老年になるにつれて多くなるが、殺人は故殺・謀殺ともに30-35才がピーク。両者には、背反も一致もない。よって(3)の指摘はあたらない。
(1)については、「人身に対する罪」の推移をみると、自殺曲線と同じく、6月まで上昇し、12月まで下降するので、両者は比例関係にあるようにみえるが、この「人身に対する罪」には、暴行・強姦が含まれ、これら殺人よりもはるかに件数の多いものが6月にピークを迎えるために、そう見えるだけ。純粋に殺人の件数だけを取り出してみると、もはや気候別に自殺と殺人の件数をみても、どのような並行関係のしるしもみることができなくなる。よって(1)の指摘はあたらない。
 次に、(ア)についてみると、犯罪者が捕らえられ、拘禁されることで自殺傾向が増すことが分っているが、凶悪犯はめったに自殺を図らないという結果が出ている。殺人と自殺が同じ心理的状態から生じるのではないことは明らか。

 四、(p438-458)自殺と殺人が並行する場合もある。たとえば未開社会は自殺も殺人も多かった。
 しかし、反比例する場合もある。殺人の非常に多いところでは、それが自殺に対して一種の免疫を与えているというのが一般的な原則でさえある。スペイン・アイルランド・イタリアこの3国だけが、ヨーロッパの中で、殺人が自殺の数をしのいでいる。フランス・プロイセンでは、殺人は自殺の10分の1。/戦争は、自殺、盗み、詐欺、背任などを減らすが、殺人だけは増やす。/自殺は田舎よりも都会のほうが多いが、殺人は逆に田舎のほうが多い。/カトリックはプロテスタントに比べて自殺が少ないが、殺人は多い。/家庭生活は、自殺を抑制するが、故殺に対してはこれを促進させる。
 これらを観察すれば、自殺と殺人はある時は共存し、ある時は排除しあうが、背反関係を示す場合が最も多い。自殺には異なった種類があり、あるものは殺人と比例し、あるものは反比例すると考えれば、この事実を説明できる。(p449-450)
 現在、もっとも広範に発生し、年々の自殺者の増加に最も大きくあずかっている自殺タイプは、自己本位的自殺で、これは殺人と背反関係にある。このタイプは憂鬱と無気力を特徴とするが、殺人とは激情なくして起こりえない暴力的行為だ。
 集団本位的自殺は、殺人と歩調を合わせて増減する。両者は、同じ条件に基づいている。
 アノミー的自殺と殺人も比例関係にあるが、両者は、同一の行為における2つの側面である。今日、大都市や高度に文化のすすんだ地方で、殺人の増加と自殺の増加が並行して起こっているのは、このような理由による。

 ところで、「われわれが同胞に対して抱く感情(A)は、利己的感情(B)の延長にすぎないのか、あるいは反対にそれとは別個の感情であるのか」という問題を考えると、これは、(A)(B)ともに、同じ集合的感情から派生した2つの側面にすぎない。つまり、「個人が尊重されるべき」という社会においては、(A)も(B)も強くなり、逆に集団本位的な社会では両者ともに弱くなる。我々の利己主義のような、個人的と思われているものでも、社会によって規定されているのだ。


●第3章 実践的な結論 

一、(p459-473) 犯罪のような紛れもない反道徳性の形態でさえ、それなしの社会はあり得ないことを考えれば、必ずしも病理現象に分類されるべきではない。自殺についても同様である。
 では現代の自殺の激増はどうか。よく、文明の発達は自殺という代償を払うことは避けられないという。しかし、歴史をみると、帝政ローマの絶頂期に自殺が増えたが、そののちローマ文化は生きながらえたが、自殺の伝染病はほんの一時期しか持続しなかった。またキリスト教社会はどんどん発展したが、18世紀に至るまで自殺の増加は微々たるものだった。従って文明の発達と自殺の増加は必然ではない。社会が変化できる速度は限りがあるのに、過去の諸制度を余りにも根こそぎにしたため、代わりの制度をもたらされずにいる病的な状態が、この自殺の激増につながっているのであり、これは危機と混乱を表していて、現代の文明の発展の光輝ではない。

 二、(p473-484) 自殺の激増という病理現象をどう克服すべきか。刑罰や教育を通じて自殺を抑えることはできない。両方とも、健全な社会の基盤がなければ有効に機能しないからである。社会を悩ましている当の病弊の原因に手を伸ばさねばならない。
 現在の自殺の増加に何のかかわりもないのは集団本意自殺だ。その増加が病的と考えられるのは自己本位自殺とアノミー的自殺の2つである。 
  自己本位的自殺は、社会が混乱し、衰えて、その影響下から余りにも多くの人間を逸脱するにまかせているところから起きる。これを防ぐには、個人を集団・社会に結びつけるしかない。①政治社会は、現代の巨大国家のしたでは、個人から疎遠になりすぎていてできない。②宗教社会はかつてそのような影響を個人の上に及ぼせたが、現在ではその条件は失われた。「宗教は人々の自由な思惟を妨げる限りにおいて、はじめて自殺傾向を緩和することができる。」(p480)それは、人間精神の歴史が自由思想の進歩の歴史であることを考えれば、時代に逆行している。③家族も、昔は協力な社会・集団だったが、現在ではかつてのような絆も持たない。

 三、(p484-496) 自殺の増加を食い止めるような十分に統合された社会は、宗教社会、家族社会、政治社会では無理だが、同種類の労働、同じ職能の仲間が結びついて形成する職業集団ないしは同業組合には可能だ。まず、メンバーの利害の一致があり、一体化しやすい。また、職業生活は生活のほとんどすべてで、それを律する同業組合は強力な社会となりうる。
 同業組合をうまく組織すれば、国家の中に、個人をキメ細かくケアする多様な社会ができることになり、自己本位的自殺の抑止につながり、また、個人の限界のない欲望を調整し、妥当な分け前を決定し、道徳的節度を提供できることで、アノミー的自殺も防げる。
 しかし、夫婦のアノミーから来る自殺はこれでは防げない。これを防ぐ方法は、婚姻をたやすく解消できないようにすることと、女性の社会進出をすすめることで、男女間の道徳的葛藤をなくしていくこと。
 
 四、(p496-504) 社会階級のすべての階段において、物質的満足が平均して増大したことは疑いない。従って人々を悩ましている不安は経済的なものではなく、憂慮すべき道徳的貧困によるものである。この道徳的特質の変化は、お説教や命令で解決するものではありえない。それは今日の社会の根本的な変化を証言している。
 それを治癒するには、社会を再編成しなければならず、その方法は三、で述べた。
 社会の起源は家族・氏族など血縁関係であり、それらが結びついて、村落、付属領地をそなえた都市などの地域集団になり、それらが相互に同盟を結び、複雑化していき、徐々にそれらの間の相違は薄れていく。フランス革命によってその平準化が劇的にすすみ、古い秩序はほとんどあとかたもなく一掃され、職業組織に関係したものも徹底的に破壊され、唯一生き残った集合的な力が国家だった。この巨大な国家に、個人は直接結びつくことができないから、国家の権力を分権し、道徳的な権威を創造できる、より小さい集団が必要になる。その集団とは、地域集団よりも職業集団のほうが適切にみえる。

長らくご無沙汰しておりました。

大學が始まり以前のようにブログの更新が追いつかない次第です。

 

なんで急に更新に来たかというと最近の読書量に対してレビューが全然追いついていないので気になった作品は書き溜めておかないと!と焦ったからです…。

最後に更新してから数ヶ月。どんどん読了本は増えていくのにメモのノートも増えないんですもの。

 

とりあえず当人は台湾の空の下,元気に生存しているのでご心配なく!

大學は文学部ゆえの週4レポートに追われており、更にバイトが2つと翻訳の仕事も重なり

なかなか自分の時間というものが取りにくかったりします。

 

 

それなのに私は授業の間の空き時間を全て図書館に費やしてしまうので更に時間がないのです…。

大学の学生証が手に入ると以前の語学学校生の時よりも格段に図書館利用がしやすくなります。カバンを持ち込んでよくなる上に借り出しも可能なのでつい、小中高校の時からもそうでしたけど、授業の合間には昼食を放棄してまで通ってしまっています。

 

…図書館廃人とお呼び下さい。

 

 

旧正月明けに2週間ほど日本に帰国しましたが、その期間を抜いても今月だけでも50冊は読んでいます…。

中国語の本になると読む速度は落ちますがやはり本を読めるというのは楽しいものです。

 

先週頭からはまた日文読解の講義で教授が扱った「愛と情熱の間」という作品(江國香織さんと辻仁成さんが対で著作された小説、映画もあります。)に心奪われ、そこからずっと日本語の書籍にハマり直しています。

 

あの作品、他のクラスメイトにはごく不評でしたが、個人的にはイタリア建築やデッサン関係の単語が頻出するので心躍る内容でした。

台湾の書籍は比較的直接的な表現とストレートな展開のものが多いので、ああいった「The日本人」という感じの恋愛模様はひたすらに「暗い」「回りくどすぎ」と評価されてしま居がちなところが惜しいです。

中国語版を読みましたが、両作とも翻訳版は日本語版よりも若干言い回しや情景がストレートに加筆されていました。

 

映画版は割と本作に忠実で、授業中に映画も見ましたがこれも非常に低評価でした。

台湾人はこの何年もかけてすれ違い、結局付き合わないけどずっと気持ちは変わらない系の恋愛を否定しがちですね…。

振り向かないなら捨てちゃいなよ!精神がお強い。(特に女子)

 

映像になるともっとイタリアの街並みがリアルに視覚で飛び込んでくるので

そういう部分も含めて私はこの作品の虜です。

 

やっぱり江國香織先生の情景描写はリアリティがあり素敵です。

辻仁成さんのほうは精神的に語る描写が多いのが特徴的。どちらも周囲の風景から、または主人公の心理から「見えている」イタリアの街並みを綺麗に描き出しています。

映像化されている作品とはまた違った風景を小説の中からは感じとることができるので、飛行機の機内やバスルームなどテレビや雑音のない空間で読むには最適です。

(この赤本の方にもバスルームの描写が多くでてきます。)

 

 

 

まだまだ書きたいところですがこの他にレビュー書きたい作品がたくさんあって

・松尾スズキ クワイエットルームへようこそ

・遠藤周作 深い河

・奥田英朗 最悪

・雫井脩介 火の粉

・綿矢りさ インストール(もう何度目かわからない読み返し)

・山崎ナオコーラ 人の

・村田沙耶香 コンビニ人間

とりあえずこれだけは書きたいのでぼちぼち書いていきます。

 

星駆登でしたノシ