147.「エバが生まれるに当たっては、そのような原則はありません」 | 御言 missing link

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 ザカリヤ家庭とヨセフ家庭が勝利していた場合、洗礼ヨハネは、イエス様が新婦を復帰するための実体的天使長の立場に立っていたはずでした。アダムとエバはもともとは兄・妹であり、また婚約した立場でしたが、結婚式を迎える前に天使長に奪われてしまいました。それを蕩減復帰するためには、実体的天使長からエバを奪ってこなければなりません。
 ザカリヤ家庭とヨセフ家庭が一つになり、マリヤを中心として三代の女性が復帰され、イエス様がこの女性たちとともに、実体的天使長の位置に立つ洗礼ヨハネから妹(エバ)を奪って来ることができれば、それで蕩減復帰がなされることになっていたはずでした。

「イエス様は、血筋を清めて生まれた最初の息子なので、ひとり子といいます。神様から見ると、神側で血筋を清めた一番目の息子として生まれたので、ひとり子というのです。四千年を通して、このようなことをしたのです。マリヤがすべきことは、アベルの立場であるイエス様とカインの立場である洗礼ヨハネを一つにすることでした。
 カインとアベル、エサウとヤコブはみな争いましたが、イエス様と洗礼ヨハネは一つにならなければなりません。洗礼ヨハネはカインの立場の兄であり、イエス様はアベルの立場の弟です。イエス様と洗礼ヨハネが一つにならなければならなかったのに、分かれてしまったのです。これを一つにする責任をマリヤが果たしていたら、イエス様は苦労する必要がありませんでした。
 エデンの園でカインとアベルが分かれたように、歴史時代にイエス様を中心として右翼と左翼とに分かれたのです。カインとアベルに分かれたのです。また、宗教もカイン宗教であるイスラーム(イスラム教)とアベル宗教であるキリスト教に分かれました。洗礼ヨハネの母とイエス様の母は、レアとラケルと同じように姉妹の間柄です。レアとラケルが一つになってカインとアベルを一つにすべきなのに、レアとラケルは二人で争いました。そうしてイスラエル10部族とユダ2部族とに分かれ、歴史的に怨讐同士になったのです。
 洗礼ヨハネの母とマリヤは親族なので、イエス様を早く結婚させていたら、一つになることができました。洗礼ヨハネの妹とイエス様が結婚していたら、分かれずに一つになることができたのです。天の側の女性がいないので、カイン側の女性を奪ってこなければならないのです。
 天の側には女性がいません。イエス様がアダムの代表者として生まれましたが、女性がいませんでした。ですから、カイン側、サタン側が奪っていったものを取り戻さなければなりません。取り戻す場合には、どこが最も近いでしょうか。洗礼ヨハネの妹をイエス様の相手として結婚させれば、それが最も近いのです。そうなっていれば、洗礼ヨハネもイエス様と自然に一つになるのです。そのように結婚が成されていたならば、その時、イエス様を通して清い血筋がつながり、イエス様の子孫がキリスト教をすべて統一し、教派もなく世界が統一されて久しいのです。
 母たちがしなければ、イエス様が洗礼ヨハネと一つになって、母を選ばなければならないのです。カイン・アベルを復帰して母を復帰するように、イエス様と洗礼ヨハネが一つになっていたら、母を探し立てる道が開かれるので、そこで一つになることができたのです。アベルの立場に立つイエス様と、カインの立場にある洗礼ヨハネが一つになったとしても、母を探し立てることができ、反対に母たちが闘わずに一つになっても、単一民族が始まっていたのです。統一し得たのです。母たちが一つになって息子たちに協助したとしても、母を立てることができたし、息子たちが一つになったとしても、母を探し立てることができたのです。しかし、それができなかったことが、イスラエルの悲運だったのです。
 家庭がこのようになっているのに、国家的な次元で見るとイスラエルの国がカインで、ユダヤ教がアベルでした。これが一つにならなければならないのです。イスラエルがカイン、ユダヤ教がアベルとして国家的次元で一つになっていたならば、そこで母を迎えるのです。カイン・アベルが一つになって、母を探し求めるのです。」
 (イエス様の生涯と愛 P132~134 1993年1月10日)

 上記の
「天の側の女性がいないので、カイン側の女性を奪ってこなければならないのです。天の側には女性がいません。イエス様がアダムの代表者として生まれましたが、女性がいませんでした。ですから、カイン側、サタン側が奪っていったものを取り戻さなければなりません。」
 という部分は、天使長圏であるザカリヤ家庭、ヨセフ家庭、洗礼ヨハネ家庭の三家庭をサタン側、あるいはカイン側とし、イエス様一人を天の側あるいはアベル側として語られています。
 ですから、「天の側の女性がいない」というのは、イエス様と同じ立場の女性、つまり、上の御言の最初の部分の
「イエス様は、血筋を清めて生まれた最初の息子なので、ひとり子といいます。神様から見ると、神側で血筋を清めた一番目の息子として生まれたので、ひとり子というのです。」
 と言える「女性がいないので」ということになります。
 文先生のみ言葉によれば、イエス様は堕落人間の中から胎中聖別の基台で誕生しましたが、エバにはそのような手続きは必要ないという説明をされています。
 NO.142 の記事で提示した御言の中には、
「ではエバは、どのように現れなければならないのでしょうか。創造の原則によって、エバはアダムを通して造られなければなりません。イエス様はマリヤを通して生まれましたが、エバが生まれるに当たっては、そのような原則はありません。」
 とありました。さらに
「イエス様がアダムを復帰完成したのちに、イエス様によってつくられなければならないのです。そもそもエバはアダムによってつくられたので、復帰されたエバもアダムの代わりであるイエス様を中心としてつくられなければなりません。」
 と続いています。
 エバの再創造とは、真のアダム、つまりメシアによってのみ成されるものであり、エバ個人の完成に必要な条件はメシアに対する絶対信仰と絶対愛と絶対服従によって成されます。エバは母、妻、娘の三代で象徴され、娘の位置に立つ女性がイエス様の相対の位置であり、将来の真の母の位置になります。この位置に立つべきであった女性が洗礼ヨハネの妹でした。
 そして文先生は、
「取り戻す場合には、どこが最も近いでしょうか。洗礼ヨハネの妹をイエス様の相手として結婚させれば、それが最も近いのです。そうなっていれば、洗礼ヨハネもイエス様と自然に一つになるのです。そのように結婚が成されていたならば、その時、イエス様を通して清い血筋がつながり、イエス様の子孫がキリスト教をすべて統一し、教派もなく世界が統一されて久しいのです。」
 と語られています。

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