88. 青銅の蛇 | 御言 missing link

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 先回は、イスラエル民族の不信に対し、モーセが血気にはやり、磐石を二打したというできごとについて確認しました。このあと、神様が、不審に陥っていくイスラエルの民に火の蛇を送られ、彼らを噛んで死ぬようにされた、ということがありました。次はそのことに関する原理講論の説明です。

「モーセが、磐石を二度打ったのち、神は不信に陥っていくイスラエルに、火の蛇を送られ、彼らをかんで死ぬようにせられた(民数21/6)。しかし、イスラエルが悔い改めるようになったとき、神は、モーセに青銅の蛇をつくらせ、それをさおの上に掛けるように計らわれ、その青銅の蛇を仰いで見る人だけは救われるようにされたのであった(民数21/9)。この火の蛇は、エバを堕落させた昔の蛇、すなわち、サタンを象徴したのであり(黙12/9)、さおの上に掛けた青銅の蛇は、将来天の蛇として来られるイエスを象徴したのであった(ヨハネ3/14)。これは神がイスラエル民族が不信に陥ったときには、彼らをサタンに手渡されたのであったが、彼らが悔い改めて信仰を取り戻したときには、再び、青銅の蛇をもって生かしてくださったのと同じく、後日、イエスのときにおいても、ユダヤ人たちが不信に陥れば、神は彼らをサタンに手渡さなければならないということと、そのときにイエスは人類を生かすために、やむを得ず、天の蛇として十字架にかけられなければならないということと、さらにまた、不信を悔い改めて彼の十字架による救いを信ずる者は、だれでも救ってくださるということを見せてくださったのであった。それゆえに、イエスは『モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない』(ヨハネ三・14)と言われたのである。このことは事実上、イエスを中心とする第三次世界的カナン復帰路程を、十字架による霊的路程として出発するようにさせた遠因となったのである。」(原理講論 P390~391)

 次は、短いのですが、文先生の御言です。

「モーセは荒野で青銅の蛇を揚げなかったならば、イエス様は十字架にかかり亡くなることはありませんでした。」 (ファミリー 1992年3月 P8 (続)世界はどこへ行くのか 1991年10月13日 ソウル本部教会)

 上の原理講論の説明の最後のところに、
「このことは事実上、イエスを中心とする第三次世界的カナン復帰路程を、十字架による霊的路程として出発するようにさせた遠因となったのである。」
 とありますが、それでも、私たちは、モーセが盤石を二度打ったことの方がより重大な出来事だったととらえてきたのではないでしょうか。ところが、文先生は、このことよりも、青銅の蛇を掲げたことの方が決定的であったかのように言っておられます。磐石を二打したという事実があったとしても、そのあとに青銅の蛇を掲げるということがなければイエス様が十字架にかかることはなかったととることもできるのではないでしょうか。
 ですが、ここでも「盤石の二打」と同様、そのようなことが起こらざるをえなかったイスラエルの民の状態(信仰と愛のレベル)に着目すべきだと思います。このレベルのまま、たとえ彼らがカナンに入ったとしても、そののちメシアを迎える民族的、しいては国家的な基台形成を成すというのは難しかったと言わざるをえません。選民としての一番重要な使命に対する基本的な愛と信仰の姿勢・資質がなかったということを、長い荒野路程を通して証明する結果となってしまったからです。
 モーセを中心とする一世は、選民から外れ、カナン偵察の信仰的報告をしたヨシュアとカレブを中心に、二世達がカナンの地に入り、そこで新たに選民の再生を目指していく結果となったと言っていいのではないでしょうか。
 このことは家庭連合においても同様だと言われて、果たして否定できるでしょうか。
 ところで、選民とは、メシアを迎えるための民族です。家庭連合では、すでに再臨のメシアが来られたわけですから、今後、メシアを迎えるための選民は必要ないということになります。ですが、それは、メシアと真のアダムを混同した考えだと言えるでしょう。メシアは真のアダムです。メシアと呼べるのはただ一人だけでしょうが、その血統を受け継ぐアダムは永遠・普遍です。文先生が真のアダムであり、イエス様と異なり、この地上に子孫を残されたのであれば、そこに真のアダムがいて当然だと考えるべきなのが、創造原理からの帰結です。真のご子女様や私たちがいずれそうなるというのとは根本的に異なります。すでにアダムがいるということです。本来なら、誕生されたすべてのご子女様が、真のアダムとエバだということになるはずだったのではないでしょうか(失礼な言い方ではありますが)。「次のアダムなどいない。われわれがいつかそうなるだけだ」というのであれば、文先生は地上に直接、次のアダムを残せなかったということになります。様々な事情から、それができなかったということもあるでしょうが、真のアダムの存在の可能性まで否定するのは、文先生も原理も信じていないということになるのではないでしょか。そして、次のアダムも、天使長家庭に保護されて完成することになるわけで、そのとき一緒に完成の道を歩むのが長成期完成級まで到達した天使長家庭の行くべき道です。これは、アダムとエバのときにも適用されていた原理であり、原罪があるとかないとか、あるいはメシアがいるとかいないとかに限られた内容というわけではなく、真のアダムとそれを保護・育成する天使長家庭との間の原則だと言っていいでしょう。氏族メシアとは、そのような天使長家庭を中心とする氏族の編成であり、新氏族メシア連合とは、そのための民族の編成だと考えられます。天地創造時に、天使・天使長たちに、アダムとエバがやがて現れるということがあらかじめ伝えられていなかったのと同様、私たちには、氏族メシアの完成こそが最終ゴールであるかのように、語られたと言ってもいいでしょう。
 メシアとともに完成の道を行けなかった人々が、すでにメシアが聖和されたあとに、「これからは自分たちの努力だけで完成できる、だから、もう真のアダムなど必要ない」と言うとしたら、果たして、それは原理からの正しい認識となるのでしょうか。
 ここで述べた考えはしばしば批判的にとらえられていることを知っています。ただ、その批判的な説明を見聞きすると、単に以前の考えに引き戻そうとしているだけで、それ以上の議論をする気が失せてしまうというのが正直なところです。また、そのような人に限って論調がきつく、「そんなこともわからないのか」という力づくの波長を感じさせられます。
 以前も述べたことがありますが、教師がある説明をして、生徒が「わからない」と言って質問にきたとき、同じ説明を繰り返し、また「わからない」と言われ、再度同じ説明を繰り返し、それでも「わからない」と言われ、ついには「そんなこともわからないのか」と語気を荒げてしまうのは、教える内容やスキルを研究しないダメな教師だと言われています。よい教師は、質問の内容や生徒の反応から、わからないところを把握し、そこを1~2段下げて説明をする、あるいは別の観点から説明をするという内容と技術を持っています。
 他者の説に異論を唱え、自分の考えをわからせたいというのであれば、相手の言うことに対し「ばかなことを言っている」とか「アホなことを言っている」とか「なんかおかしい」とか「論理が崩壊している」とか言う前に、説明を工夫すべきではないでしょうか。それができないなら、論調を荒げるのではなく、議論からいったん身を引き、研究してから、再び登場すべきです。

補足;関連する旧約聖書の内容を引用しておきます。

「『エジプトから出てきた人々で二十歳以上の者はひとりもわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従わなかったからである。 ただケニズびとエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアとはそうではない。このふたりは全く主に従ったからである』。 主はこのようにイスラエルにむかって怒りを発し、彼らを40年のあいだ荒野にさまよわされたので、主の前に悪を行ったその世代の人々は、ついにみな滅びた。 」 (民数記 32/11~13)

「『どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください』。しかし主はあなたがたのゆえにわたしを怒り、わたしに聞かれなかった。そして主はわたしに言われた、『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。しかし、おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう』。」 (申命記 3/25~29)

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