そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


即自的な自己性(マテリー)によって、掻き立てられるところの、不安、こそが、主体性による、その自己性の、彫琢を促し、主体性の創造作用を、必然ならしめる。
すなわち、自己性が、記号化(形式化)を、逃れてゆく、がゆえに、記号化を本質とする世界(主体‐自己の世界)の、不安、を掻き立てる、ことになる、のであり、この不安が、かえって、記号化による、投錨‐言語化、を、促進する(動機づける)、ことになる、のである。


こうした、自己性の、非記号的な性質は、われわれに、あたかも、襲いかかるような、衝撃‐苦痛(トラウマ)、を与える、のである、が、同時に、まさに、そのことにおいて、魅惑の経験を与える。
すなわち、はっきりしないもの、という要件は、それが、身近に迫る、時、危険‐恐怖、を引き起こす、が、しかし、ある程度、距離を置かれる、なら、それは、むしろ、喜ばしいもの(快楽)、にも、なり得る。それは、自己自身の、失われた核、の対象化、である、のであるし、距離化自体が、むしろ、自己保存を、満足させる、からである。
このように、われわれ主体性の、あくなき創造的行動(の動機)、は、まさに、われわれ自身の内に、記号化(コード化)、から、溢れ出す‐逃げ去る、要素がある、ということ、なのである。


公共の、規範的な主体性、において、記号‐イマージュ、とは、表層的な、類同代理物、である、と見做されている。
しかし、自己性においては、記号‐イマージュは、同語反復的な、即自存在、に近いもの、になる(たとえば、映画を初めて見る、未開人は、そこに、意味‐ストーリーを、読み取る‐読み込む、訓練が、できていないために、映像の表層そのもの、に、見入ってしまう)。
主体性にとっては、あくまでも、手段(道具)としての、媒介、にすぎず、目的(指向対象)のためには、忘れた方が都合のよい、記号‐イマージュ、それ自体は、自己性にとっては、われわれの感覚(視覚)が、まず、ぶつかる、当のもの、であり、指向対象と分かち難く重ね合わされた、物質性、として、現前することになる(愚直にとらえられることになる)、のである。


すなわち、自己性においては、記号‐イマージュは、薄い層をなす、対象‐物質、の部類に、属している、わけである、が、そのような、物質性としての側面と、類同代理物としての側面を、引き離すことが不可能になってしまう、という事態は、主体性にとっては、過剰な混乱‐狂気の沙汰、である(もちろん、動物は、物質性としての側面、しか、見ない)。


しかし、むしろ、狂気、は、主体性の側に、こそ、あり、主体性の抱く、記号‐イマージュに基づく‐とともにある、不在の、想像的な対象世界‐像としての指向対象、こそ、狂気、であり、すなわち、まさに、主体性が、現実から、距離を置いて、静観する、ところの、意識世界‐意味世界、としての、抽象的な観念世界、の非現実性、である。
外界の事物は、この、像としての指向対象‐観念世界、を通して、眺められる、時、はじめて、現実の対象(公認の事物対象)、となる、のである。


このような、抽象的‐観念的な、公共の、意識世界‐像世界、は、なお、主観的‐感性的多様のもとにある、ため、そのような、像世界の、最終的な理想(規範)、としての、唯一の、最高の、価値‐真理、として、イデア、が、想定される、ことになる。
つまり、像世界の、さらに、背後に、控えている、はずの、最後の‐最高の、唯一者‐イデア、からの、光、によって、個々の像世界は、その個別的な、正しさ‐真実味‐輝き、を、分有的に、保証されている、ということになる、のである。
すなわち、感覚的なものの、彼方にあって、感覚的なものに、汚染されていない、清浄さ(正しさ)を保っている、理想的な像、が、あるはずである(なければならない)、ということである。


したがって、この、われわれには、手の届かない、背後の像、は、原理‐理念、としての、非感覚的な、超越的存在、であり、ゆえに、それ自体としては、存在、ではなく、あれこれの光景である、ことなど、不可能なもの、なのである、から、こうして、われわれは、一種の、無、に向っている、のである、が、それこそは、主体性の空虚‐主体化という空無(自由‐狂気)、の、相関物、なのである。


自己性が、さしあたって、眼前に存在する現実存在、としての、記号‐イマージュ、そのものに、ぶつかる(とらわれる)、としたら、主体性は、むしろ、そのような、現実存在を、無化し(否定し)、イデア‐無、へと、向う、非現実的な意識‐像意識、になろうとする、のである。
もちろん、記号‐記号の現実性、は、無化され得ず、もし、その現実性が無化されて、しまったら、単に、何も、なくなってしまう、であろう。
したがって、イデアは、イデア‐現実性、という、対(繋留)、のもとにこそ、あり‐成り立ち、すなわち、まさに、それは、主体‐自己の分裂(二重体)、に保証されている、ということ、である。
要するに、意識(主体‐自己)は、記号‐イマージュ、自体に、向かい、そこに、感覚(視覚)が認める、諸々の性質に、直接、向かう、こと、なし、には、それらとは、全く別のレベルにある、像としての指向対象、に向かうことが、できず、さらには、純粋な、像(像としての指向対象)、としての、イデア(理念としての、像としての指向対象)、に向かうことも、できない、ということである。


自己性からの、主体化によって、われわれは、いまだかつて、見られたことのない、特別な光景、を、獲得(創造)する、のである。
すなわち、想像的な、像としての指向対象、であり、それは、生成流転、から、ある意味で、解放された形の、不動性(一般的性質)、としてある。
そのような、普遍性としての、像、は、不在の存在、という、自由‐狂気、である。
この不動性から、さらなる抽象化によって、徹底的に、生成としての意味(現実性)を、奪い去ったものが、超越的な、純粋な、理念‐像、としての、イデア(無)、なのである。


われわれが、現実(事物‐世界)、と呼んでいるものは、この、像としての指向対象(観念‐意味)、を通じて、こそ、形成されるもの(言語‐思考の世界)、なのであり、それを、保証しているのが、イデア、という、仮想の真実(の想定)、なのである。
この、イデア(要するに、神、と言っても、同じこと、である)、のもとにおいて、こそ、この、一つの秩序的世界がある、ということを、確信する、のである。