そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


主体性は、記号‐イマージュ、を、通して‐透かして、記号‐イマージュとは別のレベルにある、像としての指向対象、を、見る。
この、像としての指向対象、こそが、生成変化(転)としての世界(モナド的な自己世界)を、支配するもの、としての、ロゴス(ヘラクレイトス)‐一般的性質、である。
すなわち、この、像としての指向対象、という、想像的な意識によって得られる、抽象的な観念、は、イデア(究極の理想として想定された、像としての指向対象)と重ね合わされた、像としての指向対象、となって、公共性を獲得して、規範的な公共的世界像を確立し、その、公共的な、像としての指向対象、と、現実の事物、が、重ね合わされる、ことで、この、われわれの、客観的な世界、という、認識、が成立する、ことになる、のである。
こうして、いわば、三重ねのリアリズム、として、客観的現実性‐一般性、が出現する。


記号‐イマージュ、と、分かち難く結びついた、像としての指向対象、は、生成変化(転)としての世界(モナド的な自己世界)を、主体性‐視(眼差し‐一瞥)、によって、侵犯する(凍結する)、ことにおいて、獲得される、主体性という、無の視点‐立場(視そのもの)、に由来する、その対応物(瞬間の凍結像)、である。
主体化の介入は、視‐像(一瞥‐不動像)、において、この生成変化の、流転の限界を、揺るがし‐崩し、個別的で、反復可能な、表層的な記号‐イマージュ、を抽出して、不動の、像としての指向対象、を確立する、のである。


つまり、本来、一回性(不可逆的な、一回限りの現実)、としてある、事物‐出来事‐光景、は、一瞬の‐一瞥の、もとに、凍結されて、永遠の相を獲得する、ことになる、のである。
そのような、像(観念)、は、自己性におけるような、流動的な現在、における、特定の身体、からの、パースペクティブ(近傍)、には、決して、おさまらない、ような、すなわち、そのようなパースペクティブの中心(現在‐身体)との、関係を絶たれた、ような、その意味で、無意味な、かつ、一般的な、性質(脱個性的な‐脱自己性的な、性質)、を、獲得する。
像(観念)、も、それに対応する、パースペクティブの中心、を有する、のである、が、その、パースペクティブの中心たる、主体性は、それ自体が、非時間的な、空虚‐無(非在)、なのである。


こうして、われわれ主体‐自己の、事物‐世界は、対照的な二領域の間、すなわち、想像力とレアリテ(観念と身体的現実性)、との間、にある、のである、が、それは、かつてない、驚くべき、創造、なのである。
つまり、生成流転としての世界(無限)は、像世界、の出現、によって、仮象的‐仮想的、にせよ、一つの、統一的な全体性、としての宇宙、として、はじめて、眺められる‐眺められうる、ようになる、のであり、そうした、観方‐思惟方式を、強いる、ことで、こそ、秩序世界が確立しうる、のである。


したがって、このような、観方‐思惟方式の強制は、自己性(モナド的な自己世界)における、個別の様相(レアリテ)、としての、一定の、一般的意味を結ぶことのない見方、を、排除‐抑圧、してきた‐している、のである、が、まさに、そのために、像世界、それ自身の強化(補強)、として、像の、一般性(公共性)、の、究極の根拠、となる、ような、超越的な‐絶対的な、理想的一般像、としてのイデア、が、想定される、ことになる、のである(ある意味では、像とイデア、は、ほとんど、同じもの、である)。
つまり、イデア、とは、規範(唯一の理念)、であり、イデアが、禁じているのは、自己性‐身体的現実性、としての、世界の、無限に、多数‐多様な、あらわれ、であり、そのような、断片化‐拡散化‐蒸発化、を伴う‐引き起こす、ような、個別的感性的世界の、恣意的な‐無秩序な、乱立‐横溢、による、世界の統一性の瓦解、である。


そのような、多数‐多様を、統一し得る、だけの権能は、無、としての、唯一性、だけ、なのである。
しかるに、イデア‐規範、は、無である、がゆえに、絶対、である、と同時に、逆に、まさに、それゆえに、無力‐無能、でもあり、そのため、そのような、抽象的な、唯一の意味、への、集約、は、単なる、幻想的な神話(形而上学)、にすぎない、ものとして見做されれば、その地位‐効力を失う、ことにもなり、すると、そのもとで排除抑圧された、自己性の復権、として、多数‐多様性へと向けた、解放的な‐拡散的な、世界の読解、が、称揚されたりする、ようにもなる、のである(もちろん、それも、像、の前提のもとにある、それ自体、像の作業にすぎない、のであるが)。


像、は、現実‐事物とは、全く異なる、想像物‐観念、であり(そうでなければ、現実‐事物は、生成流転へと、解消する)、それゆえ、寄る辺なく、断片的で、奥行きを持たない、間接的な、表面的‐表層的存在であり、そのままでは、それらの、とりとめもなく浮遊する、像(想像界)、が、一つの全体に到達する、こともない。
そのために、こそ、まさに、それゆえに、理性‐信念、といった、理念的な価値(イデア‐神性)、によって、像をとりまとめる(手懐ける)、必要が、すなわち、像の統一を形成する、必要が、ある、のであり、また、逆に、心情‐感情、といった、人間的価値、へと、その、神話的な統一を、解体して、像をそのものとして、解放しよう、とする、動向‐試み、も、生じる、のである(自己性の復権、とは、このこと、である)。


像の統一、の目論見は、像を、形成されるべき、唯一の世界(理想世界)、において、あるべき、時間的‐空間的な、固有のトポス‐位置、へと、整然と、配置しよう、とすること、であり、統一の解体の目論みは、そのような、固有のトポス‐制度、を、ずらすこと‐移動させること、が、その試みのすべて、である。
もちろん、両者の関係は、相互依存的‐共犯者的、なもの、であり、結局のところ、両者の駆け引きにおいて、総体としての、人間的宇宙(という物語)を形づくろう、とする、もの、その予定調和に向けた、試行錯誤的な過程、へと収斂するもの、である、にすぎない。


統一された世界観‐意味世界、は、普遍性‐真実性、を強調するが、それは、固定された所属‐絆、の、逃れようのない、絶望的な必然性(閉域)、であり、それに対して、そのような必然性の暴力に反抗する、一種の、楽天的な、無意味性(アナーキズム)、が、そのような、逃れ得ない、真実、の牢獄(閉域)、からの、解放(自由)、を求める、のである。
こうして、極端から極端、の間を、渡り歩く‐往還する、どっちつかずの右往左往‐逡巡、において、悲劇‐喜劇、といった、感情的な二重性、が、常に、われわれに、まとわりつく、ことになるのである。
悲劇とは、どうしようもなく、それである、こと(逃れようのない運命)、であり、喜劇とは、その、どうしようもなく、それである、こと(逃れようのない運命)、が、無意味化する、こと、である(革命のギロチン、は、逃れ得ない真実が、一挙に、いわば、力づくで、無意味化される、という、二重性、が、思わず、笑いを誘ってしまう、悲喜劇、である。よくある、繰り返される、反権威主義的な挑発‐デモンストレーションは、この種の笑い、の、卑小な、再現版‐見世物、である)。


もちろん、このような、構築と破壊、の循環、は、人間中心主義的な、言語‐思考のやりくり‐経済、の、二本柱、であり、この芝居染みた、物語‐茶番、は、主体化、という、創造的な、理解不能の空虚、の、不可解な、不在‐欠落、の出現、に対する、それを、紛らわすための、応答‐動揺、の刻印、なのである。