そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


記号‐イマージュ、とともに立ちあらわれる、像としての指向対象(観念‐意味)、は、純粋な、不在の現前、であり、それは、再現(オリジナルの現実の再生)、では、ない。
むしろ、像、こそが、オリジナルの性質を有する、のであり、すなわち、それは、一回限りの反復不可能な現実(定点のない、定めなき、生成流転の無限)、の、模像的な相、ではなく、そのような現実の、不動の相‐反復可能な相、の、創造、なのである。


まさに、自らとして、不動の現実を発見した、そのような像、を通して、こそ、われわれの、秩序的な現実世界、が、創出されることになる、のである。
いわば、像は、現実(生成流転の無限)、と、われわれ空虚な主体性、との、間に、挟まれた、透明な皮膜、のようなもの、なのである。
しかるに、その、もともと、根(根拠‐土台)のない、断片的な外観的存在‐外観の断片的なシミュラークル、のようなもの、としての、像は、自らにおいて、可能なコンテキストをつくり出しうる、特性としてある。


像、こそが、客観的な現実世界、というものを、構成する、のである、が(としても)、それは、われわれが、オリジナルに創造した、世界(像の、秩序的な、構成‐配置)‐公共の世界、なのである。
それゆえに、われわれは、迷信‐虚妄に満ちた、神話的な世界観、をも、公共の現実‐世界、として、出現ならしめる、のである。
いまなお、現実を、不完全なつくりもの‐紛い物、と見做して、理想世界を夢見る‐思い描く、ということが、できる、のは、そもそも、現実自体が、多かれ少なかれ、理想化を、蒙っている、虚構、だから、である。


すなわち、われわれは、現実と思われている、世界、から、人や事物を、決然と切り離して、それらがもともと位置していた、世界‐現実における、各々のトポスの痕跡を、すっかり洗い流して、まるで、幽霊(根なし草)のごとく、浮遊する‐漂遊する、それら諸々の素材を、理念的な世界観のもとに、組み入れ、配置して、その、理想の構図のもとに、変形を蒙った素材、へと、変えてしまう、というような、想像‐空想のシナリオを、思い描くことが、可能、なのであり、現に、そうした人為的な構想に基づいて、理想国家(理想的共同体)建設を、実行に移し、実践する、のである(およそ、官僚という機構が、やっていることは、そうした、自らが思い描いた、理想世界の青写真、に基づく、人為的な操作、である)。


こうして、われわれは、常に‐すでに、寄る辺ない、幽霊の如き存在、であり、現実‐制度、が、変われば、まったく違った、生(アイデンティティ)、を、生きる‐生きなければならない、ことも、ありうる、のである。
たとえば、江戸から明治への移行(維新‐近代化)、の、激変、のように、まるで違う、二つの生の様態を、生き分ける、ことが、でき、変容に柔軟に対応しうる、のは、われわれが、根本的に、根(根拠‐土台)のない、幽霊的な存在、だから、であり、まさに、それゆえに、宇宙でも暮らせる、と、いたって、まじめに、夢見る‐妄想しうる、のである。
宇宙人が、UFOで人間を連れ去る、という、よくある‐よく聞く、妄想は、まさに、夢、としての、理想郷の想像、であり、私を(ここ以外の)どこかへ連れて行って、という、根のなさ、ゆえの、願望、なのである。


われわれには、根源的なオリジナルの場所(境遇)、と言える、ようなもの(確固たる現実への、臍の緒‐繋留点)、は、もともと、ない、のであり、むしろ、理想郷‐新天地‐別天地‐開拓地、を、こそ、求めている、のである(現実主義者でも、死後の世界‐天国、を求める)。
そうであるから、こそ、すなわち、実際にも、人生は、流動的‐可変的である、から、こそ、アイデンティティ(伝統‐出所来歴‐ルーツ)に、頑なにしがみつこうとする、のである、が、そもそも、それ自体が、観念(としてのユートピア)、すなわち、観念的な構成物‐物語(思い込み)、なのである。
要するに、動物のように、自然‐環境、に、本能として、自ずと、かっちりと嵌って、など、いない、のである。


まさに、それゆえに(皆が、根なし草である、がゆえに)、理念的な秩序、への、服従は、強制的、なのであって、およそ、自然なもの、などではない。秩序は、人為的な制度、である、がゆえに、所属‐絆‐規律、は、絶望的に過酷、であり、われわれは、必然性‐運命、の名のもとに‐の観念によって、制度的虚構に、がんじがらめにされる、のである。
そのために、革命、など、制度変更が、唐突に、起こると、基盤を失った、われわれは、自分が何であるのか、一瞬わからなってしまう、自らの、幽霊的な、自己の本質、の露呈、による、茫然自失、に、陥る、のである、し、また、それゆえに、変り身も、はやい、のである。


秩序的思考(言語‐思考)、としての、われわれにとって、真の現実(生成流転の無限)、は、ある、とは言えず、その汲み尽し難さ(無限)、は、察される、しかなく、その無限から‐その無限の上で、こそ、われわれは、その都度の、現実の相、を、発見し、われわれの現実(秩序世界)を創出し、それだけが、不変の現実である、かのように、見做す‐思い込む、のである。
もともと、主体化の一瞥、によって、不動の相、として見られる、ためには、つくられていない、現実(生成流転の無限)、が、主体化によって、はじめて、その一瞥によって、不動の相、として、見られる、ように、なる、のである。
が、もっと正確に言えば、次のようになる。


すなわち、われわれの秩序‐現実は、現実(生成流転の無限)そのもの、ではなく、虚空に切り拓かれた、像、なのである。
したがって、像は、普通、そう見做されている、ように、現実の、類同代理物、では、ない。像(記号‐イマージュ)の、向こう側‐外部、に、ある、とされる、像(記号‐イマージュ)に対する、生(き)のままの現実、それ自体も、像世界、なのである。
つまり、像(記号‐イマージュ)と、現実との、関係は、ほとんど、同語反復の関係(同じ、像、の二重化‐二役、の関係)‐自己関係、にある、のである(もし、そうでなければ、すなわち、両者が、分離している、のであれば、両者の関係‐繋がり、を、うまく説明できない)。
そのような二重関係の、さらに、外部に、不可視の、汲み尽し難い、現実が、非在、として、ある、と想定される、のであるが、しかし、そのように、実体的に、言っては‐とらえては、ならない、のである。
というのも、像は、はじめのもの、であり、それ以前に、現実という、オリジナル、が、あった、わけでは、ない、のである。
順序は‐事情は、逆、なのである。
現実は、像、として、はじめて、創出された、のであり、それ以前‐起源は、この、創出された、像世界、から、遡及的に、想定される、二次的な、像、に、すぎない、もの、すなわち、派生的な像(観念)、としてしか、成立しない、もの、なのである。