カントの言う、現象‐人間が認識しうるもの、とは、人間の先験的な形式によって構成されたもの、である。
すなわち、この、先験的な形式‐現実の構造、こそ、像、なのである、が、像は、もとの現実をオリジナルとする、そのイメージ‐写像、ではなく、この、もとの現実、は、まさに、像と共にある現象(人間の認識)、要するに、像世界、なのである。
そして、通常、われわれは、この、像‐現象(われわれの現実認識‐像世界)、の背後、に、こそ、本当のオリジナルの現実、すなわち、物自体(われわれの主観的認識とは、無縁の、いわば、手つかずの、真の客観的現実)、を、想定している。
この、本当の、オリジナル、たる、物自体は、われわれ(主観)にとって、不可視、であり、現象もしない、超越的な本体、である。
しかるに、可視的な、現象‐現実、は、仮象(主観的歪み)、であり、さらに、この仮象の模造、として、像(イメージ)、がある、と、通常は、見做されている。
つまり、像は、オリジナル‐物自体(不可視の本体)、の模造(仮象)、の模造(像)、ということになる。
したがって、このような、通常の認識、では、可視的な、現象‐現実、は、単なる、手段(手がかり)、であり、非本質的(非本体的)、なもの、にすぎない。
が、しかし、われわれの現実は、仮象‐手段、である、とはいえ、われわれは、その、超越的な、本質‐本体、としての、物自体を、決して知ることはない、のである。
すると、決して知り得ないもの、を、なぜ、そのように対象化‐言及、し得る、のか、矛盾(超越性について、対象化する‐言及する、矛盾)、である。誰も知り得ないもの、は、端的に、存在しない、ということ、と、同義、なのである、から。
カントは、理論的に、この、物自体(本質的‐本体的次元)、に迫る‐を扱う、論理は、すべて、二律背反に陥る、ことを、示す、とともに、美学的なレベル、において、そこ(本質的‐本体的次元)に、迫る、可能性を、示そうとした。
すなわち、美を見る、ことには、特別な価値、が付与され、美として、現実の何かが見える、ことは、直観作用のはたらき、として、現実の諸事物(の外観)を超えた、超越的な次元、つまり、超越的なオリジナルなもの、と関わる、可能性、である、と、見做した、のであり、それゆえ、美しいもの、には、価値(真実)、が認められる、ということになる、のである、と、した。
要するに、美とは、本質‐本体の、アウラ、であり、そして、こうした、美(アウラ)、に対応することのできる主体、を、こそ、人間、である、とする。
すなわち、仮象に惑わされる‐に拘泥する、存在、ではなく、オリジナルな原因、との、相関関係にある、限りにおいて、人間(真の人間性)、と見做される、のである。
つまり、不可視的で、現象しない、超越的な価値(結局は、理念‐神性、のことである)、としての、オリジナル、を、認めうる、主体、こそ、人間(神に向かう人間)、である、ということであり、この、オリジナル、こそが、人間の求めるべき、もの、であり、人間に、人間という存在の、アイデンティティ、を保証する、もの、なのである。
しかしながら、こうした、オリジナル(価値‐理念‐超越)、と、現実(関与‐世界所属)、という、解釈、の、すべて、は、像世界(言語‐思考)、における、想定‐仮想‐空想‐物語(絵空事)、に、すぎない。
つまり、現実は、現象(仮象)、であるが、オリジナルは、現象‐現実からの、さらなる、抽象物、としての像、であり、要するに、観念的な形而上学、なのである。
像、は、主体化、特有の、無関心(没身体的な空虚‐無の視点)、によって、文字通りに、新しく発見、された、はじめてのもの‐はじめのもの(すなわち、創造)、としての、現実の相、の、成立、である。
われわれは、そのような、像(新しい現実‐シミュラークル)、に、囲繞され、その像世界、こそが、この世界‐存在、であり、ゆえに、それ以外には、何も、存在しない。この世界‐像世界、の外部(現実やオリジナル)、も、像、それ自体、であり、像と、同じ比重と意味、しか、持たない。
このため、オリジナル(究極の根拠‐土台)、を欠いた、いわば、地に足の着いていない、宙に浮いた、空間が、出現する‐出現した、ということ、なのである、が、まさに、それこそが、とりもなおさず、首尾一貫した、自己完結的な全体性、としての、われわれの、この世界(公共的な秩序世界)、なのである。
秩序世界、とは、このような、起源(オリジナル)を欠いた、創造、そのもの、であり、自らの起源(根拠‐土台)、をも、遡及的に、自らにおいて、構築する‐措定する、という、特性を持つもの、なのである。
それこそが、一つの、閉じた全体性、の条件、なのである、が、このように、自らにおいて、自らの外部‐起源‐前提、を、措定する、というところに、こそ、矛盾が生じる、のである。
このように、自前で、すべてを用意する特性(自己完結性)、のために、起源‐オリジナルをめぐる、自家撞着的な、混乱(矛盾)、が、生じる、のである。
しかるに、この解決法(解釈法)、は、一つしかない。
すなわち、起源‐オリジナルが、矛盾‐混乱、としてある、のなら、起源‐オリジナルを、矛盾‐混乱、そのもの、と見做して、整然とした秩序の外部に、そのような非整合としての、矛盾‐混乱、を、放逐すればよい、のである。
つまり、そのような、秩序に取り込めない、過剰とは、まさに、自己性、なのである。
こうして、主体‐自己の機能、としての、われわれ‐社会、は、根のない、浮遊する、構成的有機体‐関係的存在、であり、その時々の、関係における、可変的な機能、として、明滅し、所属(アイデンティティ)の移動‐変容につれて、その姿を変える、流動的な、秩序形態、の、はたらき、そのもの、なのである、が、その、ような像世界には、オリジナルとしての物自体、という外部が、なければ、その、像‐写像、としての世界、が、成り立たず、まさに、そのような外部を担っている、のが、自己性(モナド的な自己世界‐身体的現実性)、という、自らの、内なる外部、であり、主体性(公共性)にとっての他者性、である、自己性が、およそ、外部性というものを、含意‐内包、している、ということ、なのである。
