美学には、像の処理‐形成作用、の、二つの潮流‐方向性、がある。
いずれも、像‐素材としての像、を扱う、のである、が、一方は、古典的な伝統芸術のように、素材としての像の次元を、副次的なもの、と見做し、何らかの、超越的な価値(イデア的な‐神学的な、超越的意味)、のレベルに基づく、秩序体系へと組み入れる、処理‐形成作用、である。
他方は、現代的な純粋芸術のように、そのような、超越的な価値のレベルに基づく、秩序体系に覆い隠されている、素材としての像を、それ自身に固有の相、そのものとして、回復させよう、とする、処理‐形成作用、である。
つまり、素材としての像を、後景化すること、と、前景化すること、である。
結局、このような二極化は、われわれ(主体‐自己)にとって、第二の現実となり得た(第一の現実を、自己性とすれば)、像そのもの、の、二通りの、あらわれ方‐扱い方、であり、像は、常に‐すでに、何らかの超越的な価値の次元、と、即物的な、現実的な次元、との、間に、ある、ということであり、その、どちらの方向性が優位になるか、によって、様々に異なる意味を帯びて、あらわれる、のである。
つまり、すべてのもの(像)は、超越的な価値の次元からの、霊感(アウラ‐理性の光)のもとにある、処理‐形成作用としてある(観念論的)、か、そうした処理‐形成作用を伴わない、像(記号)そのもののを露呈させるような、処理‐形成作用としてある(唯物論的)、か、その、いずれか、なのであり、必ず、その間のどこかに、像は、位置している、ということ、である。
要するに、深さのレベルにある、唯一的な価値‐意味によって統一された、秩序体系に組み入れられている、か、そのように、背後‐深奥のレベルに決定づけられていない、表層的な、多数‐多様な意味作用の宙ぶらり‐戯れ、として、ある、か、なのである。
表層のレベルでは、像‐対象に、それ自身が語る言葉を、語るままに、させておく、ように、処理‐形成作用が行なわれる、のに、対して、深さのレベルでは、超越的な価値のレベル(意図‐指図)、が、像‐対象を通して、語られる、ように、処理‐形成作用が行なわれる、ということである。
世界は、背後世界の像‐写像、としてあるか、それとも、像としての己、自体に、目覚めて、その生を生きはじめるか、いずれか、なのである。
が、しかし、いずれにしても、そのすべては、像同士の関わり合い、なのである。
つまり、整理し直すと、像は、前景層、後景層、最奥の層、としてあり、すなわち、前景層は、シニフィアン‐記号自体、であり、後景層は、シニフィエ‐意味、であり、最奥の層は、最終的なシニフィエ‐超越的な意味、である。
結局、像は、多数‐多様、である、ため、およそ、秩序というものは、秩序世界を、超越している、と想定される、超越性の見かけ、としての、何らかの価値(像)、によって、それら、多数‐多様を、統御し、唯一の超越的な価値への、求心的な方向性、において、配列し、そうして、秩序づける、必要があり、それが、不可欠である、ということなのである。
前景層‐シニフィアン、を通じた、後景層‐シニフィエ、の解読、は、目の前に横たわっている、現実存在の意味、への意識、である。
前景層‐シニフィアン、を、後景層‐シニフィエ、の全体的連関へと、練り上げていく、究極の根拠、が、最奥の層‐究極のシニフィエ、であり、この最終的な理想、が、仮象的にせよ、全体としての小宇宙‐世界の統一性の神話(物語)、を、形づくる、中心の役割を果たす、のである、が、したがって、この、最奥の層‐最終的なシニフィエ、の解釈、は、原理‐理念としての、非感覚的な価値(意味)、に向かう、非現実的な‐仮想的な意識、である(要するに、この最終的なシニフィエ、とは、空虚なシニフィアン、であり、すなわち、中身のない空っぽの、主人のシニフィアン、として与えられる、もの、である)。
しかし、このような、後景層‐シニフィエ、の解読、も、最奥の層‐最終的なシニフィエ、の解釈、も、前景層‐シニフィアン、という、不透明な媒介を、通して、しか、現象し得ない、のである。
前景層‐シニフィアンを通じた、イリュージョニスティックなレベル‐効果、として、後景層‐シニフィエはあり、イリュージョンの効果‐世界、において、はじめて、その意味されるもの、の多様性、を、表現しうる‐獲得しうる、のである。
前景層‐シニフィアンの、マテリアリテ(物質的‐感覚的側面)、に捕捉される‐が一人歩きする、と、イリュージョニスティックなレベル‐効果(物語性)、は、制限されてしまう、ということになる、のである。
像の、多数‐多様を、統御し、唯一の超越的な価値への、求心的な方向性、において、配列し、そうして、秩序づける、必要があり、それが、不可欠である、という、その前提、のもとで、なお、その反作用として、そのような像の、多数‐多様の次元‐表層の次元、を、それ自身において、雄弁に語らせる、という、必要がある、のであり、というのも、そうして、像が、自前で、秩序‐無秩序(観念論‐唯物論)、という、内外の二極対立‐二項対立、からなる、全体性、を、演じている‐形づくっている、から、なのである。
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