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前のページ 「美学的な二つの潮流(伝統芸術と純粋芸術という像それ自体の創造性) その1」 からの続き



美学的要素は、すべて、像、であり、以下のような像(諸要因)、の組み合わせ、である。


物質的な、側面‐特質、として。


1 直接的な、表現素材のマティエール‐表現材料のマテリアリテ。
2 間接的な、表現対象のマテリアリテ。


さらには、1や2の、現実的‐日常的な、重さ‐粗しさ、を、可能な限り、否定した‐脱した、感覚的な、側面‐特質、として。


3 表現者の、主観的な、個別的対象のイマージュ。
4 表現者の、個人的な、内的世界。
5 対象を、それとして、成立せしめている、対象自体の、内なる形‐形相。
6 対象を、それとして、成立せしめている、超越的な本体(本質‐価値‐理念)。


表現物‐創作物(芸術作品)は、これらの像(諸要因)の、混合物、の、客観化‐外化(提示)、であり、それらの像(諸要因)の、表現度合いの比率‐比重、の違い、によって、異なる、諸表現(趣)‐諸表現様式、となる。


これらの、諸要因が、照応(コレスポンダンス)して、はたらく、好機(表現の現場)、において、表現者(芸術家)の、諸感覚(気分‐感情)‐教養(機知)‐技量(修練‐経験)、が、それら諸要因に、触れる中で、好機‐チャンス(表現の場)へと、与えられる、その都度に的確な、結合‐分離、としての、豊かで、鋭敏な、その解釈‐反作用‐対応、によって、表現的な像世界は、自分自身を、比類のない、完璧なもの、として、語りはじめる、のである。


しかるに、このような表現過程は、表現者の自我、の過程、ではなく、このような表現過程の主体、たる、表現者は、むしろ、媒介者、として、様々な像世界の要因、によって、当人も知らぬ間に、醸成され、その発作的な(爆発的な‐衝動的な)、表現‐創作、において、像自身の自発性、が、表現者‐媒介者、を通して、像が、自らを語る(語りはじめる)、ことになる、のである(よって、真の表現者は、後先のこと‐周囲のこと、など、考えない、自由‐狂気、なのである)。


というのも、表現者(真の表現者)、というもの、は、そもそも、自身の創作の、行方‐結果としての効果、を、あらかじめ知っているわけではない、のであり、表現‐創作(創造行為)とは、あらかじめ、決め込まれた‐予測された‐計算された、もの(方法)、でない、もの、の出現(創造)、なのであるから(芸術品、と、工芸品、との、違い、は、すなわち、創作‐表現、と、単なる技術的計算‐計画、の制作、との、違い、は、そこにある。つまり、予想外‐想像以上のもの、と、予定通り‐計算通り‐計画通りのもの、との、違い、である)。


こうして、表現において、表現を通じて、像の、それ自体の創造性、が、垣間見られることになる、のである。
すなわち、われわれは、誰も、この像世界の背後(メタレベル)に、あらかじめ、回り込んで、それを、操作する‐意のままに利用する、ことなど、できない、のである。
ナルシスティックな自我への関心‐自発性の幻想、すら、この像世界の内部でこそ、生み出される‐生じる、像‐観念(物語‐思い込み)、に、すぎない、のである。


表現‐創作は、表現者の、意図的な魂胆、によって、ではなく、むしろ、発端も目的も、わからない、ままに‐うちに、像そのものに語らせる、行為、であり、そうした、理由‐根拠‐動機(利害‐関心)なき、創造‐行為、と化していく、ことによって、はじめて、像は、最大限に、像としての‐像そのものの、新たなレアリテ、を、解放しはじめる、のである。