『自分を知るための哲学入門』竹田青嗣(ちくま学芸文庫) | アプリオリならばしかたがない

アプリオリならばしかたがない

良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。
  人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
    ――ショーペンハウアー『読書について』より


テーマ:
自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
¥799
Amazon.co.jp


 わたしたちはなぜ「哲学」をするのだろうか。哲学者や哲学研究者という「本職」は別として、わたしたち現代人が哲学書や哲学について書かれた文章を読んだりするのは、結局のところは「自分を知るため」ではないだろうか。自分自身が何者であるかを答えることはとても難しいことだ。「人間だ」「日本人だ」「大学生だ」などと自分が属しているグループの名前を持ちだしてみても、それは「自分」が何者であるかを答えたことにはならない。「自分」というのは、あらゆる他者とは根源的に異なるありかたをしている特殊な存在だからだ。
 この本は『“自分を知るための”哲学入門』である。自分が何者であるかわからない現代のわたしたちのために書かれた本だと思っていい。著者の竹田青嗣さんは本書の「まえがき」で、哲学とはなにかという問いについての彼なりの答えを3つを挙げている。
①ものごとを自分で考える技術である。
②困ったとき、苦しいときに役に立つ。
③世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。(pp.8-9)
 わたしのなかの「哲学」に対するイメージとも、この3つはぴったり重なりあう。一般的に哲学は役に立たないものだと思われている。哲学書なんか読んでも一円も得しない、どうせ読むならビジネス書のほうがいい、という人は多いだろう。しかし、竹田さんはハッキリと「役に立つ」と言っている。それはどんなときにか。それは「習慣的な考えでやってきて、行き詰まったとき」にだ。実際、わたしが哲学に興味をもった――正確にいえば哲学に助けを求めた――キッカケが、まさに「行き詰まり」だった。上の3つで言えば②である。
 竹田さん自身が、哲学というものに惹かれていた感覚を次のように書いている。
「哲学を読むことができれば『生き方』の“ほんとう”というものをつかめるのではないか、という根拠のない予感が、その頃(引用者注:1980年ごろと思われる)、どういうわけか強くあったのだ」(p.21)
 わたしも学生のころは「生きかたの真理」みたいなものがあると信じていた。世間の大人たちはそれを知らずに堕落して汚れきっている、自分は「生きかたの真理」をいまは知らないが、必ず見つけていつか腐った大人たちに自分の正しさを証明してみせてやる、などと考えるちょっとアブナイやつだった。だが、そういう考えで生きていれば必ず行き詰ることになる。あるとき、自分の理想や考えかたが、他人にまったく理解されないということにわたしは気づいた。それが原因で激しく落ち込み、ゼロからやり直すしかないと感じた。そのときに手にしたのが哲学の本だった。なぜだかわからないが、ゼロから再出発するには哲学しかないと、わたしは直感的に思ったのだ。
 ところで、ひとことで「哲学」と言っても、少なくとも2つの意味がある。学問の一分野としての哲学と、「哲学する」という意味での哲学だ。この関係は、絵に例えるとわかりやすいだろう。学問として西洋画や日本画の歴史や技法や文化的な意味を研究するという営みがある一方で、それとはまったく別の、絵画を実際に描くという営みがある。この2つは、関係はもちろんあるが、人の能力ということで言えばまったく重なり合わない別次元のものである。つまり、美術の研究者が絵をうまく描けるというわけではないし、反対に、画家が美術史や美学に詳しいとも限らないのだ。この絵画の例とまったく同じことが哲学にも言えるのだ。竹田さんは次のように書いている。
「『哲学すること』、それが哲学の本領なのだが、わたしたちはしばしば哲学を学ぶことに意味があると思ってしまう。そうではなくて、さまざまな哲学者の哲学を学ぶことを通して『哲学すること』を学ぶときに、哲学はその本来的な意味を生かすのである」(p.38)
 哲学の「本来」とはなにか。竹田さんはそれを、自分で自分を深く知るための技術であり、自分と世界との関係を深く知るための技術だ、という。つまり、哲学書を読んで「なるほど、これが哲学か」と理解することは、それ自体には意味がないのだ。哲学書を通して得た知を使って、書物を離れて自分自身や自分と世界について深く考えることが、哲学なのだ。

 わたしは若いころ、一種の「独我論者」だった。といっても、厳密な意味での独我論ではなく、竹田さんの言葉に従えば「青年期的独我論」である。わたしは10代のころから強い孤独感を感じていた。すべての人間に嫌われているような気がしていた。学校や社会というものの仕組みや意味が理解できず、そのなかでいつも疎外感を感じていた。折れそうになる心を、わたしはさまざまな観念で補強し、耐えた。物語を書くことと、絵を描くことに熱中した。そのときだけ、自分が自分自身であるように感じることができた。自分の理想的なイマジネーションのなかで生きることは清々しかった。その一方で、他人や世界への憎悪が募っていった。文章や絵画で金を稼いで生活をしたいという夢を見た。しかし現実はシビアだった。夢は破れ、挫折した。
 竹田さんは、次のように書いている。
「人間が生活してゆくのは、一匹のロバに乗って歩いてゆくようなものだ。ロバの上にいる人間はロマンや理想を自分の存在意味を照らすものとして多く持ちたいのだが、この荷物が大きいほど歩きつづけるロバは苦しくなる。ロバののどが乾き、腹が空けば、水や食べ物を与えてやらなくてはならない。これが生活の原則だが、ロマンや理想の積み荷は、そのためには何の役にもたたないのである」(p.56)
 まことにこれは真実である。自分が世界の誰よりも「正しい」と信じ、それを証明するために全身全霊を傾けたとしても、残念ながら、そのことによって生きられるわけではないのだ。「正しさ」は1円にもなりはしないのである。いや、そもそも、その「正しさ」をどう証明するというのか。結局のところ、根拠もなく、ただ自分が自分であるというだけの理由で、正しいと思い込んでいたに過ぎないのだ。だから「独我論」なのである。
 竹田さんは若いころにフッサールの「現象学」に出会い、理想やロマンと現実の齟齬をどのように考えるかという方法を手に入れたという。現象学の創始者フッサールの問題意識は「主観と客観は一致しうるのか」というところにあった。この「主観-客観」一致問題と、「理想-現実」一致問題は重なっている、というわけである。フッサールによれば、「客観的な現実」というものはどこにもない。なぜなら、現象学においてはすべては「主観」だからだ。あるのは、ただ「主観」と「主観」のあいだの「相互的な確信の一致」だけなのである。
 ところで、この本は、現象学の入門書的な性格ももっている。内容的には、現象学だけについて書かれているわけではなく、古代ギリシャ哲学、近代哲学、現代思想までも幅広く扱っている。けれども、竹田さんの軸足はつねに現象学のうえに置かれていて、そこから古今の哲学の強度を確かめていくように話が進んでいくのが、この本の特徴であり、魅力でもある。
 19世紀までの近代哲学では、人間の認識にかかわりなく「真理」が存在すると考えられてきた。しかし、フッサールの現象学では、一切を主観にあらわれた「現象」として、意識という場に「還元」する。だから、現象学においてはすべては主観なのであり、そこでは、客観とか真理という近代哲学の概念が無効になるのだ。となると、ではなにが「正しさ」や「ほんとう」を決めるのか。個々人の主観と主観との「関係」が決めるのである。ようするに、個々人がそれぞれ納得のいく落としどころを探しあって、相互に了解しあって、妥当な線を見つける、ということである。これはつまり、個人と個人が、歩みよる努力が必要だということでもある。だから、現象学は独我論を解体する考えかたなのだ。
「個人の中の内的な信念、『正しさ』は、それ自体として生き延ばされても何の意味も持たない。それは、具体的な人間の関係の中でつねにその妥当が試されるときにだけ、またそういう努力の中でだけ、はじめて人間的な信念として意味を持つ。そのように現象学は教えるのである」(p.72)
 と、竹田さんはいう。このような現象学の視点に立つとき、「真理」は別の意味を持つことになるだろう。すなわち、人々の間で妥当であると確かめられた信念だけが「真理」と呼ばれる資格を得るのだ。
 古典的な「真理」の概念をくつがえしたのは、フッサールだけではない。フッサールに先立って19世紀末にニーチェが真理を打倒しようと試みた。ニーチェの真理批判は、20世紀のポスト構造主義に引き継がれたが、竹田さんはこの思想が日本に受け容れられたときに「奇妙なかたちに歪められてしまった」と指摘する。日本流ポスト・モダンを「思想的相対主義」だと竹田さんは批判する。ニーチェ自身の思想は、相対主義や懐疑主義といったものではなく、人間のポジティヴな欲望を発揮できる「有用な真理の創出」だったはずだ、と竹田さんはいう。このことについては、本書の終章の現代思想のところでもう一度みることにしたい。
 現象学の話に戻ろう。現象学は「真理」を解体したわけだが、では、わたしたちが「正しい」とか「ほんとう」を確信できるのは、どういう条件のもとでなのだろうか。竹田さんは2つの条件を挙げている。ひとつは「内在的確証」、もうひとつは「他者との相互確証」だ。「内在的確証」というのは、自分のなかで何度確かめてもそのように感じられる、だから確かだ、という確証。もうひとつの「他者の相互確証」は、自分で得た確証を他者が承認することで揺るぎないものに変える確証である。逆に言えば、このたった2つの条件が「正しさ」「ほんとう」を支えているのだ。このことから、現象学は相対主義とは無縁だとわかる。相対主義は「みんなバラバラ、人それぞれ」ということなのだから。
 いまの日本は、ポスト・モダン思想が下火になったとはいえ、それに変わる新しい潮流が出てきているわけでもない。むしろ、ポスト・モダン的な考え方は大衆化し、個々人のうちに「他人とはわかりあえない」「なにをやっても無意味」という感覚として沈殿しているようにも思われる。自分だけの世界に閉じこもり、他人と価値を共有するなんてメンドウだ、どうせ他人になんかわかるワケがない、自分にとって「よい」ものだけが「よい」のだ、と考えて生きている人も多いだろう。一種の「独我論」である。理想やロマンがある者は、生きる力をそこから得ることもできるだろうが、そんなタイソウなものを持たない「独我論者」もいまの日本では多いのではないだろうか。マンガやアイドルが「ロマン」だという者も少なくないはずだ。
 思想や哲学がふたたび、かつてのマルクス主義のように多くの人々を動かし、社会を変えようとする力になるとは、わたしはまったく思わないし、望んでもいない。歴史をふりかえれば、思想によって多数の闘争・戦争・流血・暴力が繰りかえされてきたからだ。哲学がいまの日本の社会で意味を持つとしたら、苦しみや生きづらさのなかから個人を救いだすことぐらいではないか、とわたし自身は思っている。相対主義や独我論が個人を苦しめているのだとしたら、現象学は、その苦しみを緩和し、別の可能性を個人に――もしかするとグループや組織にも――開くキッカケを与えてくれるかもしれない。

 さて、ここまで本書の前半の「Ⅰ」部の内容をみてきた。ここからは後半の「Ⅱ」部の内容をみていきたい。「Ⅱ」部では西洋哲学の過去と現在がおもなテーマとなっている。
 西洋哲学が古代ギリシャで生まれたことはよく知られているところだが、そもそもギリシャ哲学はどういう形で始まったのだろうか。最初の哲学者とされるのはタレスだが、彼は「万物の原理は水である」と説いた。また、アナクシマンドロスは「万物の原理は“無限なるもの”である」といい、アナクシメネスは「万物の原理は空気である」といった、とされる。つまり、「世界の原理はなにか?」を説明することから哲学はスタートしたのである。「原理」とは、一番はじめ、起源、ものごとの根っこのことだ。
 竹田さんは、哲学はつぎつぎとあらわれる異説の歴史でもある、という。科学は最終的な見解の一致がありえるが、哲学にはそれがない。古代ギリシャ時代には比較的シンプルだった哲学は、やがて日常語を離れ、抽象的な論理語で書かれるようになり、専門家だけが参加できる領域へと変貌していった、という。そうなるともう専門外の人間がちょっと覗いてみただけではなにをやっているのかさえわからない。生活から完全に遊離し、普通の人間からすれば「無駄なもの」と感じるものになってしまった。しかし、竹田さんは次のようにいう。
「哲学はただ原理的にものごとを考えようとする思考法、つまり推論を徹底することで、いつのまにか出来上がっている常識的な世界像を絶えず疑い直すような思考の一技術を意味したし、今でもそういう根本の原理は変わっていないといっていい」(p.99)
 哲学が問題としてきたものは時代とともに変化してきたが、その本質の部分は不変であるのだ。重要なポイントは「推論を徹底する」というところにあり、宗教や神話と異なるのはその部分なのである。宗教や神話は、経験を超えた想像力に支えられている。しかし、哲学では想像力の代わりに「理性」が、世界の全体像と起源を問い、答えようと試みるのである。だが、哲学はひたすらに理性的な言葉による営みであるため、世界をあるかたちに切り出すことはできても、世界全体を捉えることはできない。言葉とは限定する性質をもっているのだ。それはつまり、どんな哲学者でも世界の総体を言い尽くせないことを意味する。
 ところで、古代ギリシャ哲学のビッグネームといえば、やはりソクラテスだろう。なぜソクラテスが重要かといえば、世界の根本的な原因とはなにかという問いに対して、これまでの哲学者とはアプローチを180度変え、哲学の歴史のなかで初めて人間の「心」が世界を秩序づけていると考えたところにある。竹田さんは、この考えをニーチェの「力への意志」と大変近いものがある、といっている。ニーチェによれば一切の現実とは「力への意志」によって「解釈」されたものだ。ソクラテスは、「世界はいかにあるか」という問いを、人間の心の問題と捉え、それを「真・善・美」にかんする問題として、哲学が探求すべき唯一のことがらだと説いた。たしかに問題の把握のしかたはソクラテスとニーチェは似ている。
 少し先を急ぎ、近代哲学をみてみよう。近代哲学といえば、デカルトは外すことができない。デカルトについてはこのブログでも『方法序説』『省察』を紹介してきた。だからここで彼の思想を改めて確認しないが、竹田さんは、デカルトの方法的懐疑というやりかた、すなわち当時の懐疑論派の考えを受けとめたうえで、その立場から考えを進めて思想的対立を解きほぐしたことを評価している。次のように書いている。
「思想とは、要するにいろんな対立する主張や立場ができてしまうことで成立するものだ。この対立や混乱が理論を鍛えてゆくもととなるのだ。だから自分の立場や信念を強く主張することが思想だと思っているひとは救えない。思想は、そもそもいろんな主張の対立の間に新しい言葉の糸を通して、この対立を馬鹿馬鹿しいものにしていくような努力なのである」(p.141)
 竹田さんはサラッと書いているが、わたしたちはこの考えかたをよく吟味して受け取る必要があるだろう。思想的な対立は、いまでも人間がいるところのあちこちで見られる。根拠もなしに自説がもっとも正しいと思い込み、それを大声で宣伝したり、他人にも自分の考えを無理やり押し付けようとすることは、愚かなことである。世の中を無根拠な説が砲弾のように飛びかっている。自分の陣地を拡大することだけを考えている者が多い。だが、こういう対立や闘争は「思想」が本来めざすとことではないはずなのだ。
 近代哲学といえばカントも外すことができない。カントといえば道徳論が有名だが、彼の業績は道徳論だけではない。人間の「理性」では原理的に決着がつかない問題があることを、カントははっきり示したのだ。いわゆる「純粋理性のアンチノミー」と呼ばれるものだが、すなわち、古代ギリシャ以来の世界の根源的な問題は、人間には原理的にけっして答えることができないことを厳密に証明してみせたのだ。たとえば世界の時間的な「はじまり」を問うとする。時間に「はじまり」が「ある」という考えと「ない」という考えが存在する。「ある」という場合、では時間がはじまる前は無だったのか、無からどうやって時間が生じたのか、という新たな難問を生みだす。「ない」という場合、時間は「無限に」経過したということになるが、しかし「無限に経過する」というのは言葉として意味不明である。つまり、「ある」という主張も、「ない」という主張も、どちらも論理的な矛盾をもっているのだ。ここからカントがなにをいいたいのかというと、
「理性というものは推論の能力であって、ものごと(現に与えられているもの)の存在理由、その原因結果の連鎖(=条件)をとことん問い続けて、最後にその『完全性』、『全体性』にまでいきつかないと、決して『なぜ』と問うのを止めないような本性を持つ」(pp.161-162)
 と、いいたいわけだ。「理性」というのは人間の考える能力だから、知覚や感性というものとは違って、自分にいま与えられているもの以上のことについて知ろうとする。つまり「はじまり」と「おわり」を知りたいと欲する。「全体像」を知りたいと欲する。しかし、それを知ろうとすること、すなわち推論することは、必ず論理矛盾(パラドックス)にたどり着くのだ。カントは、このことを証明してみせたことによって、それまでの哲学的な問題がじつは「解答不能」であることを宣言したのである。
 カントは理性の限界を示してみせ、哲学が取り扱うべき問題を「人間の自由」に限定した。つまり、問いの方向を「世界は何であるか」から「人間はどういう世界をめざせるのか」にシフトさせたのだ。
 近代哲学はカントののち、ヘーゲルによって「完成」させられる。いまみたように、カントは人間の認識能力を限定したが、ヘーゲルは、人間の認識は限定されたものではなく、徐々にその能力を高めていくものだ、と考えた。その上昇運動の基本法則が、いわゆる「弁証法」というもので、命題Aに対して反対の命題Bが出てきた場合、それらを矛盾することなくまとめあげる命題Cを見出す、という方法である。だから、ヘーゲルはカントが限界づけた認識能力を批判し、歴史全体を通して人類がより深い知を獲得すれば「決して知られえない世界」――カントの言葉でいえば「物自体」――などというものはない、と考えた。ヘーゲル哲学は巨大な「体系(システム)」である。これまでのすべての人類の歩み、哲学の営みは、「絶対的な精神」が歴史を通して自己を実現するプロセスだ、という壮大な物語として解釈されるわけだ。ヘーゲルは近代哲学の「認識論」問題――主観と客観は一致しうるのかという問題――を弁証法によって(いちおう)解決し、哲学を歴史と社会の形而上学として作り変えたのだ。

 だが、ヘーゲルは2つの問題を置いていった。ひとつは、歴史や社会に決定論的性格を与えてしまったこと、もうひとつは歴史・社会を規定する超越者(絶対的な精神)を想定してしまったことだ。ようするに、個々人の主観というものを捨て、ひとつの客観に強引にまとめあげたといっていい。
 ヘーゲルのあとに登場した哲学者は、ヘーゲルが残していったこの大きな問題と格闘することになる。ヘーゲルの考えに対立した代表的な哲学者にキルケゴールがいる。キルケゴールは「実存」の哲学者といわれるが、竹田さんは「実存」を次のように説明する。
「『実存』とは、人間の生が他人と決して取り換えられない固有のものであり、また一回切りの絶対的な性格を持っている、という生の独自の契機を意味している」(p.193)
 わたしは以前、哲学の概念としての「実存」の意味がなかなかつかめずに苦労した。日常生活では、まず使わない言葉であるし、学校でその言葉の意味を習った記憶もない。わたしが「実存」のイメージをハッキリつかめるようになったのは、「実存」を「社会」との対比で考えるようになってからだ。わたしたちは、子供のころから「社会」の一員として教育されるし、家庭でも学校でも職場でも、社会的な存在として振る舞うことを絶えず求められている。その一方で、自分自身にしかわからない経験や感情や価値があり、そういったものが大切に感じるのは自分がほかならぬ自分だからだし、自分の人生が有限だと知っているからだ。自分は自分独自の、他人にはけっして知りようがない世界を生きているのだ。そういう人間の「二重の構造」に気づいたとき、スッと「実存」の意味が理解できた。
 「実存」の構造が理解できたとき、自分の今までの苦しみや辛さの理由や原因も、すべてスッキリと理解することができた。「社会的な存在としてのわたし」と「実存としてのわたし」が齟齬を起こすことが原因なのだ。わたしたちは、完全にどちらか一方の生き方をしようとすると、必ず問題や矛盾にぶつかり、苦しみや辛さを味わわなければならなくなるのだ。
 キルケゴールの問題意識も、わたしのその実感と重なっている。キルケゴールによれば、人間は自分自身に対する「不安」――固有の孤独や絶望――をつねに持っている。世間の俗事にかまけ、他人の猿真似をして群集のなかにまじっていれば、不安は忘れ、気楽に安全に生きていける。金を稼ぎ、出世し、結婚し、子供を育て、家を持つ――そういったことを「生の理由」として生きていけば、人間は孤独や絶望の問題を見ないですむのだ。しかし、キルケゴールの言葉でいえば、それは「自分自身を忘却」するということなのだ。キルケゴールの考える人間は、「死」によって限定された存在であり、ゆえに人間の本質は孤独と絶望のうちにあることなのだ。にもかかわらず、生きてゆけるのはなんらかの「可能性」を見出すことができるからである。
 実存哲学といえばニーチェを忘れてはいけない。キルケゴールの「実存」は、神に向きあう個人の信仰というテーマももっていたが、ニーチェは無神論的である。ニーチェによれば、キリスト教は強いローマ人に支配されていた弱いユダヤ人の「ルサンチマン(うらみ)」が生みだした、価値評価が転倒した宗教である。強者にとっての「よいこと」は、強者自身であり、自分が行うこと――創造的な行為や生を積極的に楽しむこと――そのものである。しかし、弱者は強者を憎んでいるから、強者にとっての「よいこと」は、そのまま弱者にとって「悪いこと」になる。そして弱者にとっての「よいこと」に、貧しさ、弱さ、病気、という本来ならばネガティブなものが置かれることになる。その考えかたは、究極的には現在生きていることじたいの否定に向かい、死ねば救われる、あの世で幸せに暮らせる、という教義が生まれるに至る。これが、ニーチェによるキリスト教の起源だ。
 ニーチェは、ルサンチマンをどうすれば克服できるかということを考えた。それが「超人」や「永遠回帰」という思想に結実している。(これらの思想については、先日このブログで『ニーチェはこう考えた』という本を紹介したときに詳しく書いたので、そちらも参考にしてもらえればと思う)。竹田さんは、この「ルサンチマンの克服」ということに関してはやや批判的だ。
「ルサンチマンは苦しいとき、辛いときに人間が持ち出す心の切り札だ。それは生のマイナス価値を積極的な生の意欲(攻撃や堕落への意欲だが)へ転換する不思議なメカニズムだからだ。だからむしろ、それを完全に克服しようとするより、自分の中にルサンチマンがあることをよく意識することが大事だろう。自分の中のルサンチマンを克服しようとすることは弱さを無理やり強くするということだが、これはこれでまたまたいろんな矛盾を生んでしまうからだ」(p.201)
 その通りかもしれない。ニーチェが提唱する「超人」にしても「永遠回帰」にしても、ひとつの物語(フィクション)であり、その物語の力で弱者が強者になれるのかというと、未知数というか仮説というか、とにかくまったくわからない部分でもある。わたしたちの心の弱い部分というのは、いうなれば、わたしたちの実存の本質の一部でもある。そういうものがなければ、人間の芸術も文学もたいへんツマラナイものしか生まれなかっただろう。弱さのなかで苦悩することじたいが、人間から切り捨てることができない本質の一部に違いないのだ。
 キルケゴールやニーチェの影響を受けた哲学者にハイデガーがいる。とくにキルケゴールからの影響は強いようだ。ハイデガーもキルケゴールと同じように、「死の不安」を人間の気分(情状性)の本質と考え、日常の世事にかまけて死の可能性を直視しないことを「頽落」と呼んでいる。人間は死の可能性を直視できない、だから社会の共同の「掟」を作って、死の可能性を隠蔽しようとするのだ。こういう、人間の本来的な自覚や生の発露を妨げるような構造が、社会や共同体にはあるという感覚を、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーは共通してもっていた。
 人間は死の不安を打ち消すために、世俗的な自己理解――世間一般の枠組みから自分が何者かを理解する――に安住する。これが「自己了解」の限界になる。しかし、死の不安をよく自覚することによって、「自己了解」の可能性が広がる、とハイデガーは考える。彼のいう「了解」は、理性で捉えるような理解ではなく、「気分」に気づくことだ。「気分」はむこうからやってくるものであり、いわば身体や欲望からの「告げ知らせ」なのである。これはハイデガー独自の考えかたで、世界がわたしたちに世界自身を「開示」してくると捉えているのだ。世俗的な自己理解をやめれば、おのずと「本来的」な自己了解がやってくる、というのがハイデガーの主張である。これは、ハイデガーの先生でもあるフッサールの「エポケー(判断停止)」という思考的操作のハイデガー的な言い直し、あるいはリメイクという感じもする。竹田さんはハイデガーの「自己了解」を、「いわば自分の身体や欲望の声を聞くことである」といっている。
 キルケゴールもニーチェもハイデガーも、その思想的試みは、ソクラテスの「心の原理」を源流にしていると、竹田さんは指摘する。そして次のように書いている。
「哲学にはいつもふたつの大きな流れがなり、それらは絡み合っている。ひとつは世界の“客観的”な構造認識の努力であり、これはつねに新しい論理矛盾を生み出して哲学を複雑なものにしてきた。もうひとつは世界の構造を秩序づけているのは人間の心(=幻想)であり、したがってこの幻想の原理を探求することに哲学の本来があるという考え方の流れである」(p.218)
 そして、このような骨格は現代思想でも同じだという。現代思想については本書では大きく取り扱っていないが、最後に竹田さんによる現代思想の全体像をみておくとしよう。

 1960年代を境にして、マルクス主義が失速し、マルクス主義を批判するさまざまな思想が現れてくる。構造主義とかポスト・モダン思想といったものだ。竹田さんは、これらの源流として「ニーチェの反形而上学思想」「ソシュールの形式言語学」「フロイトの無意識の思想」の3つを挙げる。また、現代思想には大きく2つの軸があるという。ひとつは、世界の構造認識に新しい要素を加えてさらに精緻化しようとする契機、もうひとつは、認識の精緻化にともなって現れる言葉上の論理矛盾をつきつめようとする契機である。そういったアプローチから浮かび上がってきたのが、たとえばドゥルーズやボードリヤールが描き出すような「社会はオートマティックなシステムであり、個人はそこでは自由な主体ではありえず、人間の認識はシステムのなかに最初から組み入れられている」という世界像だった。これはつまり、わたしたちは生まれたときからシステムのなかにいて、そこからけっして出ることができず、しかもシステムの全体を知ることすらできない、というきわめて悲観的なものである。竹田さんは、現代思想は根本的な「行き詰まり」になっている、「認識、思想、主体の死」ということが生じつつある、という。
 竹田さんは、わたちたちはいま一度、ニーチェの思想に立ち返るべきだと考える。ニーチェは一切は「力への意志」による解釈だ、としたうえで、思想は有用な真理を創造することだ、と説いた。思想は結局はひとつのフィクションに過ぎないが、それでも、人間の生の意欲を高めるものであるなら意味があるのだ、といっているのだ。たしかに、現代社会は巨大なシステムであり、個人がなにをやってみたところでそれを変えることはできない、無意味だ、というリアルな感覚をわたしたちはもって生きている。現代思想はそういう現代社会をうまく説明するが、結果的にニヒリズムやペシミズムに陥り、その思想を受けとる者の意欲を喪失させてしまっている。竹田さんが懸念するのはまさにその部分である。竹田さんは、思想は人間の生を肯定し、新しい可能性を与えるようなものでなくてはならない、と考える。
 では、具体的にはどうすればよいのか。竹田さんは、生活世界、つまりわたしたちの生活の現場から考え直してみなければならないと考えている。個々人の人間にとって、生がよいもの、肯定できるものである生活の条件はなにか、というところから発想しようとする。人間の生にとって「真・善・美」とはどういうことであり、それがどんな条件において可能になるのか、と考える。「真・善・美」は、価値の原理であり、生の営みのなかでおのずと「告げ知らされる」ものである。もちろん、個人にとっての「真・善・美」がそのまま万人にとってもそうだということにはならない。だから、竹田さんは次のようにいう。
「『真・善・美』の普遍性は、人間間の相互了解の中で、“妥当”を積み上げていくというプロセスにおいてのみ得られる。この普遍性はある絶対性を予定しているわけではない、そうだとすれば『真・善・美』についての形而上学的“真理”が存在することになるだろう。むしろそれは現象学がよく示しているように、つねにそのつど創造されるものなのである」(p.239)
 そのとおりだと思う。竹田さんの考えは、とても納得のいくものである。
 しかし、わたしたちはどんな考えでも、丸飲みすることは避けなければならない。「竹田さんがいうから正しい」とか「フッサールが書いていたから正しい」という態度は、哲学的とはいえないからだ。自分の頭で意味や筋道をよく吟味し、その強度を何度も確かめ、生活のなかでツールとして使えるようになってはじめて、それは「いいものだ」といえるはずだからだ。

mmggrrさんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス