アプリオリならばしかたがない

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良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。
  人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
    ――ショーペンハウアー『読書について』より

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 【第十三章 映画様式の問題】③(pp.230-235)
 ニュース映画は、一見まったく無害な報道のように思われるが、実際には宣伝のもっとも有効な手段である。ニュース映画は、資本を提供した団体の目的にそって、現実が組み立て直される。それは、客観的で信憑性があるように見える素材を用いて作られているので、捏造を得意とする新聞などよりも、さらにずっと巧みに人を騙す。
 しかし、ニュース映画に使われた映像を、編集でちょっと変えるだけで完全に別物にすることができる。たとえば、検閲を通過した映像素材を使って、体制を批判する映画を作ることも可能だ。
 編集には、「事実」を並べながら、それが「真実」にも「虚偽」にもするという力があるのだ。ニュース映画がもつ説得力の秘密は、観客が自分を事実の「目撃者」と信じるところにある。けれども、撮影されたものというのは、無数の事実のなかから、あるひとつの事実が意図的に切りだされたものなのである。

 編集とは、構成である。それはドキュメンタリー映画だとしても同じである。わたしたちが編集によって見せられる順序は、偶然の産物ではなく、映画監督がある目的と意図のもとで並べたものである。それらは撮影がおこなわれる前から存在していたものだ。それは「シナリオ」といってもいい。どんな撮影にも、先行して必ずプランが存在するのだ。
 ニュース映画は、実際の事実や出来事から成り立っているが、そこには、ある「意味」と「精神」が視覚化されているというべきだろう。それらは監督があらかじめもっている信念であり、彼が映画を作るのはそれを公表し正当化し宣伝するためである。たしかに、監督は現実を撮影しているだけに過ぎないが、彼は編集によってそこに「意味」を賦与するのである。
 だから、監督は完全に客観的な中立的なニュース映画を作ることはできない。ショットを選択し、特定の順序に並べるとき、必ず「観点」と「意図」が混入してくるのである。絶対的中立の立場は存在しえない。もし、それを標榜する人間がいるなら、嘘つきである。ニュース映画とは、作者が「真実」であると考える意味と価値を知らせるものである。
 劇映画が「真実」を隠蔽することができることは誰でも知っているが、ニュース映画もそうであることは、素人の観客は気づかない。
 映画監督がおこなっていることは意味賦与である。現実に一定の意味を与えることだ。だから、監督が選び取る現実は、もはや現実ではなく、「意味」なのだ。それを判定するためには映画を超えた広い基盤に立つ必要がある。
 編集は必ず意味を生みだす。仮に監督にその意図がなくても、自動的に意味を生みだす。芸術作品では、どんなに少なくても現実の一部を含んでいるとき、それは現実全体の「象徴」として作用する。これは表現の基本原理で、芸術作品の鉄則だ。それは作者の意図を離れ、観客に訴えかける。
 観客は、結合されたショットからつねに連想を行う。人間の意識は、現象のなかに原因・結果という意味を読み取ろうとする。人間が作る作品には必ず「目的」があると考えるのが人間の自然な思考である。だから、わたしたちは作品と出会うと、意味を探ったり、推測したり、感じ取ろうとするのだ。仮に、デタラメにつなぎあわされたフィルムを見ても、そこにやはりなんらかの意味を見いだすだろう。もしも、世界には意味がないというニヒリスティックなテーマを描く作品であっても、そこには「無意味さ」という意味が表現されているのだ。
 意味はこのように自然に生じてくるものだ。だから監督は、意識的にそれをコントロールすべきなのだ。
 この事実、そのテーゼこそが、ショットの選択と構成を決定する「様式化の原理」なのである。
 
 (【その18】へつづく)
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 本が好きな人ならばだれでも、いつも自分のそばに置いておいて、困ったときや行き詰まったときに開く本というものが、少なくとも一冊はあるのではないだろうか。
 わたしにとってのそれは、竹田青嗣さんの『愚か者の哲学』という本である。竹田さんは、西洋哲学をシロウトにもわかりやすく解説した哲学入門書を何冊か書かれていて、このブログでも以前、『自分を知るための哲学入門』という著作を紹介した。その本よりも、『愚か者の哲学』はさらに一段階、初心者向けの本である。
 哲学というものに興味がある人は、たぶん何らかのキッカケがあって哲学に近づいていったと思うのだが、わたしにとってのキッカケはまさにこの本だった。生きる上での方向性を見失ってしまっていたとき、図書館の哲学コーナーの棚でたまたまその鮮やかな緑色の背表紙が目につき、手にとったのが出会いだった。
 「愚か者の哲学」という奇妙なタイトルにも惹かれた。「賢者の哲学」というなら、わかる。一般的なイメージとしては、哲学は賢者のものだからだ。愚か者には哲学は関係がない、と考えるのが普通である。しかし、タイトルは「愚か者の哲学」である。少なくとも、自分が賢者だと自認している人向けに書かれたものではなさそうだ、愚かな自分でも読めるようなものかもしれない、とそのときわたしは感じたのだった。
 その予感は当たっていた。しかも、わたしがちょうど求めていた内容でもあった。「どう生きたらいいのか?」。それが、当時わたしが抱いていたもっとも大きくて切実な問いだったが、この本はその問いに真摯に答えようとしてくれる書物に思えた。
 ところで、「どう生きるべきか?」という大きくて漠然とした問題に直面した際、そういうときに読む本の種類は、おそらく三種類くらいにわけられるのではないだろうか。ひとつは、宗教的な本。仏教やキリスト教、あるいは新興宗教やニューエイジ思想などの本である。ふたつめは、文学。古今東西の物語や小説や詩や戯曲などである。マンガもここに含めていいだろう。そして、みっつめが哲学の本である。哲学の本といっても、「哲学」という単語をタイトルにもっている本は意外と多く、西洋哲学・東洋哲学に関係したもの以外にも、人生哲学だの成功哲学だのといった本がある。
 わたし自身も実際、過去に宗教的な本や文学を読んでみたことはある。けれども、わたしにとっては深い納得が得られなかった。
 哲学というジャンルに手を出したのは、そういう経緯があったからだった。

 本書は、大きくいうと三つのブロックにわかれている。「子どもの哲学」、「若者の哲学」、そして「大人の哲学」だ。つまり、人間の成長の段階ごとにそれぞれの問題があり、それについて考えるためのそれぞれの哲学がある、というアイデアにもとづいてこの本は書かれているのである。19世紀のヘーゲルという哲学者は著書『精神現象学』のなかで、人間の「意識」は、素朴な認識からスタートして、最終的に理性という段階に至るのだという、意識の発展の思想を書いているが、竹田さんの本書の構成のアイデアはもしかするとそのあたりにあるのかもしれない。
 本書の特徴は、人間の各成長段階のテーマを西洋哲学または西洋文学のビッグネームたちの言葉を引き合いにだしながら、竹田さん自身の哲学的洞察にもとづいて、問題解決のための「ヒント」を読者に提出する、というところにある。本書の重要なポイントは、有名な哲学者の言葉をそのまま解答として提示するのではなく、必ず竹田さんのフィルターを通して彼独自の語り口によって語られている、という部分である。

 【子どもの哲学】
 では、まず「子どもの哲学」というところから見ていきたい。
 子どもといえば、いたずらをする存在である。いたずらとは何だろうか。子どもにとって、いたずらとは親から与えられたルールを少し破ってみることである。竹田さんは、ここで18世紀のヒュームという哲学者の考えを示す。すなわち、人間も社会もようはたくさんの「ルールの束」でできているのだ、という考えである。
 子どもは、親や周囲の大人からさまざまなルールを教えこまれて成長する。子どもが「人間」になるのは、ルールを覚えて蓄積していくことに他ならない。
 竹田さんは、このルールの束が「自我」であるという。自我というと、人間だれにでも生まれつき備わっている感情や欲望のように思えるが、じつはそうではなく、感情や欲望というのは親から与えられたたくさんのルールが、いつのまにか身につき、そして忘れられた結果なのだという。それが事実であることは、狼少女が人間的な感情をもっていなかったことからもわかる。狼少女は自我をもたないのだ。
 子どものいたずらとは、大人のルールの世界への小さな挑戦だといえる。子どもはそうやって、大人たちの世界の強度を試しているのだ。そういうプロセスを通して、子どもたちはルールが「絶対ではない」ということ、また、その仕組や意味を少しずつ理解していくのである。それは、やがて大人になる彼ら彼女らにとって、将来、自分たちなりのルールを作っていく準備でもあるのだ。

 動物の欲望は身体的な「快」の充足にあるわけだが、人間独自の欲望は身体的な快とはまた別の快を求めるところに特徴があるといえる。竹田さんは、人間的な欲望の最初のものは「ほめられること」(自己愛)だという。
 「ほめられるとうれしい」という感覚が、人間の自我を作るという。どういうことか。さきほど、人間の自我はルールの束だということを見た。そのルールの束が作られるためには、幼児のときに親からの禁止ルールを自分から受け入れていかなくてはならないが、そういう努力に対して「ほめられる」という報酬が与えられるからこそ、幼児は親のいうことを守るのである。
 「ほめられる」というのは言い換えれば「愛されること」であり、つまり「他者から評価される」ということだ。だから、自我とは、「ほめられたい」「愛されたい」「認められたい」という気持ちから作られているわけであり、一言でいえば「自己愛」でできているということなのだ。
 自己愛を満たすためには、「よい子」になる必要がある。よい子は、親や先生からほめられ愛されるからだ。もしも、人間が皆このまま成長して大人になるのなら、よい子ばかりになり、社会に人的なトラブルは存在しないということになるだろう。
 しかし、人間とはそんなに単純ではない。理想的なキレイな自己像をもついっぽうで、利己的な自己愛(利己心)をもつのもまた人間だからだ。
 
 学校はなぜあるのだろうか。教育は近代社会のもっとも重要な柱だ、と竹田さんはいう。その理由は、人々を共同体から解放し、「一般市民」という自由な競争をおこなうための平等なスタートラインにつかせるからだという。
 近代以前の共同体社会では、子どもに自由な選択というものはなかった。つまり、親と同じような仕事をして共同体のなかで生きていく以外の可能性がなかった。そういう社会では、規範やルールは絶対的なものだった。
 近代社会での学校は、さまざまな階層の子どもたちを、生まれや育ちがどうであるかを問わず、同じ教科を教え、純粋に「能力」を競わせる。つまり、最初から上下が決まっている身分での差別をやめ、すべての子どもを同じスタートラインにつかせ、みんな同じ人間として扱う。これが重要な点である。
 別の言い方をするなら、学校は、近代社会の「健全なモデル」としての機能があるといえるだろう。矛盾の多い現実社会はともかくとしても、近代の社会は原則としてフェアなゲームな世界なのだ、ということを子どもに体験させる場(シミュレーター)として、学校があるのだ。

 さて、「自我=ルールの束」というのは竹田さんが本書で主張している重要なテーゼである。「自我」は、動物の本能と対比した場合、本能が自然環境に対応する仕組みであるのに対し、自我は人間社会のさまざまなルールの網の目(関係の世界)に対応するための仕組みだといえる。そして、その自我もまた、ルールの束なのである。
 その自我を構成するルールの束であるが、その中身は「真・善・美のルール」であるという。これはようするに「真偽」「善悪」「美醜」を判断するルールであり、人間はそれらを「倫理観」や「美意識」という形でもっている。言い換えれば「価値のルール」ということになる。
 人間は、人間世界を生きるとき、本能の代わりにこの「価値のルール」を使って生きていく。けれども、全員がそれをうまく自分のなかに作れているとは限らない。親子の関係において、なんらかの理由で「価値のルール」の形成に失敗した人もいるのだ。たとえば、親が子どもに与えるルールが、社会での一般的なルールと異なっていたり、あるいは父親と母親でルールが異なっていたなど、そういう問題にさらされていた人たちである。
 他者と関係がうまくいかない、と感じる場合、親子の関係において「価値のルール」の形成がうまくいかなかったのではないか、という可能性を考えてみる必要があるだろう。

 【若者の哲学】
 思春期は「自我」がオバケのようにふくれあがる時期だ、と竹田さんはいう。「自己意識の欲望」すなわち「自分が自分である」ということを示したいという欲望に、若者たちは突き動かされる。その理由は、思春期あたりから人間は自分が「自由」な存在であると、意識のなかで発見するからである。
 それまで親から一方的に与えられたルールを守って「よい子」でいつづけていた。しかし、ある時期から自分の内面で「思考」をするようになる。「思考」とは、現実ではともあれ、自己意識のなかでは自由に言葉を使い、現実に反発したり批判したりすることができることである。それは、若者のなかに蓄積した言葉の数が一定量を超えたときに自然に起きる現象である。
 「思考」を手に入れた若者は、自分を正当化し、自分を「世界の絶対的な主人公」だと考えるようになる。年齢的には14~15歳ごろ(まさに中学二年、中二!)から、子どもは世界のすべてを自分流に勝手に解釈し、自分は自分だという感覚に強くこだわり、自分の「自由」を自覚するのである。これが「自己意識の自由」である。
 しかし、このような「自己意識の自由」はさまざまな問題や矛盾を内包している。ひとつは、「自由」とはいっても、意識内だけでの自由であるので、現実的には親や社会のルールに依然として縛られ続けている、ということ。もうひとつは、自分が絶対の主人公だと思いたいのだけど、しかし誰もが同じような願望をもっていることに気づかざるをえないこと。つまり、思考の力は「自分は特別な(=唯一のかけがえのない)存在だ!」という真理を発見させるのだけど、それは挫折する宿命にあるのである。
 
 「自己意識の自由」という言葉を作ったのは哲学者ヘーゲルだ。ヘーゲルはこの「自己意識の自由」に、三つのパターンがあると考えた。
 ひとつめのパターンは「ストア主義」である。ストイックという言葉の語源であり、ようは禁欲的な人たちのことである。彼らは人間たちの競争を醜いものだと考えている。だから、自分たちはそれにかかわらず、自分たちこそが価値と独自性をもった存在だと「頭のなかで」思っているのである。
 ふたつめのパターンは「スケプチシズム」である。いわゆる懐疑主義である。懐疑主義者は人の意見の弱点を見つけて相対化しようとする。人間の意見なんてすべて相対的なものに過ぎない、それを自分は知っているのだ、という優越感で自己意識を保とうとするのである。
 最後のパターンは「不幸の意識」である。ストア主義とスケプチシズムは、他人を見下すことで「相対的に」自分の価値を高めようとする戦略だったのに対し、「不幸の意識」は偉大な「物語(理論)」と自分を一体化させることで、自分も優れた存在になろうとする試みである。ヘーゲルの時代であれば、偉大な物語はキリスト教だった。少し昔ならマルクス主義がそうだった。偉大な物語を自分が身につけることで、自分が偉大になったと感じることができる。
 しかし、残念ながらこれには大きな弱点がある。偉大な物語は必ず、信じる者に対して「立派な人間」になることを命令するのである。つまり、理想のためにすべてを捧げることを要求するのである。だから、たいていの場合はその要求に応えることができない未熟な自分を自覚して、理想と現実のあいだでまっぷたつに引き裂かれるのである。
 ヘーゲルのこの三つのパターンに共通しているのは、すべて、心のなかだけで自己価値を保とうとする空しい試みだという点である。では、いったいなにが足りなかったのか。ヘーゲルがたどりついたのは「他者の承認」ということだった。

 人がふと「ほんとうの自分」がどこかにあるのではないか、と考えるのは、不幸の実感が蓄積してきたり、うまく生きていくことができないと感じるときである。しかし、100年以上前にニーチェは「ほんとうの自分」も「ほんとうの世界」もどこにも存在しないと見破っていた。
 いろいろなルールに縛られている、だから「ほんとうの自分」を見つけることができないんだ、という言い訳は、一般的に流通している素朴な誤りだと竹田さんは指摘する。上でもすでに見たように、竹田さんの考えの柱は「自我=ルールの束」である。だから、むしろ自分のルールしっかり打ち立てることで自分の自由を確保できるのだ、という。
 「ほんとうの自分」になれない別の言い訳として、自分には隠れた才能・能力があるはずだが、それをまだ見つけだせていないのだ、というものもある。しかし、残念ながら才能や能力で大ブレイクするような人はごくわずかしない。だから大半の人間は自分の能力の限界を認めて厳しい結果を受け容れるしかない。「ほんとうの自分」を見つけられれば(=覚醒すれば)大成功できるはずだ、というのは甘い幻想でしかない。自己啓発セミナーや自己啓発書のたぐいは、そういう幻想にとらわれてしまっている人を利用して儲けようという知恵(悪知恵?)だ。
 「ほんとうの自分」がどこかにあるという発想は、「ほんとうの世界」があるはずだという思想と同じ根をもっている。ニーチェも言っているように、そのような発想をもつのは「苦悩」が原因なのである。苦しい、だから別の世界に行きたい、この現実世界はニセモノに違いない。そういう心の動きなのである。
 必要なのは、苦悩から逃避して「ほんとうの自分」という幻に逃げ込むことではなく、時間をかけて「自分を作り上げること」だと、竹田さんはいう。

 上で見たように、思春期の人間にとっては、自分を世界の絶対的主人公として認めたいし、他者からもそう認められたいという願いが切実である。けれども、それがうまくいかず少しずつ挫折していき、やがて、可能な範囲で人から認められたり愛されて、それで生きていけるということを知っていく。キルケゴールが「人は日々の小さな可能性によって生きる」と言ったのは、こういう意味だった。
 自分の親との関係よりも、友人との関係のほうが重要になっていくのは当然といえる。親と子の基本的な承認関係が壊れるということは、まずない。しかし、血縁ではない友人との関係は不安定である。友人が大切な存在なのは、「承認ゲーム」の相手として、人間にとって不可欠な存在だからだ。
 人間の「不安」の源泉は、「」と「他者の視線」だと、竹田さんはいう。死が脅かすのは、わたしたちの存在そのものであるが、他者の視線が脅かすのはわたしたちの「自己価値」(自分に対する評価)である。しかし、それは反転させれば、他者の視線だけが「自己価値」を認めるものだとも言える。
 ところで、人間の「価値」とはなんだろうか。一般的な尺度では社会的地位、すなわち「勝ち組」か「負け組」かということが価値を測るひとつの基準だろう。けれども、社会のゲームの成功・不成功という以外の尺度があることも多くの人は認めているはずだ。よく「人間のなかみ」とか「人間性」という言い方で語られるその内的なものの正体とはなんだろうか。
 竹田さんは、人間の内的価値の基準は、「真・善・美」でしか測れないという。「自己」とは、「真・善・美」に関する内的な自己ルールから成り立っている。それがしっかり確立している人は、他人や社会の一般的評価にそれほど左右されない。そういう人は、社会的なゲームで勝者にならなくても、自分で自分の人生を納得して肯定することができる。これは大事なポイントである。
 「自分を作り上げる」というのは、人間関係を通して自己ルールを作っていくことに他ならない。

 わたしたちの人生の意味は「人間関係のエロス(よろこび)」からしか生じない、と竹田さんはいう。「人間関係」にはふたつの面がある。まず、自己価値をめぐって競いあう相互的な「承認ゲーム」である。もうひとつの面として、そのゲームを通して出会う具体的な個性をもった他者たちとの「了解ゲーム」でもある。
 「承認ゲーム」が社会的成功と報酬を目的におこなわれるのに対し、「了解ゲーム」はお互いの存在を理解しあっていくという関係のありかたである。的確な表現といえるかどうかわからないが、「承認ゲーム」は他者を媒介としてある目的を達成するゲームであり、「了解ゲーム」は他者そのもの(との関係)が目的となるゲームといえるかもしれない。後者は、具体的には、友人関係や恋人関係である。この関係では、自己ルールをお互いに交換し、試しあい、鍛えあうということがおこなわれる。
 
 さて、本書のハイライトは、竹田さんの「三枚の世界像」というユニークかつ説得力のある考え方である。「世界像」とはわたしたちがもっている世界の姿、世界のイメージのことだ。(似た言葉に「世界観」があるが、これは世界像と価値観が結びついたものといえるだろうか)
 どんな文化も固有の「世界像」をもっているという。典型的なのは宗教である。もともと、それぞれ社会はそれぞれの宗教をもっていた。宗教とはようするに世の中を説明するための「幻想的な合意」である。人々に共通ルールを守らせるためには宗教の力がもっとも効果的だったのだ。
 宗教を基盤とした社会で人がもつ世界像を「一枚目の世界像」とするなら、近代社会で人々が学校に通いさまざまな他者に出会ったき「二枚目の世界像」に遭遇したといえる。自分が知っている世界の外に、別の世界があることを知るのが「二枚目の世界像」である。
 現在では、学校教育が当たり前のものになったので、学校で教えられる世界像が「一枚目の世界像」だといえる。現代社会は、共同体内の役割関係(親の仕事をそのまま継ぐなど)ではなく、社会的な自己実現を目標として生きることが暗黙の前提である。わたしたちが「二枚目の世界像」に出会うのは、大学などに入り、読書などで新しい価値観や理念を知ったときである。
 「二枚目の世界像」の重要な役割は、一枚目の「自然な」一般的世界像を相対化することである。文学、音楽、芸術といったものは相対化の役割をよく果たしてくれる。しかし、二枚目の世界像は、人間の不幸を強力に埋めるように作用する場合があるという。若者に「これこそが世界の真の世界だ!」という強い確信を与えることがある。たとえば、かつてのオウム真理教の教義も入信した若者にそのような確信を与えたのだ。
 オウム真理教は極端な例かもしれないが、昔のマルクス主義にしろ、現代のサブカルチャーにしろ、二枚目の世界像として機能するものは、ときとして一般社会に反対する対抗的世界像となる場合があるのだ。そういう場合、二枚目の世界像は若者たちのあいだに「自分たちだけの真実」を作りあげることがある。竹田さんは、これは近代社会の必然だという。その理由は、個々人が「ほんとう」の世界を作りあげようとすることは、近代に個々人が「自由な存在」になったことの証でもあるからだ。
 では、「三枚目の世界像」とはなんだろうか。これは「二枚目の世界像」を超えて、また別の世界像がありえることを知ったときにやってくる。ただし、重要なポイントは「三枚目の世界像」がもっとも正しい世界像ということではない、ということである。
 「一枚目の世界像」しかもっていないとき、人は素朴に共同的に人々と生きているだけだ。「二枚目の世界像」に出会ってそのなかを生きるとき、人は自分が真実の世界を生きているという強い信念をもつ。そして「三枚目の世界像」を経験したとき、人は人間というのはそれぞれが世界像をもってその内を生きているのだということを理解する。竹田さんは、教養があるというのは「三枚の世界像」の感覚を身につけていることだ、という。

 中世ヨーロッパではなにが「ほんとう」であるかが決まっていた。キリスト教の教えこそが世界の真理だった。しかし、近代以降、「ほんとう」の意味が変わる。人々が自由な存在へと解放されたため、共同体全体の「ほんとう」をただ信じるのではなく、各自がそれぞれの「ほんとう」を追求するということになった。言い方を変えると、信仰から、各自の人生の意味の追求へと変わったということになるだろうか。
 とはいえ、各人それぞれが追求する「ほんとう」とは、どういうことだろうか。竹田さんはそれを「ロマン性」という言葉で説明している。これは、人が生きるうえでもつ目標や目的であり、憧れや理想という形であらわれる。これは人生のエネルギーであり、なければ生きる気力が湧いてこないものである。
 「ロマン性」は幼年期から思春期にかけて形成されるという。ヘーゲルの考えをベースにした竹田さんによる「ほんとう(ロマン)」のパターンはつぎの五つである。「独我論」「享受」「恋愛」「心の義」「ほんとう」。「独我論」はすでに上で見た「ストア主義→スケプチシズム→不幸の意識」のパターン。「享受」は、立派な自分であろうとしてうまくいかず挫折し、目標をただ楽しむことへと切り替えるパターン。「恋愛」は下で詳しく見ることにする。「心の義」は、独善的に正しさや正義を追求するパターン。「ほんとう」は、ヘーゲルの言葉で言えば「事そのもの」であり、たとえば文学・芸術・学問などそのいうものを通して「ほんとうによいもの」をつくろうとする承認ゲームである。
 「事そのもの」は文化的な領域に限定されたゲームではない。社会全体がフィールドであるという。文学や芸術にかぎらず、商品を作ったりサービスを提供したりするのも「事そのもの」ゲームに含まれる。大事なポイントは、中世のようにみんなが神(信仰)のような絶対的なものをめざすのではなく、個々人がそれぞれの人間性を表現しあうゲームであるというところだ。当然、それが可能になる条件として、成熟した市民社会でなくてはならず、格差が広がりすぎていたり矛盾が当たり前という社会では、「事そのもの」ゲームはフェアではなく歪んだものになってしまう。(すでに現代のわたしたちは歪んだゲームのなかにいるかもしれない。「ほんとうによいもの」ではなく、売れるから、儲かるから、という理由で詐欺めいたヒドイモノをつかませたりつかんだりすることも多い。「事そのもの」をめざすという原点に立ち返る必要があるのではないだろうか)

 恋愛は、ゲームのなかでは特別なものだという。それは、誰にでも手が届きそうな至高性だからだという。社会での大きな成功は人生の意味を満たすものだが、ふつうはそれが難しいことだと誰でも知っている。人が大人になるころには、すでに承認競争に疲れ果ててしまう。しかし、恋愛というゲームに限っては、ほかで成功できなかった人間でも、うまくいけば一生幸福に行きていけるのではないかという気持ちにさせるものがある。
 恋愛は、基本的に自己のロマン的幻想(ファンタジー)の投影である。恋の対照としての人物は、自分の理想を体現したものとして生まれてきたわけではないのに、わたしたちは勝手にそういうイメージを投げ入れて相手のなかに理想や美を見いだす。だから、相手から承認される(愛される)ということは、自分にとっての理想・美(つまり最高の価値)から自分が承認されたという図式になる。
 恋愛はギャンブルに似ていると、竹田さんはいう。恋愛の特徴は、他の承認ゲーム(地位や名誉や富を得るゲーム)のように勤勉と努力を積み重ね厳しい競争を勝ちぬいて結果を出す必要がなく、ギャンブルのように一挙に欲しいものをゲットできる可能性をもっているということだ。(誰でもよく知っているように、「なんでこんなヤツが…」と思う人間に限って恋愛では成功者になっていたりするものなのである)

 【大人の哲学】
 恋愛が特別なものであるのと同じで、失恋も特別な体験だといえるだろう。失恋によって知るのは「一切は無意味である」ということだ。それは当然かもしれない。恋愛が人生の意味を満たすものなら、失恋は反対に意味をすべて消しさるものということになるからだ。
 失恋した者は、生きる気力を失い、世界がまったく無意味であるという絶望の底へと沈んでいく。しかし、とことん絶望することによってしか、再び浮かびあがることはできないのだ。浮かびあがるというのは、意味を失ってバラバラになった世界が、少しずつ修復され再構築されていく過程にほかならない。

 絶望には、「可能性の絶望」と「自分自身への絶望」の二種類あるという。失恋の絶望は可能性の絶望である。キルケゴールによれば、真の絶望は自分自身について絶望することだという。
 人間にとって自分の人生はひとつの「物語」である。自分について絶望すると、自分が物語の主人公だと認められなくなる。主人公のいない物語はもう物語ではなく、ただの事実の連続でしかなくなる。小説でも映画でも、ただの事実の連続が面白いはずはない。
 「わたしはわたしだ」という自己同一性(アイデンティティ)だけでは自己の本質とはいえない。自己の本質は、自己の「ロマン化」と「正当化」であると竹田さんはいう。言い換えれば「わたしはよい人だ。わたしは価値ある人だ」という信念であり、それがなくなれば自己を失ってしまう。
 人が自分自身に絶望するというのは、不合理に自己理想が高く場合だという。理想をもつのは普通だが、それが到達不可能なレベルにまで高くなれば、理想像と、現実の生身とのあいだで引き裂かれることになる。
 極端な自己喪失は「うつ」や「ひきこもり」という症状であらわれることもあるが、わたしたちは年齢を重ねるごとに気づかぬうちに絶望を少しずつ積み重ねている場合があるという。自分と世界を恨みながら、自分のロマン性を腐らせていくのである。

 わたしたちは、つらいことに出会うと「ルサンチマン(恨み)」を抱くという心の原則をもっている。なぜなら、ルサンチマンをもつこと自体がひとつの快楽だからだ。ニーチェは著書『ツァラトゥストラ』のなかで「愛せない場合には、通り過ぎよ」と言っている。どういうことだろうか。
 賢者ツァラトゥストラは、愚か者に出会った。愚か者は賢者のマネをして他人を批判するが、それは自分は正しく、世の連中はバカで醜いという思いから発してた。それがじつはルサンチマンなのだ。義憤は、怨念と復讐心からにじみ出るのだ。ツァラトゥストラは愚か者に、愛せないのなら通り過ぎるのがいい、と教えたという。
 人間社会はルールで作られたゲームである。そのゲームのなかでは自我どうしがぶつかりあい、他者との摩擦が起きることもある。たとえば、物事の優先順位(価値の基準)が異なる場合である。ルサンチマンは、摩擦が起きた場合、自分のほうが相手より立場が弱いと発動する。自分は正しいことをしているのにこんな不利益をこうむるのはおかしい、だからきっと相手が間違っているにちがいない、絶対にそうだ、イライラする、腹が立つ…。そういう怒りが自分の弱い「自我」を支える(防護する)のである。
 ルサンチマンを生むのは、自分は正しい、という思いこみである。それは他人をバカで不正だという思いこみを生みだす。しかし、他人に「正しく生きろ!」「善人であれ!」と上から目線で要求する権利は誰にもないのだ。他人の「不正」「愚かさ」「醜さ」というものをエサとして、自分のなかのルサンチマンをブクブクと太らせて陰険な快楽を味わっているにすぎないのだ。それが健全な日常生活と人生を台無しにすることはあきらかである。
 
 ところで、本書のタイトルにもある「愚か者」とはどういう存在だろうか。世の中に賢明な人は例外的にしかいない。つまり、大多数のふつうの人間は愚かな存在だともいえる。その意味からすれば「愚か者の哲学」は「ふつうの人の哲学」ということになるだろうか。
 竹田さんは、人間は賢明であるべきだ、というのはよい考え方とはいえないという。ホッブズという哲学者は、人間社会とはふつうの人間たちの集まりであり、愚かであるゆえに引き起こす「万人の万人に対する闘い」をどう制御していくか、ということを考えた。
 ホッブズは「人間は誰でも、一握りの自分より優れた人びとがいるが、ほとんどの人は自分より劣った存在だと信じている」と著書『リヴァイアサン』のなかに書いている。多くの人は、自分はほかの大多数の人間よりマシだという根拠のない自信をもっている。このことじたいがひとつの「愚かさ」なのである。まず、人間は自分が愚かだということを自覚するところからスタートする必要があるだろう。
 上のところですでに見たように、義憤は自分が正しいという思いに起因している。やっかいなのは、それが自分の正しさを周囲に知らしめるための「表現行為」でもあり、さらには自分こそは善悪の「権威」であろうとする衝動でもあることだ。ニーチェは「善人ほどの害悪はない」と言っている。自分が「正しい」と強く思い込むには、なにか外部の権威に支えられている必要がある。それは、信仰や思想だったりする。強い「正義」のルールを自分の内にもつということは、裏返せば自己のうちに内的不安を抱えているということなのだ。
 「正しさ」は、それを理由に自己価値を高める無意識なエゴイズムである。だから、このことに気づかずに「正しさ」を振り回す人間は、愚かなのである。
 では、知的なものをたくさん身につけていれば「賢明」なのかというと、そうでもなく、それも「知的スノッブ(俗物)」という愚か者なのである。学問や知識は、少なくとも近代以降は人間に権威を与えるものではなく、むしろ権威から自由にするものとして役立ってきたのだ。言い換えれば、権威を振りかざす俗物にだまされて自由を奪われないために、そしてより自由になるために、わたしたちは学問や知識を身につけるべきなのである。

 さて、本書も終わりに近づいてきた。最後に「ニヒリズム」と「人生の目的」というテーマを見ておこう。
 竹田さんは、ニヒリズムはひとつの「自己理解」のしかただという。ニーチェにとってのニヒリズム問題は、神をずっと信じてきたヨーロッパ人が、19世紀に科学の発達で神とは壮大なウソだったのだと気付き、世界には意味がなく、よって生きる意味もなく絶望に陥ったということについて、それをどう克服するのかという問題だった。けれども、このようなスケールの大きなニヒリズム以外にも、もっとパーソナルなレベルでのニヒリズムがあるというのが竹田さんの考えだ。
 自己理解としてのニヒリズムは、自分への「存在配慮」を失っている状態だという。つまり、自分の生き方や存在について考える努力をムダでバカバカしい若気のロマンとみなし、そういう自分の人間理解が成熟した大人の考えだと勘違いして優越感をもっている状態だ。自分では達観しているつもりなのかもしれないが、ありふれた人間観にすぎず、長く生きていれば小さな挫折の蓄積で勝手にたまってくる思考の老廃物のようなものでしかない。

 近代以前のヨーロッパ社会は、人間が生きる意味はキリスト教が決めていた。しかし、近代社会は多様性の世界であり、人生のありようは一人一人異なっていて目的も千差万別である。ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」は、そういう社会と人間の価値観の激変を表現した言葉だった。近代は、神に代わって革命などの新しい「大きな物語」も出現したが、現代ではそれも没落して、ニヒリズムがあちこちで湧きだしている時代である。
 けれども、そのことの意味は、まさしく人間が人間であるほかない時代がやってきたことの証なのである。現代社会は、近代以前の人間の役割が固定していたゆえに人間の存在の意味が安定して社会とは異なり、個々人の人生の意味は競争的な承認ゲームのなかでゲームの成功・不成功に左右されるということになる。自由がなかった近代以前に比較すれば大きな進歩である。が、競争ゲームである以上は必ず勝者と敗者を生みだす社会でもある。そして、ゲームのなかで人生の意味をつかむことができる勝者はごく少数なのである。
 こういう社会ではさまざまな場面で不安が噴出することになる。とはいえ、かつての固定的な役割関係の社会からすれば、人間が生きる条件としてより望ましい方向に進んでいることを忘れてはいけない。古い社会から新しい社会への過渡期である現代には、不安につけ込むヤカラや、古い道徳や倫理を持ちだしてきたり、オカルト的なことを語ったりする者があらわれてくるが、ニーチェに言わせればこれらはすべて反動としてのニヒリズムなのである。
 わたしたちはニヒリズムとルサンチマンの誘惑にはいつも気をつける必要がある。ニーチェはニヒリズムを乗り越えるアイデアとして「永遠回帰」というものを考えた。キリスト教は最後の審判や死後の世界という教義をもち、信仰をもった人間は報われると教えるが、ニーチェはそのアンチテーゼとして人間の一生は永遠にループ(転生ではない)するというイメージを提出したのだ。つまり、ニーチェは、神も天国もないのだから自分の人生は自分自身で全部引き受けて背負うしかない、と言いたかったのだ。良い結果も悪い結果も全部自分のものとして受けとるしかないのだ。
 「永遠回帰」は決してネガティブなイメージではない。人間にはその人間に応じたふさわしい最善の人生があるはずだ、というメッセージでもあるからだ。死後の世界も魂の救済もないが、自分にとって最善の人生を見つけることはけっして不可能ではないのである。
 それを実現するためには、ルサンチマンとニヒリズムという自分の可能性を弱める敵と戦い、自分のなかのロマンを生かし続けていく必要がある。そして大事なのは、自分の最善は自分でしか見つけられない、という原則を忘れないことだ。現代の社会では絶対的な救済の道はないのだから。
読み書きの技法 (ちくま新書)/筑摩書房
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 日本の識字率は99.8%なのだそうだ。ということは、ほぼ全員が「文字」を読めるわけだ。そのうちの、おそらくほとんどが文字よりももっと複雑な「文章」を読むこともできるだろう。
 しかし、文章といってもいろいろある。看板や商品に書かれたシンプルな文章から、新聞や娯楽小説ぐらいの文章、そして専門書や学術書などの高度で難解な文章まで、さまざまな段階がある。日本の義務教育がどの段階を想定して国語教育をおこなっているのかはよく知らないが、中学までの教育を受けていれば、とりあえずは新聞を読むくらいの段階には到達できるだろうか。
 新聞に書かれているよりずっと難しい文章は、とくに本という形で、この世にはたくさん存在している。高校では(日本の)古典の読み方は習うが、難解な現代文の解読方法までは習わない。大学でも、一部の学部を除けば、そのような方法を教えてくれるところは多くはないはずだ。

 この『読み書きの技法』という本は、難解な文章を読み解くための方法が書かれた書物であり、また、一段階レベルが高い文章を書くための指南書でもある。この本を読めばすぐに難解な本が読めるようになるというわけではないが、少なくとも、努力を前提としたそのための方法のひとつを知ることはできるだろう。
 著者は、「はじめに」のなかで、「読むことと書くこととは同じである(p.7)」と書いている。これは、本書を貫く著者の基本的なスタンスである。
 著者は次のように書いている。
筆者は、「読みの技法」を身につけたければ、それと正反対のことを試みるのがよいと提案してみたい。つまり、「書くための技法」を研究することが「読みの技法」の習得につながると主張したいのである。換言すれば、書物をよりよく読むためには、自分で書物を書いてみるのがよいというわけである。(p.10)
 書物を書く、というのは少々特殊な経験かもしれないが、書物とまでいかなくとも、多くのひとは何らかの文章を書くだろう。大学生ならば卒論を書くということがあるだろう。著者は、「読み」と「書き」は円環構造をなして発達するという。文章をうまく書けないのは、本が読めないからであり、本が読めないのは、文章が書けないからだ、という。
 さきにザッと本書の内容を概観しておくと、第一章では「パラグラフの理論」について、第二章では「読み」の技術について、第三章ではエッセイの書き方について、述べられている。


 【第一章 パラグラフの理論】
 さて、さっそく「第一章 パラグラフの理論」の内容から見ていくとしよう。
 パラグラフの理論の基本は、文章には「構造」があり、その構造は著者が「構造明示子」と呼ぶ特定の語句や文によって示される、というものである。
 構造明示子とはなんだろうか。著者の説明によると、書物のなかの「センテンスではないもの」であり、具体的には、タイトルや、「第一章」というような句や、小見出し、それから改行や一字下げといった、構造をあきらかにするもののことである。
 このような構造明示子は、書物という大きな単位だけではなく、パラグラフ(段落)という文章の最小のまとまりのなかにも、パラグラフの構造をあきらかにするものとして登場してくる。

 ところで、書物というものは普通その内部に小さな単位をもっている。「部」とか「章」とか「節」という類のものである。それらを大きい順に並べると、次のようになるだろう。
…… 本 部 章 節 パラグラフ 文 単語 文字 ……
 もちろん、本より大きい単位も、文字より小さい単位もあるだろう。この本では「パラグラフ」という単位に注目し、その構造を解きほぐすことで、「読み」の精度と深さを強化することを試みている。パラグラフに注目する理由は、著者によると「パラグラフが思考のまとまりを表現しているように思われるから(p.21)」である。
 では、パラグラフはどのような構造をもっているだろうか。一般的には次の五つの要素で構成されているという。
①トピック・センテンス
②サポーティング・センテンス
③論理関係明示子
④締めくくり文
⑤パラグラフのベクトル

 それぞれがなにを意味しているのか、見てみよう。
 まず、トピック・センテンスだが、これはパラグラフでなにが論じられているのか(=テーマ)を示す文である。一般的に、パラグラフの最初に置かれることが多いが、そうではない場合も多い。
 サポーティング・センテンスは、トピック・センテンスを支える文である。例を挙げたり、説明をしたり、トピックを拡張したり、目的-手段の関係を述べたり、因果関係を分析したり、…と、トピック・センテンスをさまざまにサポートする文である。
 論理関係明示子は、サポーティング・センテンストピック・センテンスに対してどのような論理的関係にあるのか、または、サポーティング・センテンスどうしが相互にどんな関係を作っているのか、それを示す言葉(文の場合もある)である。具体的には、「なぜなら」「また」「それで」「というのは」「ついで」「最初に」「最後に」「それで」「だから」…といった語句である。しかし、注意しなければならないのは、語句だけではなく、たとえば「したがって、以下のことが結論だ。」というような文――文についての説明文。メタ文と呼ばれる――も、論理関係明示子として扱われるということである。
 締めくくり文は、パラグラフの結論を述べる文である。
 パラグラフのベクトルは、パラグラフが展開している話の方向のことである。イメージとしては、トピック・センテンスを基点として、締めくくり文のほうに矢印をひいたときにできるのがパラグラフのベクトルである。このベクトルは、つぎのパラグラフでの話の展開をある程度限定することになる。
 これら五つの要素は、無数のさまざまなパラグラフから抽出された概念的な構造であるから、実際の書物のなかでそれとはっきりわかる形で見いだされることは、じつは少ないのかもしれない。しかし、重要なことは、これらの五要素を意識しながらパラグラフを読んでいくという態度である。

 難解な文章は、自分でそれを要約してみるとよい、と一般的にいわれている。しかし、どうすればうまく要約ができるのか。
 ひとつの「アイデア(観念)」は、さまざまなセンテンスとして表現することができる。だから、あるセンテンスを読んで「理解する」ということは、そのセンテンスで表現されている「アイデアを取りだす」ということと同義である。
 アイデアを取りだすことに成功すれば、それを「自分の文」として、作り変えることも可能になる。アイデアという抽象的な存在は、必ずしも元と同じ言葉でなくても、同じ意味をもった言葉でも言い表すことが可能だからである。
 パラグラフを「要約する」ということは、こういう変換を意識的に行うことである。要約は「読み」の技術であると同時に「書き」の技術でもある。
 著者が、「読み」と「書き」が円環構造をしているといっているのは、このようなことをさしている。つまり、「読み」とは、センテンスからアイデアを抽出し、それを自分の文(自分の言葉)として保持すること。「書き」とは、自分の文として保持されたアイデアを、センテンスの形式で出力すること、だといえるわけである。
 ここからわかることは、要約という作業は、ただ単に長い文章を短く刈り込むというだけの作業ではないということだ。重要なのはアイデアをきっちりとつかみ出すことであり、それを保ったまま、短い文章(自分の言葉)で表現しなおすということなのである。
 その際のポイントは、トピック・センテンス締めくくり文に注目するということである。多くの場合、要約ではサポーティング・センテンスの内容までを細かく報告する必要はない。
 なお、著者は、要約は「原著者とは違った表現やセンテンスを用いることが望ましい(p.36)」とアドバイスしている。

 さて、上で挙げた五要素について、それぞれの機能を本書にしたがってもう少し詳しく見ていくとしよう。
 まず、トピック・センテンスである。
 著者は、よいトピック・センテンスを書くことはたいへんむずかしい、という。パラグラフを生きたものにするには、トピック・センテンスに力がなければならないという。そのためにクリアしなければならない課題は、つぎの三つだという。
(1)トピックを限定する。
(2)パラグラフ全体に対するある程度の見通し(予感)を与える。
(3)読者の注意をひきつける、あるいは少なくとも逸らさない。

 (1)は、通常ひとつのパラグラフのなかで扱えるトピックはひとつであり、そのためにはトピックをひとつに絞り込む必要がある、という意味である。トピック・センテンスは、無駄に長かったり難解であってはいけない。明快に書かれるべきである。その理由は、トピック・センテンスには、書き手の主張、ものの見方、感じ方、意図、思想といったものを端的に伝える役目があるからだ。
 (2)、それを行う方法はたとえば次のようなものがある。パラグラフというものは普通、複数あるわけだが、そのなかでこのパラグラフがどのような機能をはたすのか、それを明示するような言葉を入れておくのである。例としては「ここでは、二、三の例を挙げてみよう。」というような文である。パラグラフ間の交通整理をするようなイメージだろうか。
 (3)は、読者の関心が何であるか、どこにあるのか、十分考慮せよ、ということである。トピックとあまり関係のないことを書かず、トピックの核心に単刀直入に入っていくのが望ましい。トピック・センテンスには「見出し」としての機能もあるから、パラグラフの内容を的確に示しているほうがいいのである。

 さて、トピック・センテンスというものがどういうものかわかってきたところで、それを書くコツについても見ておこう。
 著者は、「トピック・センテンスとは、問いに対する答えである(p.47)」と言っている。わたしたちの自然な思考の流れからいうと、まず「問い」があり、その問いについていろいろ考えた結果として「答え」が出てくる、と思うはずである。しかし、著者は、「問い」そのものを疑問文の形でトピック・センテンスとして置くことは避けたほうがいいという。なぜか。その理由は、文章の簡潔さを損なうからである。原則として文章はより簡潔であるほうが望ましい。簡潔であるためには、書き手の思考の流れをそのまま垂れ流してはいけないのである。

 では、トピック・センテンスについてはこれぐらいにして、つぎにサポーティング・センテンスについての注意点を見ておこう。
 サポーティング・センテンストピック・センテンス同様に、明確であることが望ましいが、明確なサポーティング・センテンスを書くためには、書き手に書く内容についての深い理解がなくてはならない。言われてみれば当たり前の話であるが、しかし実際には、書き手自身がよくわからないのに書いてしまい、何の目的で書かれたものなのかよくわからない文章になったしまっている文章も多い。深い理解、というのは、読み書きのテクニックとはまた別の次元の問題であり、深い理解をもつためには、対象について十分な研究を行わなければならない。
 とはいうものの、技術的な工夫によって、よいサポーティング・センテンスに「近づく」ことは可能だという。その方法は、論理関係明示子を積極的に、意識的に用いることだという。論理関係明示子とは、「第一に」とか「というのは」といった語句である。そのような語句を多用し、書き手みずからの思考の筋道を明確化するのである。上でも書いたが、必ずしも語句に限定されず、「例を挙げてみよう。」というような文であってもいい。
 ひとつ気をつけなければならないことは、論理関係明示子のたぐいは、書き終えた最終的な文章のなかでは煩わしいものになることが多いので、草稿の段階では多用しても構わないが、最終稿では可能な限り削除したほうがいい、ということだ。なくてもわかるものは削除する、というのは文章を書く際の基本原則である。

 論理関係明示子については、すでにその役割をいくつか見てきたが、改めてその定義を確認しておくと、文と文の論理的な関係を示す機能をもつ語句または文である。
 完全に一致するというわけではないが、接続詞や副詞という概念と重なり合うという。「それから」「ついで」「それゆえ」「だから」などは接続詞であり、「最後に」「第一に」などは副詞である。しかし、著者は「論理関係明示子は日本語文法上の文法概念ではない(P.63)」という。だから、接続詞や副詞がそのまま論理関係明示子というわけではない。あくまでもパラグラフのなかでの特定の働きをする語句(または文)を著者がそう呼んでいるというにすぎない。
 語句ではなく文の形をした論理関係明示子もある。「これにより、つぎのように言える。」というような文である。文について述べる文である。このような文は「メタ文」と呼ばれる。
 通常の文は「対象文」と呼ばれる。何らかの対象について言及した文のことである。対象は、ボールペンでも地球でもいい。それに対してメタ文が扱うのは「文」である。メタ文は対象文よりも一段高い階層に属している。
 メタ文は、パラグラフを解読するうえでは重要な手がかりになる。しかし、メタ文がわかりやすい形で書かれているとも限らない。だから、メタ文の存在を見ぬくことが文を理解するうえで重要になってくる。

 締めくくり文は、呼び名のとおりパラグラフの締めくくりの文であり、ようはパラグラフの結論である。そうである以上は、トピック・センテンスサポーティング・センテンスを踏まえて書かれるべきものであり、論理的に飛躍していてはいけない。サポーティング・センテンスで語られた内容をよく自覚したうえで書かれる必要がある。
 ただ、上でトピック・センテンスが「答え」である、ということをすでに見てきたので、「答え」と「結論」はなにが違うのかという疑問も出てくる。著者は「トピック・センテンスを繰り返すつもりで書くとよい(p.68)」とアドバイスしている。
 締めくくり文が省略されるケースもあるという。そういう場合は、トピック・センテンスと締めくくり文が実質的に同一であり、繰り返しを避けた結果であるという。

 パラグラフのベクトルは、ほかの四つの要素とは異なり、文や語句という明確な形では存在せず、いわば書き手(もしくは読み手)の心のなかに生じる「話の流れ」のことである。これをどのように作るかは、パラグラフの基本設計に関わってくる重要問題である。
 注意点として挙げられるのは、まず第一に、ベクトルを大きくしないということである。トピック・センテンスから締めくくり文までの距離を拡げるな、ということである。距離が大きくなれば、そのぶんサポーティング・センテンスの量も多くなる。そうなると、わかりにくいパラグラフができあがる原因にもなるだろう。
 第二の注意点は、ベクトルの方向を前後のパラグラフで揃えたほうがいい、ということである。筆力がない者は、話の方向があっちへ向いたりこっちへ向いたりする書き方は避けたほうがいい。散漫な印象を与え、読者の集中力を途切れさせてしまうからだ。
 
 さて、ここまでパラグラフを構成する五つの要素についてその機能と注意点を見てきた。五要素を意識して文章を作ればそれなりのものが書けるだろう。しかし、トピック・センテンスサポーティング・センテンス締めくくり文をただ順番に並べただけでは単調な文章になりやすい。文章は他人に読んでもらってはじめて意味があるわけで、他人に読んでもらえない単調な、読者が倦怠感をもってしまうような文章は避けなければならない。そのためには単調さを壊す工夫が必要になる。
 そのために、著者はつぎの五つの方法を提案している。
ⅰ.列挙……ことがらをひたすら列挙していくというパラグラフの書き方。
ⅱ.対照……AとBのふたつのことがらを対照させる方法。《トピック・センテンス》-《A、B》-《A、B》-《…》-《締めくくり文》という形。
ⅲ.対比……対照と似ているが、Aについて書ききってから、Bについて書くという方法。《トピック・センテンス》-《A》-《A》-《…》-《B》-《B》-《…》-《締めくくり文》という形。
ⅳ.手順……手順によるパラグラフ構成。ものごとを行う際の論理的な筋道を示す。
ⅴ.対話法……トピック・センテンスに対する反論をあえて取りあげ、順次それに答えていき、締めくくり文に導くやり方。
 最後の対話法は、やや高度なテクニックかもしれない。しかし、使いこなすことができれば、かなり強い説得力をもった文章を書くことができるだろう。

 ところで、世の中にある文章は、いままで見てきたようなパラグラフの理論にきっちり当てはまるような書き方がされているとは限らないわけで、さまざまな目的でさまざまなパラグラフの構造が用いられている。おそらく、多いのは、必要以上に細かくパラグラフを分割している文章だろう。ジャーナリスティックな文章にはこの手の書き方が多い。細かいパラグラフはスピーディな印象を読者に与えるからである。文章を書く際、なにより重要なのは、理論に忠実であることよりも、文章が掲載されるメディアや目的に見あった応用的な書き方をするということであろう。(もちろん、応用をするためには基本ができなければならないわけだが。)


 【第二章 読みの工夫と実践】
 第一章の内容は、パラグラフの基本的な理論だったが、第二章では第一章を踏まえたうえで、実践的な高度な「読み」のテクニックが解説されていく。
 専門書や学術書など、難解な文章を解読するときは、辞書などを使って単語の意味を調べながら読むということに当然なるわけだが(ときどきそういう作業をせずに難解だと言っている人もいるが…)、単語や語句が理解できれば文章全体が理解できるかというと、そうではない。ある文が、パラグラフのなかでどのような機能を担っているのか、それを理解しなければ、深く読み解くことは難しい。
 著者は、「読む」とは、すなわち「パラグラフの構造」に即して読み解くという作業だ、と主張している。
 よく「行間を読め」という。文章に作者の言いたいことが100%完全な形で書かれているわけではないのだから、わたしたちはさまざまな読みの技術を駆使して「行間」――作者が真に訴えたいであろうこと――を読み取らなければならない。その際、パラグラフの理論はひとつのツールとして役立ってくれるだろう。

 難解な文を読むとき、文に番号をつけることを著者は提案する。これは解読のための下準備である。
 まず、パラグラフに番号をつける。これだけでも、ずいぶん識別しやすくなるが、さらに、文の単位でも番号をつけていく。このようにして、パラグラフと文をバラバラに分解して扱いやすくしてやるのである。
 難解な文の代表と言えるのは、長文である。複数の文が、「が」や「として」や「しつつ」などの接続詞や助詞などでつながった長文である。こういう書き方を「中止法」というが、このような文は、短い文に分解することができる。短文に分解された文は、もとの文よりも一般的に理解しやすいものになるはずだ。仮に、文番号5の文を、三つに分解した場合は、5-1、5-2、5-3と番号を割り当てる。
 「中止法」は悪文を生みだす確率が高くなる。文が長くなれば、主語と述語の関係があいまいにあることもあるし、形容詞が何を形容しているのかもよくわからなくなったりする。もっとも、中止法そのものが悪いわけでなく、文の構造が複雑化するところに問題があるのである。
 長文を短文に分解するとき、注意するポイントは、「主文」と「副文」を見極めるということである。主文は、その文のなかのもっとも大切な本質的な部分であり、副文は、主文をサポートする文のことである。
 もちろん、長文を短文に分解する作業は、「書き直し」をするということであり、文を「解釈」するということである。解釈には正解や不正解を決定する絶対的基準は存在しない。だから10人が解釈すれば10通りの別々の解読結果が出るはずである。
 
 文の分解の逆パターンとして、ときには文の融合という操作も有効であるという。まわりくどい言い回しなどは、積極的に融合して一文にしてしまったほうがいいという。
 そして場合によっては、文そのものの削除や、書物ごと捨てることも、著者は推奨している。次のように書いている。
世の中には読むに値しないようなことを得意になって延々と書き連ねる人がいる。そのようなものについては書物ごと放り捨てるのがよい。また、そのような箇所を見つけたら、融合ではなく削除を行うべきである。そして、そのほうが論旨がすっきりするものも多い。書物の権威という幻想に惑わさてはならない。(pp.139-140)

 【第三章 エッセイの基本理論】
 第三章はエッセイを書く際のポイントが語られている。「エッセイ」というと、気ままに文章を書き連ねるイメージがあるが、エッセイの語源であるフランス語のessayerは「試す」という意味であり、著者は「試論」と訳している。つまり、エッセイを書くというのは、なにかについて試みに論じることなのである。
 論じるための条件として、書き手は、まず「問題」をもつ必要がある。問題を提出し、それについての自分の考えを示すのがエッセイなのだ。
 論じる題材によって、論じ方も変わってくる。論じる題材によって、それに興味を持つ読者がおのずと決まってくるだろうから、読者が誰であるのかを想定して、その読者層に合致した口調で書く必要があるのだ。とはいえ、語り方はエッセイにおいて二義的な部分であり、重要なのはやはり内容である。
 専門家相手の専門的な内容だから、難解なよくわからない文章でもいい、ということはない。難しいことを、素人が読んでもわかるように書いてこそ、研究を発表する意味がある、と著者はいう。
 
 パラグラフに構造があったように、エッセイにも構造がある。著者は、問題を解決に導くための構造として、つぎのような図式を提出している。
P1-TT-EE-P2
 これは、哲学者カール・ポパーが問題解決の図式と呼んでいるものであるという。パッとみたところ、どういうことなのかよくわからないので、本書の説明にしたがって次のように書きなおしてみたい。
問題1-暫定的理論-エラー排除-問題2
 ザッと説明すると次のようになる。
 「問題1」は、出発点である。その次に示されるのは「暫定的理論」、つまり問題1に対するとりあえずの解決案である。しかし、それによって簡単に問題が解決されるわけではない。「エラー排除」の過程が必要であり、これは示された解決案に対する批判の過程である。こうして、問題1は解決され、新たな問題である「問題2」へと移行する。
 一見、複雑なことを言っているように見えるが、実際には、わたしたちが普段なんらかの問題を解決するときにやっていることを、抽出して単純化した図式であるにすぎない。しかし、それゆえに普遍的で強靭な図式だといえるだろう。
 よく、文章を書くコツとして、「起承転結」ということが言われるが、それとこのポパー図式の違いは、起承転結が、冒頭から結末までの全体の構造をいっているのに対し、ポパー図式は、全体のなかで何度でも繰り返してよいダイナミックなリズム、というところにある。もちろん、起承転結図式とポパー図式を両方使って書くこともまったく可能だろう。また、エッセイだけでなく、小説や戯曲、シナリオなどのフィクションの分野にも応用可能だろう。
 
 さて、上のような図式を利用して、試行錯誤のすえ、とりあえず第一稿ができたとする。それを即、発表というのは避けるべきである。
 第一稿をしばらく寝かせたあとで、徹底的に「批判」することを試みる必要がある、と著者はいう。自己満足に陥ってしまうのがいちばんマズいだろう。自分が扱った問題について、先行する研究書があるなら必ず参考にしなければならない。
 著者は、「エッセイを書くことは討論に参加することである(p.212)」と書いている。討論というと、生身の人間どうしで意見を闘わせるというイメージがあるが、それにとどまらず、すでに亡くなった人物との討論も含まれるという。どういうことか。すなわち、亡くなった過去の人物の著作を読み、それを批判することも文化を批判的に継承するということであり、人類史的規模での討論に参加するということなのだ。
 つまり、著者の考えを別の言葉で言い換えるなら、わたしたちは文章を書くということ、あるいは読むということを通して、人類がこれまでずっとおこなってきて、そして今後もおこなっていくであろう「言葉のゲーム」に参加しているのだ、ということになるだろうか。そのゲームは、ただ言いたいことを一方的に言うだけのものではなく、自分が書いたものが他人に批判(批評)され、他人が書いたものを自分が批判(批評)する、という人間と人間のあいだの言葉を媒介とした自由な、そして建設的で創造的なゲームなのである。
 だからこそ、わたしたちは、誰にでも読むことができる、わかりやすい平明な文章をつねに書くように心がけなくてはいけないのだ。
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 【第十三章 映画様式の問題】②(pp.220-230)
 主人公が存在しない映画が、最初に作られたという。
 こういった作品を支持する者は、ある事件をある一人の人物に運命づけて描くことを嫌った。そして、一人の人間の視点からの特殊な人生を描くのではなく、典型的な人生そのものを示そうとしたのである。
 バラージュ自身が、そのような映画を作っている。『十マルク紙幣の遍歴』という映画で、この映画の中心人物は十マルク紙幣だった。人の手から手へと渡っていく一枚の紙幣が、さまざまな事件を起こすという映画だった。エピソードごとに登場人物は異なっていた。しかし、それぞれの人物たちは直接的には関与しあわずに、ただ一枚の紙幣が各シーンをつなぐ存在だった。
 このような映画の構成は複雑になり、慎重な工夫が必要になる。だが、はっきりした物語の方向や、抑揚や、目標としての結末があるわけではない。一種の自然主義的なリアリティがあるが、芸術的必然性は欠落しているといえる。
 最初の「主人公を持たない映画」は、1917年の革命直後のロシアで作られた。エイゼンシュタインの『十月』は、主人公としてのレーニンは登場しない。群集が中心の映画なのだ。
 バラージュは、このような映画には欠陥があると指摘する。
 第一の欠陥は、明確な筋がないということ。一人の主人公の運命のように、はっきりした輪郭を持たない。
 第二の欠陥は、特殊な個人の運命を描くことをやめたことで、逆に普遍的なものを表現できなくなったということ。ミケランジェロの彫刻作品も山に転がっている石も、同じ石であり、素材(マテリアル/ヒュレー)としては変わりはない。芸術であるかそうでないかを区別するのは、素材ではなく形式(フォルム/エイドス)である。つまり、加工されていないナマの素材を見せても意味はないのだ。
 ストーリーとは、いわば素材に形を与えるものである。素材は、芸術家が形式を与えることによって、表現力を持つのである。

 バラージュは「旅行映画」というジャンルにも言及する。文学的テーマやシナリオをもたず、現実をそのまま芸術的に表現する方法は、高度に発展した映画の芸術的手段によって可能になった。旅行映画は完全な創作ではないが、発見するという創造を行なっている。
 旅行映画の芸術的構成は、旅行の計画からはじまる。旅行映画は、現実の単純な記録でもないし、監督のはっきりした目的意識だけでもない、独特の「中間形式」をもっているといえる。
 このような映画では、最初から編集のプランも決まっており、実際の編集作業は余計なものを除去する作業にすぎない。
 ところで、ニュース映画は芸術だろうか。それが現実をありのままに伝達するものである以上、芸術的であることが目標になってはならないが、しかし、芸術的表現手段をつかわずに作ることは不可能だろう。現実のなかから真実――現実の法則と意味――を引き出すためには、あらゆる芸術的表現が利用されるべきなのである。

 このような「中間形式」から、いくつかの面白く価値のあるジャンルが誕生した。そのひとつが「主人公をもつ文化映画」だった。演出された文化映画は、科学的に正確に現実を描くと同時に、ひとりの人間の人生体験をも表現する。これによって、自然のリアリティは、「社会的経験」として人間にとって意味深いものになる。「社会的」だというのは、ジャングルや北極のような社会から隔絶した場所に孤独を感じる場合、その前提にはわたしたちが「社会」を知っているということが必須だからだ。
 「中間形式」の映画はこれ以外の形式として、「伝記映画」がある。これは劇映画に近いし、小説的でもある。事実に基づく伝記的データをベースにしているとはいえ、どのシーンも映画向けに再構成され、演出されたものである。

 監督たちは「純粋な映画形式」を求め、旅に出た者がいた一方で、日常的現実のなかに未知なるものを探ろうとした者もいた。その最初の人物はロシアのジガ・ヴェルトフだった。彼は、わたしたちが普段は気づかない日常のささやかな場面を、映画の眼で覗きこんだのだった。それは、一種の盗撮に近いものだったが、それらの撮影された素材は、編集によって詩的につなぎあわされた。
 ありのままの現実を撮影したこのような映画は、もっとも主観的な映画である。ストーリーは存在しないが、見えない主人公がいる。つまり映画の「眼」が主人公なのだ。すべてのショットは、彼の主観である。編集のリズムも主観である。ここでの構成原理は彼の主観なのだ。このような映画は、あらゆる映画のなかでもっとも主観的な形式である。これは、将来作られるだろうもっとも映画的な芸術形式のひとつになる可能性をもっている。

 (【その17】へつづく)
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 第二部
 【第十三章 映画様式の問題】①(pp.215-220)
 バラージュは、本書の第一部において、とくにサイレント映画の発展期における映画の新しい形式言語の理論を綴ってきた。彼は指摘する。サイレント映画が創りあげて視覚文化は、そのうちの多くのものが後の技術発展によって失われてしまったと。そして、次のように言う。
おそらく、映画芸術は近い将来、再びひとつの転期を迎えるだろうが、そのとき、映画はかつて無声映画によって達成された富を、新しい形式のなかに、余すところなくくみ取って生かす必要があるはずだ。(p.215)
 わたしたちは過去から「富」を受けとり、それを生かしていくが求められているのである。
 
 サウンド映画が発明されたのは1929年頃だが、その直前、サイレント映画の表現は非常に豊かで精緻になっていた。ゆえに、文学的な構成やストーリーを排除すべきだという風潮が生まれた。純粋な芸術としてのスタイルが求められたのだ。
 映画はすでに「微視的観相」「微視的ドラマツルギー」「視点」「編集」といった、第一部で見てきたような独自の創造力を獲得していた。だから、プロットなどを必要とせず、現実のナマの素材から劇的な要素を取り出せるようになっていた。
 映画における芸術的傾向は、「小説や戯曲を絵解きしてはならない」「生きた現実を芸術的に映像化しなければならない」「テーマは、小説や劇のなかにではなく、直接目に見える存在に探るべきである」といった原則をうちたてた。これはすでに絵画がたどった道でもあった。
 そうした「純粋な様式」の要求は、映画芸術を豊かにしたが、やがて「アヴァンガルド(前衛)」を名乗るようになり、形式の遊戯にふけるようになった。その結果、「スターの出ない映画」や「ドキュメンタリー映画」など、それなりの成果は残したものの、リアリティから遠ざかり、形式主義化した表現主義と合流し、「テーマのない絶対映画」という袋小路に陥った。つまり、無に到達したのだ。
 映画全体からすればアヴァンガルド映画や絶対映画の占める割合はごく少ない。
 とはいえ、次のふたつの理由によってそれらを過小評価することはできない。ひとつは、芸術形式の探求として生産的な実験だったこと。もうひとつは、同時代の野心的な監督たちは――そういう映画を作らないとしても――つねに注目し、ときに利用したということ。事実、サイレント映画の頂点といえる作品はアヴァンガルド映画の影響を無視して説明することはできない。人気監督の多く(ルネ・クレール、ジャン・ルノアールなど)は、アヴァンガルドの影響を受け、そこで発展した視覚文化を商業映画に継承した人々だった。
 バラージュは、「没落芸術の頽廃現象」は、完璧な芸術にくらべてずっと芸術創造の美学的・心理学的な法則を知るうえで役に立つことが多いという。だからこそ、デカダンス(頽廃)という現象を論じることに意義があるのだという。
 オーストリアの美術史家アロイス・リーグル(1858-1905)は、次のように指摘した。すなわち、「ある現象は、ある時代や階級の芸術の頽廃の印であると同時に、新しい時代や勃興する階級の形式言語の最初の徴候でもある」と。こういう変化をマルクスは「機能の変化」と呼んだ。
 バラージュは、アヴァンガルド映画が発展させた方法は、サウンド映画が新たな傾向に向かうときに、実質的な役割をはたすだろう、という。芸術の歴史のなかでは、古いガラクタが再び役立つということがあるからだ、という。
 アヴァンガルド映画はフランスから始まった。映画以外の芸術も、文学が入りこむことに抵抗したが、最終的には文学までもがそうなった。つまり、誰もが「純粋な現象」を表現しようとした。そして、現象のなかにあるリアリティには関心を向けなかった。これは、第一次大戦が残した病気であり、現実逃避だった。

 前もって用意されたプロットやシナリオからの逃避には、「現実に接近せよ」というモットーが掲げられた。文学では表現不可能なナマの現実を、撮影で再現することは、劇映画よりもリアリスティックであると見なされた。すなわち、その傾向はリアリティをめざすものだった。
 しかし、同時にもうひとつの傾向も生まれた。文学的、叙事詩的、演劇的内容の排除ということでは上の傾向と同じだったが、「純粋な視覚性」という抽象形式に、そして、形式主義的な構成に求めた点が異なっていた。映画は、このような相反する二方向に向かって、演劇的なものから遠ざかっていった。この別々の方向とは、「ドキュメンタリー映画」と「絶対映画」である。
 
 (【その16】へつづく)