正義 善悪の審判行為は、人には無理なのです、完全には、余計なものを排除するときの口実になるそれは
全知
全能
全善
であるなら
正確な情報を全て一つ一つ知ってるだろうけども
人にはそれぞれ
いろいろな実情を
内的に保管しているから
誤認もあるだろう
誤差もあるし
瑕疵もある
善の欠如した判断もある
私的な嗜好性を基準にして
審判しているかもしれないし
人の能力そのものが誰も不完全で完全な善では無いのであるから
完全に十二分にいつまでも
善である事を随時保持できている存在は
Almightyそのもの
つまり
いまある概念からいうと
父
子
聖霊
三位そのもの
しかない
他の神々というのは
また
仏というのは
そうして
何か不足している部分があると云う事だ
寛容と云う時も
完全にいつでも善い事を出来る者は
信であり
頼る事が
そんまま
全部
出来る
正に
信頼そのものであること
TRUST
TREE
大きな枝のよく茂った
大木のようにある
という
メタファーではあるが
IMAGEとしては
時には
巨大な神像があるとか
仏の像があるとかであるが
その意図とは
人というのは
不完全そのものだから
と云う事だ
自分と云う存在自体は
どんなにか
小さい
弱い
かよわいか
腕力や知力や
それぞれにある能力のあっても
人というのは
全知
全善
全能では無いと云う事だ
死んだ者を
また
復生する事などできる者はいないし
たった一言で
一念で
何かの仕掛で
そう云う事は出来たように見せることもあるかもしれないが
ホントに
死者を復活させる能力のあるものは
父と子と聖霊の三位の他にはいませんと
いう立証が
Bibleには記事されてはある
そこで
一度
死を経験した者は
一体
何を自分から選択するのだろうか
善を自らに求めて
つねに
充満している事を
希望するかどうか
葡萄の木と枝とその接ぎ木の事
生木に
枯れた枝を
接ぎ木する事
復活する
その希望
たわわにその枝は
実を生らす事だ
南山堂