どうか怪我や病気を回避して、無事に大会に挑めますように。
さてファイナルの結果を受けて、世界各国ではすっかり
王者パトリック・チャンのオリンピック優勝を脅かすのは若き挑戦者、羽生結弦
という図式が出来上がっているように思います。
古今東西、そういう二項対立って分かりやすいし、皆が食らいつきやすいからでしょう。
たとえば思いつくのは…
星飛雄馬 対 花形満
力石徹 対 矢吹丈
マンガばっかりじゃあなんだから…
ジョン・マッケンロー 対 ビョルン・ボルグ
と、いずれも私の年齢が丸わかりの例ばかりですが、
要するに「羽生対チャン」もこの流れに沿っているわけですね。
で、今さら言うまでもありませんが、
私は羽生結弦選手のファンです。
これから書くことに関して、「え、あんたどっちを応援してるの?」って思われたら困るのであえてはっきりさせておこうと思いました。
私はつい昨年までパトリック・チャン選手の事は、せっかく自分が住んでいるカナダの代表的アスリートだというのに、あまり魅力を感じていませんでした。
ところが2012年の末辺りからだんだん彼に対する見方が変わってきて、「パトリック・チャンを見直そうかな」なんて記事まで書いちゃいました。(今、読み返したらちょっと我ながら「先見の明だったわ」っていう内容でした)
そして今年の一月にカナダ選手権を生観戦した時に、チャン選手のスケートの偉大さを改めて実感し、
3月の世界選手権での彼のSPでは
「えらいもんを見てしまった」
と衝撃を受けました。
それからはチャン選手がマスコミやスケート関連のファン・ブログでどのように取り上げられているのか、というのも少し以前よりは気を付けてチェックするようになりました。
そこで興味深く思ったのは、パトリック・チャンに対して多くの人が
「上手いのは認めるけど」
から始まって
「正確にエレメンツをこなしているだけで流れがない」
「技術的には卓越してるけど何も伝わってこない」
「彼の滑りを観ても感動しない」
と、言っていることです。
また彼のスケーティングが「機械的」だとか、「ロボットみたい」だとか、そういう形容の仕方も多いですね
これは一般のファンだけではなく、ジャーナリストの間でもそういう傾向が見られます。
そしてたいていの場合、比較の相手として羽生選手が引き合いに出されています。
羽生くんは…
「表現者」
彼のスケートからは…
「物語が見える」
「メッセージが伝わって来る」
「魂がこもっている」
などなど。
↑ 羽生くんに対するこれらの評価は私も大いに同意するところですが
パトリックに関する言説にはちょっと違和感を覚えていました。
もちろん、私もこのブログで彼の言葉を引用して、パトリックが「勝つためのマシーンになりたい」と言ってることや、「自動操縦モードに入るための訓練を積んでいる」ことも書いてきました。
そして羽生くんが天才気質であるのに対して、パトリック・チャンはプロフェッショナルな感じ、とも言いました。
でもそれはスケートへの取り組み方が違う、ということが言いたかったのであって、パトリックの滑りそのものに対する描写ではなかったつもりです。
うーん、何なんだろう、この違和感は。
と、悶々としているうちに、つい昨日、CBCでカート・ブラウニングがパトリック・チャンのフリーに関する解説をしているのを聞いて
「あ、そうか」
と思うことがあったのでおすそ分けします。
カートはパリ杯の解説をしている時もそうでしたが、パトリックのフリーの音楽がいたく気に入っているようです。
(私などは今シーズン初頭に選曲を知って「え、ヴィヴァルディの四季ィィィ?」って、ちょっとがっかりしたのに。あまりにも有名すぎて、しかも前にも使った曲だし。)
で、なぜ気に入っているのかというと、あの曲がパトリックと彼のスケートを実によく表しているからだ、ということでした。
彼の胸の中の苦悩(angst)だとか、渦巻くような(churning)エネルギーだとか、そしてスケートやオリンピックに対する情熱、人々を圧倒する自信、それらすべてがうまくあの曲に乗って伝わって来る、とカートは言います。
一方、結弦くんに関するカートの評価はもちろん高いのですが、選曲に関してはさほど言及せず、自分に何か訴えかけてくることがあるとか、ストーリーが感じられたとか、そういった類のコメントはありませんでした。
考えてみればカートはパトリック・チャンと普段から仲が良く、シーズンオフには一緒にアイスショーに出たり、先輩として相談に乗ったりすることから彼の胸の内をよく知っているのです。
だから大会での滑りを観る時もカートはつい、パトリックに関して知っていること、パトリックに対して自分が思っていること、を投影させるのでしょう。
ということで
滑りから何を感じるのか、
どんなメッセージを受け取るのか、
はたまたメッセージを受け取るのかどうか自体
は「受け手」にも関わっているのだと分かります。
なお
時にはメッセージの「送り手」の意図とは違ったメッセージを(勝手に)受け取ることだって考えられるとか
愛国心や文化の及ぼす影響だって関係して来るとか
そういったことについてはまた別の機会に掘り下げてもいいかと思っています。
さて、もう一つ私が違和感を持っていたことに関してもカートが言及していました。
「パトリックはロボットじゃないよ」
これについては次の記事で書きたいと思います。
CBCのウェブサイトにはグランプリシリーズの動画、および各大会のプレビューやお馴染みのカート・ブラウニングとPJクオンによるアフター・ショーのポッドキャストが掲載されています。
非常に見つけにくい場所にあるので、ここにURLを記しておきますね:
http://www.cbc.ca/player/Sports/Figure+Skating/ID/2423011138/
(つづく。。。すぐに、とは限りませんが)