本日ご紹介するのは
福岡伸一『動的平衡』です。
一世を風靡した1冊ですね。
ご存じの方も多いかも。
根本にあるのは、私たちの体は「分子の流れの『淀み』」であるという考え方。人の体を作っている分子は永続するわけではない。常に新しい分子が取って代わることで生命を維持している。つまり、時間が経過するうちに、中身は全部入れ替わって全く別物になってしまうわけです。そうなると同一人物であって同一人物ではないということですね。
なんて新しい考え方なんだろう! と思ったら、実は、その説。半世紀以上前にルドルフ・シェーンハイマーによって唱えられていたという衝撃の事実。筆者は、この考え方を掘り起こし、この説に基づいて考えを進めていきます。
こういうことは、どの分野にもあるんだろうな、と、ふと、平安時代末期の『今昔物語集』を、大正時代に掘り起こし、再評価のきっかけを作った芥川龍之介を思い出したりしました。あれも初めて知ったときは衝撃だった。だって『今昔物語集』ですよ? 必ず文学史で出てくる有名な作品なのに、芥川龍之介の『羅生門』が出るまで、ずっと文学的に評価されてなかったとか。あり得ない!! でも、確かに、今昔物語集って、他の有名な作品に比べて「虫食いで読めません」みたいな箇所があるんですよね。写本が少ないから補えないんですよね、きっと。歴史に埋もれるということが、本当にあるんだな、と実感した一件だったんです。そして「芥川龍之介、すげー」と、私の中でなんか妙に評価が上がったんでした。
シェーンハイマーを掘り起こした福岡さんもそういう立ち位置なのかな、と。その業界のことは詳しくないのですが、そんなふうに理解してます。(間違ってたら、詳しい方、ご指摘ください!)
本書は、プロローグに続く、全8章。
たとえば、第1章は記憶です。脳を含めてすべて入れ替わってしまう人体において、記憶はどうやって保持されているのか。この問題に対して、筆者は、記憶は細胞の中にあるのではなく、細胞の外にあると考えます。細胞と細胞を結ぶニューロンの回路が形として残っている。まるで星座のように。
ここで星座が比喩として出てくるところが、いかにもこの筆者らしい気がします。
福岡伸一さんの文章は、読んでいると、内容は科学なんですが、どうも文学的な要素を多分に感じてしまうんですよね。これ、私の勝手な印象なのかもしれないのですが、めっちゃ最先端な科学を語ってるのに、なぜか科学科学してない。星座の比喩もそうですが、「流れの『淀み』」という表現もなかなかに文学的ですよね。しかも、どうしたって鴨長明の『方丈記』の冒頭を思い起こしてしまう。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
長明が語る無常観に重ねて、人の命のあやうさというか、摑みがたさというか、そういうものを暗示してるんじゃないかな、とすら思ってます。
本当のところはどうなんでしょうか。
引き続き、福岡氏の科学と文学性の謎についても考えていきたいところですが、まずは、氏の解説する生命の謎について読んでみてください!
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