『純色(にびいろ)の空』
石田1967
序章【邂逅】
血の味がした。
口の中が切れて頬がはれ上がっている。
空が濁っている。
雨が降るのかもしれない。
何故こうなったのかが分からない。
ケンジからすれば、突如正面に現われた三名の男達が何事かを声高に叫び自分に殴りかかってきただけなのである。
気が付けば地面に転がされ、サッカーボールよろしく蹴り放題の有様だった。
身体中が痛い。
それよりも意識だけが覚醒している。おかしなものだ。これだけ何事も考えられないほどの痛みであるはずなのに、根底の意識が冷静なのだ。しかしその意識はものを考えることではなく、その空気の流れを感じてしまうだけの簡易的で奇妙な感覚のものだった。
そんな混濁した意識の中、その男達をさえぎるように一人の男が現われた。
地面にひれ伏すように倒れこんだケンジと男達の間にするりと風のように割り込んだ。
無様な格好のまま眼球だけが目の前の男を追おうとグルリと動く。と、目に砂が入り目をつむってしまう。そして次に目を開けた時には相手の男が二人地面に転がっていた。
痴呆のように声を上げるケンジ。
しなるように弧を描く拳が最後の男の顔面を捉えるのをケンジはスローモーションで見た。ゆっくりゆっくりと相手の頬とこめかみの中間にめり込み相手がゆっくりゆっくりと倒れる。その腹に男の足のつま先が突き刺さる。野生動物の生々しい呻き声。続けざまに他に倒れている男達にも同様の洗礼。
その瞬間、
ブレーカーが落ちたかのように意識が飛ぶ。
ざ・・・・・・ざ・・・
途切れる意識をさえぎるものは何もない。
あるのはそこはかとない黒。
漆黒の世界だけだった。
第一章【時代(とき)】
当時の学生は大きく分けて2種類に分かれていた。つまりノンポリと活動家。
二者は互いに領空内を侵犯しながらも、共存を試みていた。至極安穏に暮らそうとする者と、己が激情を放つべく激昂する者。
時代はうねっていた。
正しさは青臭さに取って代わり、間違いは惰性の揺り篭に揺られ安穏族に牙をたてる。
学生運動を行う輩は、自我の芽生えを青年期に迎え、無尽蔵の情報を取り込む作業中にウィルスをも抱え込んだに等しい。
学生運動とは、純粋に学生によって展開されるもので政治的、社会的な活動である。目的は学校の改革から、社会変革、政治革命など左翼思想に基づく事が多かった。
この時代、日本の学生達は日本を憂っていた。その根底にある民族意識をイデオロギーと存在意義(レーゾンデートル)に分かち、自分達の力で学校を、国を、世界をも変えようとしていた。そしてそうなるだろうという明確なビジョンを狂信的に持っていた。その思想は昭和初期の日本帝国軍人に近いものがある。が、そこまで盲目的に猛進していたのは一部上層部だけだったといい。大部分は烏合の衆であった。そんな中に弁論をかざし、正義をかざし、明日をかざし、頭の弱い学生達を扇動するカリスマを持つ独裁者が居た。
独裁者は狡猾で自身が汚れるのを忌み嫌う。アジテートに狂う学生を操り遥か上空で唇の端を吊り上げる。全国規模なものでありながら、地域別に独立した案件を争っていた。
そうした中でも重んじる議題がある。
【安保闘争】である。
正式名、【日米安全保障条約】。
一九五一年(昭和二六年)アメリカのサンフランシスコにて第二次世界大戦の連合四九ヵ国と日本の間にて平和条約が締結された。いわゆるサンフランシスコ平和条約と呼ばれるものだ。しかしその条約には戦いに勝利した国達に都合の良いものがふんだんに織り込まれていた。敗者はその時に何も言い返せない、おまけに躊躇する時間すらなかった。
絶対的降伏のまま時間は流れた。
そしてその反逆の芽は、いつ発芽してもおかしくない状態だった。緩やかにその萌芽が芽吹くのに時間はかからなかったのである。
またそのことによって引き起こされる悲劇は大きな波でしかなかった。そのうねる濁流に易々と飲み込まれ引き潮の如く砂に染み込み消え去ってゆく思い。
それでも叫ばずにはいられない。
それでも放たずにはいられない。
自我を形成しつつある下地に染み込むイデオロギーは、あまりにも甘美だった。安穏と暮らしていた高校生には魔法の呪文だった。しかも美しくキラキラと輝いているかのような錯覚さえ引き起こす。
うねる時代。
行方知れずの魂。
焼け落ちる・・・・・・・・・線香花火。
第二章【微熱】
見知らぬ天井。
しかし自分が住んでいる安い下宿とは違い、天井に石膏ボードが敷き詰められている時点で格差を感じる。起き上がろうとする背中と腕に激痛が走り一気に意識が覚醒をする。
「まだ寝てなきゃダメよ」
やわらかな女の声だった。
声のする方に首をかしげる。同じく激痛が走ったが、見たいという欲求が勝る。
するとそこには薄いシルクのような黒いワンピースを着た女が立っていた。しかも息を呑むほどの……美人だ。
「誰ですか?」と、聞く前に反対方向から声がかかる。
「気がついたかい?」
反射的に声の方向へ身体をねじる。
………昨日のオトコだった。
「あなたは?」
ケンジはやっと声を漏らす。
「俺の名前はヒロツグ」
そういって上半身裸のヒロツグは鼻の頭をかいた。そんなヒロツグにふわりと女が寄り添った。
「こいつはマリエ。あんたを献身的に介抱してくれた天使のような女だ。案外あんたに惚れたンじゃないか?」
くすりと笑いながら片目をつぶる。
照れと、バカにされた苛立ちと、自分の置かれた訳の分からない立場に言葉を返そうとするがヒロツグは頭をかいてあっさりと謝罪した。
「すまない。冗談だ。ゆっくりするといい。ただひとつだけいいかな?」
「?」
「この店はもう閉店しているんだ」
そこで初めて自分が寝かされた場所がBarか何かの店のソファである事が分かった。
もう一度、二人に目を向けてケンジはやっと言葉をつむぎだした。
「あ………す、すみません」
途端にヒロツグが声を上げて笑い出した。
店はマリエの別宅を改装したものだ。
普段は閉まっているが、気まぐれでBarだけを開けるが、実質はヒロツグを中心とした学徒のたまり場となっている。
「しばらくはここに居るといいわ」
マリエは薄く笑いながら髪を後ろにかき上げる。ケンジは自分の体温が一℃上昇するのを感じた。唇に目が吸いつけられる。紅い。鼻から伸びる流麗なラインが上唇の二つの突起した部分に繋がっている。
ケンジは十九歳。マリエはその時二十歳。たった一年の違い。一歳違うだけで次元が違う気がした。が、この時に歳の差が一年だけだとは想像もしない。
ケンジは当時付き合っている女性は居なかったが、安易に恋に堕ちるほど愚かではないつもりだった。そして客観的に見てもヒロツグとマリエは付き合っているに違いない雰囲気をかもし出していた。
それでも……マリエの美しさはそんな規制的な概念を打ち砕くほどの美貌を持っていた。
それはあたかもドイツ、ライン川岩山の上に佇むローレライ伝説のようなもの。人には魅かれてはならない不可侵領域というものが絶対にある。そこに触れてはならない。そこに触れると身を滅ぼす。滅ぼしてしまう。だがその【魔魅】が甘美で美しくあればあるほど【滅び】に近づいてしまうのだ。
マリエは何気なしに下唇を舌で舐める。その小さな仕種ひとつで視線を奪われてしまう。
「君の名前は何ていうんだい?」
カウンターに入って一人で何やらカクテルらしきものを作っているヒロツグは聞いた。
「あ…浅村……浅村ケンジといいます」
「ケンジか。よろしくな。ところで君はオルグかい?」
「違いますよ!あいっ……」
「ぷふ!分かっているよ。君みたいな可愛い子がオルグな訳がないじゃないか♪素質あるとは思うけどね♪」
ヒロツグは可笑しそうに顔をくしゃくしゃにしながらシェイカーを振り始める。つられてマリエもさらさらと笑った。
オルグ。
大衆を革命運動する側に引き込む職務を全うするものを指し、多くは左翼的思想を持つ労働組合に属しているもの達の事である。
「とにかく今日は寝な。セクトの連中もここら辺りの偵察は明日まで続くはずだから明後日以降にここを出るといい。顔を覚えている連中に出くわさないとも限らないからな」
「セクト……って?」
「セクトっていうのは十九世紀に二人の社会学者が『社会に対し、強硬的かつ断絶的な姿勢を持つ過激主義的宗教グループ』であると定義した云わば過激派の運動家達の事さ」
「それは知ってますが、この辺りにそんな輩が居るんですか?」
「何だ知らないのかい?君はここいらの学生さんだろ?」
「ええ、そうですが僕はまるっきしノンポリで……いっつ!」
背中を走る鈍痛。
そういえば大学の壁高くに掲げられた幾つもの暴力的な言葉。その大半は大学の利潤優先の方針のあり方に牙をむいている言葉だ。
ケンジは思う。
そんなに思っているのなら何故この学校を選んで入ったのか?その事実を全く知らずして入ってしまったのだろうか?
いや、そんな事はない。
学校説明や、訪問の時に何度もこういった看板は目にしているはずだ。だったらそういった事も分かった上での入学である。
ケンジに至っては【音楽科】が他の学校よりも秀でている事が入学の決め手だった。
だからこういった学生運動は迷惑なノイズだった。醜悪な雑音と云っても差し支えない。
だからノンポリ。
政治的無関心であり、それ以外のことに心が満たされている。
「ふうん、ノンポリねぇ……」
ヒロツグは澄ました顔でシェイカーからグラスに注いだ。グラスは三つある。だが三つに分けるとそんなに満たされる事はない。
「なにはともあれ僕達の出会いに乾杯だ」
そういってケンジとマリエにグラスを渡しヒロツグは一気に飲み干した。
マリエもそれに続く。
ケンジはその光景に少し戸惑うが、やがて意を決したようにグラスに口を付け飲み干す。
「どうだい?これは僕のオリジナルで柑橘系の中心部分だけを抽出したものを凍らせてから常温で溶かす事を2度繰り返す事によってうま味の部分を濾過できる……」
その説明の途中でケンジはそのままソファに沈み込む。
「おいおい」
ヒロツグは残念そうに口を尖らせる。
「いつもより……キツいわ」
そういってヒロツグの腰に手を回す。
「そうかい?」
その手がゆっくりと上に滑り、ヒロツグの唇で止まる。ゆっくりと撫でるように揺らめかせながら唇の感触を楽しんでいる風でもある。不意にその指を口の中に突っ込む。だがその先にあるヒロツグの舌が指に巻きついている。
「ふふ」
マリエは笑う。
ケンジは意識を黒の闇に落とし、世界から遮断された。
無重力の無気力。
それこそが無の境地だとも気付かずに、その空間に漂う淫靡さをも遮断して眠りについた。
(続く)