時折、電車がけたたましく吼えながら横を通り過ぎる。
小鳩は言った。
「兄が好きだったの」
対向車線の電車のライトが朋和の目を射る。
「兄は優しい」
一瞬、視界がホワイトアウトする。
「兄は誰にでも優しい」
だが、すぐに夜目に慣れる。
「兄は私だから優しいというのではなかったのよ」
レールとレールの隙間を甲高い金属音が火花と共に弾ける。
「だから今はキライ」
そういった後、小鳩は笑って
「朋和は私のコト好き?」
ずばり、と聞いてきた。
勿論、好きだ。と、言葉に出せない朋和。
その代りに視線がウロウロとしている。
「ふふ、知ってるモン」
そう言って朋和の頬にキスをした。
顔全体に血が昇って、苦しくなる。
小鳩は笑った。
あの時の笑顔は朋和にバンドの充実感をもたらしただけでなく、夢も与えた。
もしかしたら………
このバンドは一生、続けられるのではないか?
そんな淡い幻想が朋和の行動を後押しした。
朋和はデモテープを音楽会社に送ったり、オーディションにも積極的に参加するよう心掛けた。
年齢から考えて最も年上である桶川がリーダーになってもらってはいたが、実質上バンドのリーダーは朋和であった。
バンド結成から、方向性、ライブのブッキング、スケジュール調整から物販手配、CD製作に至るまでを網羅している。
しかし朋和は、全く苦にはならなかった。
何故なら、そのひとつひとつの作業が小鳩のライブでの昇華へ繋がっていると考えていたからだ。
そして……何と来月の中にあるレコード会社の人と会う手筈になっていた。
それもこれも、朋和の地道な作業の成果であった。
だが、
そのかすかな希望も…今はもうない。
レコード会社の人間達が興味を覚えたのは小鳩の声だけだからである。
言葉尻は悪いが、朋和達程度のミュージシャンは吐いて捨てるほど居る。奴らが賞品として手元に置いておきたい駒は『小鳩』の声だけなのだ。
だから……
まだ連絡はしてないが、次またデモテープでも送って下さい、それで終わりだろう。
容易に想像はつく。
それほどまでに…小鳩の声は強烈だった。
「どうすんだ、これから?」
桶川が開口一番、朋和に尋ねてきた。
「よしなよ、今は」
女性らしい気遣いの笹溝。
「今日はとりあえず…帰ろう」
澤口は、疲れた表情で吐き捨てた。
カチン!ときた。
「解散だ」
「朋和くん!」
笹溝が眉間に皺を寄せる。
「ああ、そうだな」
澤口が吐き捨てた。
「ちょっと待てよ、冷静になれよ」
桶川が朋和と澤口の間に割って入る。
しかし、背が一番低い桶川は、無様に二人の頂の下でわめいている。
「冷静も何も……小鳩が居なけりゃ意味ないだろうがよ!」
一番の核心、一番触れられたくないデリケートな部分。
「だけど………」
桶川が朋和に視線を向ける。
「小鳩の為に集まった。でも小鳩が死んだんだ。解散するのは当然だ」
違う。
言いたい事は、そんな事ではない。
だが、突いて出る言葉は止まらない。
「小鳩が居ないのに意味ないだろう」
「そうだな、じゃ」
そう言って澤口は後ろを振り向きもしない。
人並みに消えていく。
残った桶川と笹溝は、バツが悪そうに朋和を見詰めている。
「今までありがとな」
それだけ言って朋和は駆け出した。
「朋和」
後方で自分を呼ぶ声が聞こえたが振り返れなかった。
走った。朋和は走った。あてなどない。ただ、今この場所に居たくはないだけであった。
小鳩の居ない世界。
俺は…
俺は、これから一体どうすればいいのだ?
流れゆく火曜日。
自分が、今まで積み上げてきたものは、もうない。今ここに瓦解したのだ。崩れ去ったのだ。何もなくなったのだ。
もう、
もういい。
何もかも……もういい。
足元のふくらはぎから伝わるアスファルトの感触すらが鬱陶しい。
自分は、もう死んだのだ。
自分がこの世の中で生きていけたのは、小鳩が居てくれたからなのだ。
今更、
今更ながら小鳩の存在の大きさが朋和を覆い隠した。