人間は生まれつきの悪人というのは基本的にはいないのです

全て素晴らしい人間として生まれておるんです

それがこの世の中で生きていくうちに様々な悪習に染まったり

思想に取りつかれたり人の意見に惑わされたりする様になってきます

この様に人間というものは本来素晴らしいものであるけれども

弱きものである事も事実です

戦争の渦中にあっては一冊の哲学書より

一握りのコメのほうがありがたいものです

こうした人間の弱さというものを知った時に

これを一概に否定はできんと思うのです

そうした人達をそれでもって弱いと言う事でもって

悪人であるとかいう事はできないのであります

ユダという人間はこれは弱い人間であったと言う事です

今ユダという人間について話をするとするならば

彼はまぁ どちらかと言えば臆病な人間で

日和見的なところがあったと思います

そういう事で何よりも自らの生命の危険とか

自らの弱さというものを十分に知っていた人間であろうと思います

ただあなた方であっても例えば自分の財産と生命が

危険にさらされてでも自分の師の為に生きると言う事が

できるかという現実にたたされた時に自分が

ユダにならないという事は確約はできないという事です

 

当時イエスの命が狙われていると言う事は

公然の秘密でありました

またイエスが十字架にかかる一年も前からあるいはもっと以前から

イエスをなきものにせよという声は街の隅々から溢れていたのです

イエスはちょうど指名手配人のごとく仲間の家から家へ

隠れ家から隠れ家へと逃げていて

そしてイエスを信じる者たちが集まっている会合に

どこからともなく現れては

法を説くという形であったのです

誰の目から見てもイエスの最後は

もう すぐそこに来ている状況であり

弟子達も多くは最後を覚悟している状況で

あったのです

 

こうした限界状態にあってあなた方も

ユダにならないと言う事ができるであろうか

人間にはそれぞれ自分の立場というものがあり

それに対する合理的な説明があるのです

ユダというものが少額のお金の為に

イエスを裏切ったと言われております

お金をもらったと言う事は事実でありましょう

ただお金の為だけに師を

裏切ったわけではないのです

 

彼が師を裏切った本当の事実は

こういう事であったのです

結局イエスは弟子たちに

公平に接していたつもりでは

あったのだけれども

どうしても弟子達に対する愛に

差があったと思うのです

イエスはペテロという弟子を愛しました

多少単純なところもあって

強気にはやる人間でありましたが

師の心を理解するペテロと

また 忠実に師の心を見てくれる

「ヨハネ伝」のヨハネという弟子を

大変愛しました

また 十二弟子ではありませんが

マルコという青年を愛しました

 

ユダという人間は比較的 最初の頃から

弟子になっておったのでありますが

そうした後進の弟子達をあまりにも愛するが為に

その嫉妬に身を苦しめていたのです

彼も師に対する愛はあったんだけれどもその愛が

こうじて憎しみへと変わっていったのです

ユダという人間の心の中にあったのは

結局はこの嫉妬心でありました

 

自分が一番弟子になりたかったのです

しかしイエスが彼を一番弟子にする事をしなかった

彼は自分を利発的な人間だと思っていた

利発である事はわかっているけれども

心が澄んでいないと言う事を

イエスは彼にいつも指摘していた

「あなたはもっと強くならなければ 

信仰でもって正道の柱を打ち立てねば

本当に使命を果たす事はできない」

そういう事で厳しく彼を指導していたものであります

 

またユダはもう一つの不満を

イエスに対して持っておりました

それは彼の心の中に

非常に貴族趣味的なものがあったのです

高貴なものへの憧れがあって

そういう風にして欲しいという気持ちがあった

世の中では身分が低いといわれていた人と

寝食をともにしたり話をしていた

やはり法を説く人はそれだけの人を

周りに集めなければいけない

こういう事をユダは常々言っておったのです

しかしイエスはそれをやめなかった

他にもっと愛する弟子がいた事

それと彼が言う様な下層階級の者とも

交わったと言う事ですかね

こういう事を常々彼は

不満に思っていたのです

 

しかし彼の中にはもう一つあったのです

「先生は自分は救世主だというのに

救世主のわりにはそれだけの事ができんではないか

世の中救われんではないか 

救世主がなぜ命を狙われるのか

救世主なのになぜあれだけの軍勢に取り囲まれるのか

おかしいではないか 

なぜ世の人々がそれを納得しないのか」

こういう事があったのですね

そして彼の心の中には

師を試してみたいという気持ちがあった

「本当の救世主であれば

それだけの奇跡を起こすであろう

モーゼがエジプトの地を逃れんとした時

神は紅海を真っ二つに割って

彼を逃したではないか

さすれば王の軍勢が本格的に

イエスに向かった時に

何らかの奇跡が起きるはずである」

こういう事で彼は

それを試したいという気持ちがあったのです

彼自身の信仰にそこに曇りがあった

神を試すという気持ちがあった

何らかの奇跡が起きなければ信じない

こういうところに弱さがあったわけです

これは今の方にもあるでしょう

こういう事ですね 

法のみを聞いて信じられる人間は幸いである

 

ユダはその奇跡を見んとした

そういう事で追っ手を師に仕向けたわけです

しかし奇跡は起きなかったわけです

イエスは自らの予言通り十字架にかかって

罪人と共に33才で最後を迎えたのであります

 

その姿を見て

最後まで奇跡を期待しておったユダは

自分の愚かさに気づいたわけであります

そして悪の手先に

自分がなったという事を知った

今日でいうならば

わずか数千円のお金の為に師を裏切った

こうした事を知って

彼もその翌日に柿木に首を吊ったのは

皆さん御存知の通りであります

まあ そうした哀れな役割をした人間があった

けれどもこうしたユダは

いつの時代にもいるという事を知らねばならん

 

さて十字架にてイエスは亡くなりました

しかしそれは敗北を意味しません

モーゼの時に紅海を割って

モーゼを逃がした神が

イエスの時にその十字架を見ておりながら

何も答え給わず 

ゲッセマネの祈りにおいても答え給わず

何らの奇跡も起こし給わなかった

その理由はその十字架の後に

待っていたという事です

すなわちイエスの人生の中において

様々な教えを説いた事も

大事であるけれども

事実として一番大事な事は

病気を治した事でもなく

目が見えない人の目を開けた事でもなく

イエスが復活したというこの事実であります

イエスが復活したという事実は何千人の目に

見えたのであります

 

イエスは復活しました

そして弟子達の前に現れました

復活というのはもちろん霊的な復活であります

霊的に復活し

そしてその肉体を物質化現象として

現したという事です

生前そっくりの姿として現れ

弟子達に説いて歩いたという事です

 

この復活があったからこそ

弟子達はその後あれだけ結束し

死をも恐れぬ

伝道の使徒となったわけであります

単に十字架にかかって亡くなっただけなら

弟子達は散り散りばらばらになって

そのままで終わったでありましょう

しかし彼らがただ散り散りになるだけではなくて

また結集して聖典として聖書を残し

また全国各地に伝道して回ったということ自体が

これが復活という行為が引き金であったと思います

 

パウロという人間もそうです

初期にイエスを迫害していたといわれ

亡くなった後も信ぜず

弟子達を迫害していた彼が

復活の以降 

大いなる翻心を遂げて

弟子として全国伝道に 

ローマ伝道に

ギリシャ伝道にと

活躍する事になりました

 

そうした

大いなる百八十度の転回という事も

予定していた事なのです

この大きな意味の為にあえて

イエスは十字架という苦難に目をつぶったわけです

 

最後にキリストとは一体何なのか

イエス キリストと呼ばれている

地上にあった時の名はイマ二エル(インマヌエル等)

キリストというのは救世主という意味です

 

そして地上にあった時にイマニエルは

「我はキリストなり 我は救世主なり」

という事を明確にうたいました

この事により迫害の引き金を引いたかもしれません

ただこれを言わなければ名前は現代に伝わってこなかった事も

事実であろうと思います