《ショートショート 0790》


『いただきます』


「いただきます、は必ず言うよ。出されたものがたとえただ
の水や白湯であってもね。いただけるのは、当然なんかじゃ
ないからさ」



hk2
(ハクサンボク)



これまでずっと、頭のてっぺんからつま先まで泥だらけになっ
て山の中を駈けずり回っていたわたしが、何の因果かスーツ
を着て事務員をすることになった。

もちろん、研究者を目指していたわたしがルーチンワークの
事務を喜んでやりたいわけはない。

D2の時、フィールドワークの最中に平衡感覚障害を発症。
座ってじっとしていればそれほど実害はないんだけど、起伏
のある場所を動き回ると自分の姿勢をうまく制御出来なくなっ
てしまったんだ。

それだけでもフィールド屋としては致命傷だったんだけど、
症状のストレスからパニック障害を併発。
山の中どころか、車や電車での長距離移動も難しくなってし
まった。

わたしが室内作業メインのラボ屋やモデル屋なら、まだ研究
現場でやっていける道があっただろう。
だけどこてこてのフィールド屋だったわたしは、全く潰しが
効かなかった。

休学して一度実家に帰り、祈るようにして症状の軽快を待っ
たけど、二年経っても症状が好転しそうにない。
わたしは……研究を諦めた。

もう三十も目前になってるのに今更新入社員じゃないだろ
うって、自分でもそう思うけど。
講座の教授が紹介してくれた測器メーカーの事務員として働
くことにしたんだ。

わたしの配属されたセクションにいるのは技術者ばっかで、
四方八方男、男、男。
事務系すら男ばかりの、ものすごくむさ苦しいところだった。
もちろん、若い女の子と比べられたくないわたしが、あえて
そういうセクションを希望したからなんだけどね。

技術畑のセクションて言っても、事務員のわたしの仕事には
専門性は全くない。
電話番、資料作り、各種書類の整備……どこの会社でも事務
員がすることばかり。

だけど、わたしはしくじるわけにいかない。
持病を抱えている以上、職の選択肢はうんと限られてる。年
齢的にもスキルを考えても、そうそう今以上の好条件は望め
ない。
思考を切り替えて、今の職場環境に心身を馴染ませていかな
ければならないんだ。

わたしが来るまで誰も女性がいなかったうちのセクションで
は、お茶やコーヒーは各自で勝手に淹れていた。
でも、わたしがいるのに今まで通り勝手にっていうのはあれ
かなあと思って、わたしは朝と昼に全員の分のお茶を淹れる
ことにした。

誰かに命じられてすることじゃないから、わたしにお茶汲み
することへの違和感はなかったんだ。

お茶のサービスはみんなに喜んでもらえたみたいで、わたし
はほっとした。
そして同時に、一つ変わったことに気付いたの。

わたしの差し出したお茶。生返事だけで受け取る人もいれば、
丁寧にありがとうって言ってくれる人もいる。
でも……。

酒井チーフだけは、最後が必ず『いただきます』なんだ。
そんなことを言うのはチーフだけ。なんでだろ?


           -=*=-


チーフを残して、スタッフが会議室に移動した。
チーフは他社の技術さんとの打ち合わせがあるので、会議を
パスするそうだ。
回路図を見ながら、忙しそうにパソコンのキーを連打してる。

「ふうっ」

一段落したのか、かけていたメガネを外して目元を指で揉み
ほぐしたチーフが、ぼやっとしていたわたしに視線をよこし
た。

「里見さん。済まん、コーヒー用意しておいてくれ」

「お客さまに出す分も、ですね?」

「そう。そろそろ来るはずだから」

「分かりました」

わたしは人数分より多めにコーヒーを落とし、淹れたてのを
カップに注いでチーフに勧めた。

「どうぞー。お疲れでしょう?」

「ああ、助かる。ありがとう。いただきます」

やっぱり、いただきます、だ。不思議。

「あのー」

「うん?」

「チーフは、どうしてお茶やコーヒーを受け取られる時に、
最後にいただきますって言うんですか?」

わたしの顔をじっと見つめたチーフは、外していたメガネを
かけてカップを持ち、コーヒーを口に含んだ。

「うん、うまい」

かちん。
カップをソーサーに戻したチーフは、にこりともせずわたし
に質問を投げかけた。

「どうしてだと思う?」

うわ……質問で返って来るのは予想外だったなー。

「感謝の気持ちを忘れないため……ですか?」

「そんな高尚なもんじゃないよ」

え?

チーフは、カップに残っていたコーヒーを一気に口に流し込
んで、わたしに向かってぐいっと身を乗り出した。

「田崎に聞いたが、君は病気で夢を諦めたんだろ?」

「……はい。諦めたっていう言い方はしたくないですけど。
結果として……そうですね」

「どう立て直す?」

うわ、直球だなあ。でも立て直すのは無理だよ。

「この忌々しい症状が少しでも改善する見込みがあるのなら、
まだ粘るんですけどね……」

「そうか」

チーフが、わたしに向かってぴっと指を伸ばした。

「それなら、受け取れるものは何でも受け取った方がいい。
いただきますってのは、そういうことだ」

あ!!

「受け取ってから選択することは、いつでも出来る。でも、
そもそも受け取れるかどうかが分からないのさ」

「……」

「いただきますは、感謝の言葉なんかじゃない。もらえるも
のはなんでももらう。差し出されれば食らいつくぞ。そうい
う攻めの意思表示なんだよ」



hk1
(ハクモクレン)



空のカップを持って席から立ったチーフは。初めてにやっと
笑った。

「俺のいただきますに気付いたのは、里見さんが最初だよ。
俺の説教を、おいしくいただいてくれ」

くす。





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