中身のない話

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なんだか久しぶりにお休みなのでブログでもしたためることにした。

と言っても「空谷の湧水」からこっち、取り立てて書かざるを得ない事柄もなく、刻一刻と過ぎ行く2018年と来たる除夜へのタイムリミットに訳もなく焦燥を感じながら日々を過ごしている。


気がつけば、あれほどけたたましく鳴いていた蝉の声は聞こえなくなり、夜中コンビニの灯りに群がっていた羽虫たちは、時折強く吹く夜風に揉まれて徐々にその姿を消しつつある。


土日祝日関係なく毎日のように稽古場へ通っていると次第に曜日の感覚は薄れていくもので、自分が今、一週間という七つに色分けされた道のどの辺りにいるのか見失う瞬間が度々訪れる。

帰りの電車の中、手持ち無沙汰で開いたソーシャルゲームの日替わりクエストでようやく今日が何曜日なのか気がつくことざらである。

こうした社会的にも最低限は把握しておくべきことを蔑ろにしてしまうのも、自分のものぐさな気質が拍車をかけているであろうことは否定できない。


夜、就寝前に壁にかかったカレンダーをふと見上げてその薄さに愕然とする。残された時間はこんなにも少ない。慌てて今年自分に何が出来たか、そしてこれから何が出来そうか、ということに頭を巡らすが、悲しいかな、ものぐさ太郎は恐るべき睡魔の魔手には抗えず、はっと我に帰れば小鳥のさえずる朝である。

寝ぼけ眼で朦朧としたまま風呂場へと辿り着き、シャワーを浴びていると、立ち込める湯気の中、次第にそこが何やら懺悔室のように感ぜられ、脳裏ではザ・カスタネッツの「ねないねないねない」が流れ始める。


このようにして、梅津瑞樹の1日の幕開けは悔恨と葛藤から始まるのであった。







というように、如何にも日々思い悩んで生きているかのように書き連ねているが、実際のところ、仕事中にそんなことは忘却の彼方で点となっているし、日々を漫然と生きちゃいないか?なんて身のない自問自答は、風呂場と夜、ベッドで横になっている時だけで充分であると太郎は思う。


答えの出なさそうなことに対して、それでも答えを出したいと思索に耽る時間というのは人が人として生まれた以上避けて通ることができない道程であり、それ故に生じる葛藤は美しくもあるが、それはそうすることを持てる時間に許された者に限る話だ。

僕のように何も持たざる者にとって、今はその自由は剥奪されたも同然なのだ、と自分を納得させる。


だから、そうした思惟は老後の楽しみにでもとっておくことにしよう。