松阪巡り最後は菅相寺から1キロ歩いた

来迎寺照れ

来迎寺  【らいごうじ】
永正年間、北畠材親により松ヶ島城下に創建されたが、1588年(天正16年)、蒲生氏郷の松坂城築城に伴い城下の現地に移転した。

1716年(享保元年)の松阪大火で表門(現在の裏門)を除き焼失したが、豪商三井家などの尽力により8700両の費用をかけて再興された。


角屋七郎兵衛等供養碑並びに松本駝堂墓 
安南(あんなん)(ベトナム)貿易家の角屋七郎兵衛(1610~1672)は、湊町の廻船問屋角屋七郎次郎の次男えー

寛永10年(1631)22歳の時、初航海で交趾(コーチ)へ渡るが、その2年後に鎖国令が出されたため、現地に永住することを決意するんですプンプン

その後、會安(ホイアン)の日本人町の長として活躍をしながら、松坂の一族とも音信を交わし、伊勢神宮や松坂城下の寺社への寄進を続けたとかニヤリ

供養碑は、七郎兵衛とその一族の名を刻むが、建立年は不明ショボーン

松本駝堂(1673~1751)は、角屋家別家出身の外科医ニヤリ

松坂出身の丹羽正伯(にわしょうはく)や植村正勝とともに本草(ほんぞう)学者として知られた人物なんやって照れ


鐘楼門 
一間鐘楼門形式で1階を通路、2階には鐘が納まっている立派なものびっくり

鐘楼門に吊るされた鐘は、「安濃津但馬守秀種の作」とありますキョロキョロ

但馬守とは、江戸時代初期に津城下に住んだ鋳物師の一族・辻家の官途で、辻家の初代が、越後守家種えー

家種の子が辻但馬守吉種と辻越後守重種の兄弟、重種の子が、越後守陳種なんだとかキョロキョロ

秀種というのは、辻但馬守吉種の後継者にあたる人物と思われますが詳細は不明とかショボーン

この当時、鋳物技術が卓越していたのが
津城下の鋳物師たちであったので、津だけでなく、松阪や伊勢でも辻但馬守または辻越後守による梵鐘や灯篭が数多く存在ニヤリ

ただ、上記のように、辻家の鋳物師が代々、但馬守または越後守を名乗っていましたから、数が多いのも当然ではあるのですが…えー


鐘楼門過ぎてすぐにある鎮守社えー


本堂 
享保元年(1716)の松阪大火の際、表門(現裏門)を除いてことごとく焼失ショボーン

本堂は、享保11年から再興にかかり、同16年に完成した複合仏堂で、前後に並ぶ外陣と内陣を合の間で繋いでいますニヤリ

前方の外陣は桁行7間、梁間4間、寄棟造、本瓦葺、前面に向拝3間をつけるえー

後方の内陣は、身舎(もや)の周囲に裳層(もこし)を巡らした宝形造、本瓦葺の建物ニヤリ

身舎は方3間、阿弥陀、観音、勢至の三尊来迎像を配し、その背後の壁には二十五菩薩来迎図を描くえー

本堂は複雑な外観をもつとともに内部の空間構成は豪壮で、意匠的にも優れており、江戸時代中期を代表する建造物なんです照れ

なお、本堂の再興にあたっては松阪が生んだ豪商三井家が深くかかわっており、再興費は8,700両にもなったとかびっくり

御本尊
阿弥陀如来


向仏堂 
阿弥陀如来
 「向仏(こうぶつ)」とは、妙法蓮華経にあいたてまつるということとかえー

合掌は、色法の姿であり、向仏とは信心であり、心法なんよニヤリ

色心の二法を妙法蓮華経であると開悟するのを、譬喩品で、舎利弗が歓喜踊躍したと説くのであり、歓喜踊躍とは心法色法一体の姿なのですプンプン


びっくり
以前の本堂に付いてたやつ?かな…キョロキョロ


多宝塔 
法華経見宝塔品の説によるものであり、本来、多宝如来をまつる塔を指すものでしたえー

現在では、仏塔の建築形式の一つとされており、さまざまな寺院に建てられています照れ

五輪塔と同じように、真言宗開祖である空海により高野山に建てられたことが始まりだったと伝えられていますえー

多宝塔は平安時代後期から建てられるようになり、鎌倉時代後期頃までに急速に普及しましたえー

下から基壇、基礎、軸部、屋根、饅頭型、匂欄、斗型、屋根、露盤、伏鉢、請花、九輪、宝珠の順に積み重なっていますニヤリ

軸部から匂欄までを『塔身』、斗型から屋根までを『笠』、そして露盤から宝珠までを『相輪』と呼びますえー

これが正式な形なのですが、各所を省略したものや独自の形をしたものもあるようですニヤリ

法華経によると釈尊が霊鷹山にて法華経を説こうとした際、突如目の前に宝塔が現れたため、中に入ると多宝如来が座っていた照れ

すると多宝如来は釈尊に隣に座って説法するように言ったえー

そのことから、多宝塔には多宝如来と釈尊が併座して彫られるようになったんですえー

その後は大日如来、阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来といった密教における五仏を供養したものであったり、お墓や供養塔としても利用されるようになったと伝えられています照れ


仏足石 
この石は、仏の足跡の彫刻が彫られており、この足跡は初期仏教に見られた偶像ですえー
今日では仏像や仏画に祈るのが一般的だが、仏の涅槃後数百年の間、信者がそうすることは考えられていませんでしたえー

当時、仏教は仏の教えを研究するための規律であり、彼の聖なる存在は形を与えられるべきではないという慣習がありましたニヤリ

代わりに、仏陀の足跡の石の彫刻が作られましたニコニコ

これは、彼が地上を歩いた場所を示し、彼が実在していたことを思い出させるためのものえー

これらの足跡は現在の中国・西安の寺院にあるものの模様を写したものであり、さらに中国のものは、ブッダが人生の大半を過ごした場所と言われている古代インド王国のマガダに祀られているものの模様を写したものだといいますえー

また、作成して持ち込んだのは、中国の唐王朝(618〜907)の日本使節団の黄文本実だということも明らかにしていますニヤリ


大三大師堂 
内陣を拝見すると、中央に元三大師こと慈恵大師坐像、向かって左側に不動明王坐像、右側に三面六臂の大黒天様が祀られているのが拝顔できました爆笑

元三大師(九一九~九八五)は、比叡山の高僧であり、荒廃していた比叡山諸堂の復興など数多くの功績を上げられたことから比叡山中興の祖として崇められていますえー

また、今も全国のお寺や神社で引かれている、おみくじの創始者としても有名なんよニヤリ

良源というのが生前の名でありますが、元月がんげつ三日(一月三日)に入滅されたことから、元三大師の通称で広く親しまれており、生前に人並みはずれた霊力と様々な姿に変じて人々を救ったという言い伝えが今でも伝承されています照れ


大三大師堂の手水爆笑
岩の所にちょこんと…龍ニヤリ


境内では蓮がラブ
綺麗なお寺です照れ


地蔵堂
中にも外にもお地蔵様爆笑


行った時はご住職がお留守えーん
以前に頂いたのをニヤリ

三重県松阪市飯南町深野623


帰りに 大和西大寺駅にお立ち寄りやぁ爆笑

駅なかにあるえー
中国料理「百楽」各店で提供している「幸福(シンフゥー)麻婆豆腐」の専門店に照れ


麻婆豆腐 セット 1,000円
麻婆豆腐とご飯のみというシンプルなセットニヤリ


豆腐は、絹を使用されていますえー
麻婆は、山椒がガツンと効いた本格的な味プンプン

辛さには、それなりに耐性のあるみぞかつでしたが、かなり辛かった…ショボーン

辛いのが苦手な人は食べられないと思いますので、気を付けてくださいねニヤリ

近鉄大和西大寺駅構内
大和西大寺駅から21m