4ヶ所目〰️
新熊野神社から歩いて10分くらいかな?
智積院にキタァ〰️
智積院は過去にも来てるんで2回目なんですぅ〰️
いいお寺は何度も来てもいいよなぁ〰️
智積院 [ちしゃくいん]
智積院は、正式には五百仏山根来寺(いおぶざんねごろじ)智積院といいます。
もとは、紀州(現在の和歌山県)の根来山に由来があります。
根来山は、弘法大師・空海が開いた高野山から平安時代末期に分かれ、興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)によって開山しました。
戦国時代に最盛期を迎えますが、豊臣秀吉によって一山ごと焼き払われてしまいます。
その後、徳川家康から現在お寺のある土地と祥雲禅寺(しょううんぜんじ)が寄進され、復興にいたりました。
もともと祥雲禅寺は、3歳で病死した秀吉の愛児・鶴松(つるまつ)を弔うために建てられたお寺です。
そして、明治時代に智積院は全国に約3000の真言宗智山派寺院を統括する立場にあたる総本山となりました。
総門
東福門院(とうふくもんいん:後水尾天皇の中宮)旧殿の門を移築したんやってぇ
前から思ってたんやけど移築とかってどうやって移築したんやろぅ?
昔やからトラックとかもないし…
すっごい狛犬を発見❕
写真じゃ分かりづらいんだけど
そこそこデカイんよ
金堂
総本山智積院の中心的な建物なんです
宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設されたんやってぇ〰️
堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。
毎朝の勤行、総本山としての多くの法要はここで厳修されてるんです
以前の金堂は、元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に建立されました。
しかし、明治15年(1882)に火災により焼失しました
紅葉がいい感じだと思いませんかぁ〰️
明王殿
明王殿は、昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物です。
その後、平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されております。
ご本尊は不動明王様で、明王殿は不動堂とも呼ばれます。
密厳堂
真言宗中興の祖、興教大師覚鑁のご尊像を安置する密厳堂は、智積院第七世運敞僧正が末寺・学侶に寄付を募り、寛文7年(1667)に建立したものです。
正面に寛文12年(1672)運敞僧正自筆の「密厳堂」の額が掲げられてるんです
弘法大師像
いつもお疲れ様です
玄宥僧正像(げんゆうそうじょうぞう)
玄宥僧正は智積院を再興された方です
後ろの紅葉が眩しいぃ〰️
延命子育 地蔵大菩薩
お子様の健康増進を祈願し併せて
水子精霊の供養をして頂けます
楓図
「桜図」の完成の翌年に亡くなった息子久蔵の突然の死を悲しみ、創作意欲を失いかけましたが、息子の分まで精進しようと自分を鼓舞し、
楓図を描き上げたと言われてるんやってぇ
桜図と同様な豪華さで楓の古木が枝をいっばいに広げ、その下には様々な草花がみごとに配されています
息子の死という悲痛な思いを乗り越えた力強さと、落ち着いた秋の雅が感じられる等伯五十五歳の時の作品です
名勝庭園
利休好みの庭と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時代に原形が造られたんです
その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言われるようになります。
築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています。
国宝の障壁画がかつて飾られていた大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます。
その大書院より眺めることができる庭園は、四季折々の美しさで私たちの目と心を楽しませてくれますが、特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やかなんやってぇ〰️