四条大宮から北に歩いた所にある武信稲荷神社に行きました

四条通りから細い道を進むんですけど2度ほど迷子になりました

武信稲荷神社【たけのぶいなりじんじゃ】
武信稲荷神社は、平安時代の初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将藤原良相(ふじわらのよしすけ)公によって創祀された御社であります。
平安時代の古図には、三条から南の神社付近一帯の広い地域は「この地、藤原氏延命院の地なり」と記されています。延命院とは藤原右大臣が、人々の健康長寿を願って創設した医療施設であり、延命院と勧学院(現千本三条東、西ノ京勧学院町にあった学問所)の守護神としてお祀りした神社であります。
平安京の大内裏は、今の千本丸太町を中心としたところであり現在の千本通りが朱雀大路にあたり、神社付近は貴族の邸宅や平安京の中央諸官庁があった地域です。
後世、藤原武信という方がこの御社を厚く信仰し、御神威の発揚につとめたので、武信稲荷と称されるようになり、創祀以来一千年余にわたり広く人々に信仰されて今日に及んでいます。
また創祀された藤原良相公が長として一族の名付けをされていたことから、名付け・命名に所縁の神社として知られています。

鳥居
大きい鳥居と小さい鳥居が並んでいます


何となく美人ですよね


大きい鳥居からの参道です

手洗舎

舞殿

舞殿の軒先に大黒さまや色々な置物が…

拝殿

本殿
宇迦之御魂大神(ウガノミタマノオオカミ)佐田彦大神 (サダヒコノオオカミ)
大宮能売大神 (オオミヤノメノオオカミ)
が祀られいます。ここにも美人が…

手前より白清大明神、七石大明神、太郎松大明神です


坂本龍馬が妻おりょうへの伝言の文字を刻んだ
″縁の木″エノキ
二人の思い出の場所
1858年に始まった安政の大獄により、
おりょうの父が、当時神社の目の前にあった幕府の六角獄舎に捕えられた。
父が心配なおりょうは恋人の龍馬と獄舎に向かうが面会は難しい。
そのため二人はこの高いエノキに登ってその安否を探ったと言われている。
(龍馬とおりょうの出会いは、おりょうの父が亡くなった後の1864年という説もある)
ロマンチックな言い伝え
江戸時代末期、幕府の追手から逃れるために、妻おりょうと離ればなれの日々を送っていた龍馬は、京都で自分が生きているとの証に、思い出の場所であるエノキの木肌に「龍」と彫る。
おりょうが思い出のエノキを訪れ、この文字の伝言で、龍馬が京都にいると知る。
その後、共通の知人を介して再会することができた。
こうした坂本龍馬と妻おりょうの再会を導いたエノキとして縁結びのご利益があると言われています。

京都府京都市中京区 今新在家西町38