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こんにちは。幸せを運ぶ語りびと 中村美幸です。

ご訪問下さり、ありがとうございます。

このブログでは、小児がんを患った長男(渓太郎)との闘病、別れを通して知った「幸せ」や「愛」、「命」「生きること」について綴らせていただいています。

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毎年、この日に届くメールの中には、必ずこんなメールが紛れます。


「渓ちゃん!お誕生日おめでとう!!」

 

 

そんな文章を目にした私は、ちょっと意地悪なお返事を・・・。


「ありがとうね!!今日は、渓太郎の命日だよ~(≧▽≦)」


―――メールをくださった方のその後の慌てっぷりは、ご想像通りです 笑

 

 

 

 

というわけで、22年前の今日。

 

世の中がお祝いムードでいっぱいな中、渓太郎はひとり天国へと駆け上がりました。

 

 

クリスマスと言うと「生誕」というイメージが強いためか、先ほどの話のように、毎年命日には、「今日は渓ちゃんの誕生日だね!おめでとう!」と声をかけられます。

 

その冷や汗をかいてしまいそうな言い間違えは、付添い看護に参加していた私の母までにもおよび、「美幸。今日は渓ちゃんのお誕生日・・・あっ、違う違う・・・」と慌てて言い直す始末。



そして今年、はじめてお祝いされない命日を過ごしました。
 

 

 

 

心のどこかで「今年は誰が間違えるだろう」と期待していたせいか、「おめでとう」と言われないことに違和感を感じたりするのですが、それはきっと、私の中で「うん!渓太郎の命日は確かに『おめでとうだ!』」と思っているからなのかもしれません。

 

 

 

 

渓太郎の旅立ちがすぐそこまでやって来ていた時。

 

腕の中で「ハア、ハア」と荒い呼吸をする渓太郎の耳元に向かって、私はそっとささやきました。

 

 

「渓ちゃん、もういいよ(逝きなさい)」

 

 

 

それから間もなくして、心臓が停止したことを知らせる「ピー」という機械音を聴いた時。

 

静かであまりにも深い悲しみの中に落ちた心の片隅で、かすかな安堵が私の心をほんの少しだけ温めてくれていました。

 

 

 

やっと解放されたね・・・と。

 

 

 

私が強いた延命治療の苦しみから渓太郎を解放してくれたのは、それまでもっとも怖くて、「渓太郎に近寄るな!」と毛嫌いしていた「死」。

 

 

 

そんなこともあって、命日に送られてくる「おめでとう」という言葉は私にとって、案外、しっくりとくる言葉でもあったのです。

 

 

 

 

今日は、「渓ちゃん、もういいよ(逝きなさい)」と言ったあとの、渓太郎の安心した顔が浮かびます。

 

そして私の口からは、何度もなんども「渓ちゃん、よかったね」という言葉がこぼれるのです。

 

 

 

 

 

―――渓太郎の命日にお知らせしたくて、今日を待っていました。

 

1月11日に公開される動画の予告編が完成しました。

 

わずか1分ほどの予告動画ですが、想いがパンパンに詰まった動画です。

 


「見失ってしまった愛情を取り戻す40分」
 


是非、ご覧ください。