『コン、コン』

 

音のした方に目を向けると、扉の向こうに立っていたのは主治医の佐藤先生。

 

 

「はい」と返事をすると、「おはようございます。往診に来ました」と言いながら、先生が病室の中に入ってきた。

 

 

「あっ、はい。おはよございます」

 

 

前日、始まったばかりの病院生活は、なにもかもが初めてで、私は緊張気味に先生を迎えた。

 

 

「今日は血液検査があるので、これから採血しますね。渓太郎くんをベッドに寝かせてください」

 

 

ベッドの上で渓太郎を抱っこしていた私は、慌てて渓太郎を寝かせると、先生がいるのと反対側のベッドのわきに降りた。

 

 

すると、とたんに不安そうな顔をする渓太郎・・・。

 

 

口をへの字にして、なんとか我慢しているものの、「うわ~」っと泣き出すのも、時間の問題。

 

 

 

無理もない・・・。

 

 

慣れない場所に連れてこられたのは昨日のこと。

 

 

私に抱っこしてもらうことでなんとか我慢していたけれど、その腕からも下ろされ、今や横には、白い服を着た知らない人がいるのだから・・・。

 

 

そんな渓太郎に先生は、優しく声をかけた。

 

 

「渓太郎くん、おはよう。これからチックンするよ。ごめんね」

 

 

 

ますますへの字になる渓太郎の口。

 

 

知らない人の方を見ないように、知らんぷりを決め込んだ。

 

 

 

しかし、先生が腕を掴んだとたん・・・

 

 

 

「ウギャーーー!!!ギャー!!!」

 

 

 

我慢が一気に爆発した。

 

「これでもか!」と言わんばかりの大暴れ。

 

 

 

 

(うわ!大変・・・)と思った私は、とっさに身を乗り出した。

 

 

 

上から覆いかぶさるようにして、渓太郎の全身を押さえ込んだのだ。

 

 

 

「渓ちゃん、いい子にして!」

 

 

 

その体制で、採血をする左腕をギュッとつかんだ。

 

 

 

(渓ちゃん、ごめん・・・。渓ちゃん、ごめん・・・)

 

 

 

張り裂けそうな胸の痛みを必死にこらえながら、先生が注射針を刺すのを待った。

 

 

 

しかし・・・

 

 

 

一向に採血をする気配がない。

 

 

 

(早くしてよ!)という気持ちで、顔だけ横に向けると、先生は切なそうな顔をして私に言った。

 

 

 

「お母さん・・・。

 

手を放してあげてください。渓太郎くんはお母さんが大好きなんです。

 

渓太郎くんにとって、お母さんだけは痛いことをしない人でいてあげてください。

 

私がしますから・・・」

 

 

 

(・・・そんなことを考えてくれていたなんて・・・)

 

 

 

この瞬間からだ。

 

 

佐藤先生が「病気を治してくれる医師」から「私たちの幸せを願う医師」という存在に変わったのは・・・。

 

 

 

 

それから、渓太郎は、先生から痛いことをたくさんされた。

 

 

採血や点滴、手術をされたり、おしっこの管を入れられたり・・・。

 

 

だけど先生が来ると、いつでも渓太郎は、両手をいっぱいに伸ばして抱っこをせがんだ。

 

 

 

「ねえ、渓ちゃん。先生は痛いことばっかりする人なのに、こんなに好きなの。嬉しいな」

 

 

 

冗談ぽく言う、そんな言葉を聞くたびに、先生の心の痛みが伝わってきた。

 

 

 

まだおしゃべりができない渓太郎も、全部わかっていたのだろう。

 

 

 

先生に抱っこをされると、痛いことばかりをするその腕に、いつでもピッタリと頬をくっつけるのだから・・・。