ジャパンカップを走っている最中、ふと横に飯島さんが。

飯島: 「俺、これ最後のレースだから!」
崇史: 「え?」

って実は、ちょっとだけ前に知ってたんだけど。

飯島さんは 自分が18歳の時、チームラバネロでお世話になったのが出会いだった。
高校を卒業し東京に出てきて、自転車選手の駆け出しの俺にとって 

飯島さんは憧れの存在だった。
自分は東村山で、八王子に住んでいた飯島さんと練習を一緒にする事は

ほとんどなかったが、「練習の鬼」って呼ばれていたことを 今でも思い出す。

ラバネロを1年で卒業し、イタリアのアマチュアチームに入った時、

100kmほど離れた所に飯島さんも住んでいた。
「パノンチェッリ」というイタリアでもトップクラスのアマチュアチームだった。
もちろん一緒のレースを走る事もあり、レース中に仕事をする飯島さんの姿は鮮烈な印象を受けた。
パノンチェッリはスプリントを得意とするチームで、横風を使ってペースを上げて集団を分断する作戦をよくするチームだった。
大柄な180cm以上の選手が多く、170cmそこそこの飯島選手はまるでバレーボールのアタッカーとセッター。
それでも必死になって集団の先頭を引く飯島選手は、これが仕事というものだ!
という事を教えてくれた。

それからというもの、

【自分はレースに対してチームに対して自分が何ができるのだろうか?】
という事を考えながら走れるようになった。
周りはエリート選手(23歳以上)、もちろんレースもエリートのレースばかりだった。

アンダー1年目の自分は完走することもほとんどできなかった。
それでも、レース中にチームから求められる事は皆同じだった。

若いから許される、日本人だから許されるなんてありえない。

しかし、そこから信頼を勝ち取っていった。

飯島さんがイタリアで走らなくなってからも、彼の走りには無言のテーマがあった。
調子のよい時は必ず勝負に絡む。調子が悪い時はチームの為に全力で先頭を引いた。
ロードの世界選手権(アマチュア)で 大逃げを打った時も素晴らしかった。
ピスト競技で世界との差を近く感じさせたのも 飯島さんの功績だ。

そしてまた、何年か前に 実業団の小川ロード(山岳レース)を勝ったときは、耳を疑った。
その後、飯島さんに会った時
崇史:「どうしたんですか?」って聞いたら
飯島:「だって、上り上れないって思われたく無いじゃん!」

だって。
まぁそうだけどさ~、すげ~な~この人!って改めて思った。
自分にとって 自転車と向き合う姿勢原点だった人。

とにかく、飯島さんとの思い出は盛りだくさん。

BRAVO  

そして、 いつも 見守ってくれていた気がする。

長い間、本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。


ランスみたいに帰ってきていいからね!