仁(41) 身を殺して以て仁を成すこと有り
子曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無く、
身を殺して以て仁を成すこと有り。
衛霊公第十五 仮名論語231頁7行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
先師が言われた。志士仁人は、命を惜しがって仁徳をそこなうことなく、
時には命をすてて、仁徳を成し遂げることもある。
* 志士は仁に志すひと、仁人は成徳の人。
この章では、志士・仁人の「仁」に対する意識について書かれています。
「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り」・・・志士や仁人といわれる人は命を尊重しながらも仁徳を傷つけることはない。しかし、必要なら命を捨てても仁徳を成し遂げることができる。
江戸時代末期、このころ、日本には外国人からの開国要求が次々と突きつけられるようになっていました。とくに嘉永五年(1853年)、アメリカ艦隊の黒船が浦賀にやってきてからは、日本は鎖国を続けるか開国するかをめぐって激しく混乱し、尊王思想がいやがうえにも高まっていきました。
尊王思想とは、天皇を頂点に戴くことを支持する思想ですが、それに外敵を排除することを意味する攘夷思想が結びついたものを尊皇攘夷論といいます。
「安政の大獄」は、この尊王攘夷派を弾圧した事件です。
この尊皇攘夷という思想を最初に打ち出したのが、儒学から発展した水戸学でした。江戸中期から盛んになった国学でも天皇崇拝の思想はありましたが、徳川御三家のひとつ水戸家で生まれた独自の学問体系・水戸学が尊王攘夷論を唱えたことは、世の中に大きな影響を与えました。
当時の水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)は生粋の尊皇攘夷派で、水戸学の大家・藤原東湖(ふじわらとうこ)を片腕として藩政改革を行い、藩校・弘道館をつくるなどしてその思想を広めました。しかし、のちにやはり「安政の大獄」で、大老・井伊直弼(いいなおすけ)から蟄居処分を受けています。
やがて、維新の志士たちが活躍する時代になると、尊皇攘夷という思想は彼らの共通する合言葉となっていきます。
維新の志士たちは、のちに討幕派や佐幕派に分かれて相争うことになりましたが、そもそも討幕派も佐幕派も、尊王という思想では最初から一致していました。
彼らが争ったのは、実際の政治を担当するのが誰かという違いだけだったのです。
そんな中、維新の立役者のひとりとなった西郷隆盛もまた、「論語」を愛読し、儒学に通じていたことで知られています。西郷が王政復古を唱え、革命的行動を起こして維新を成功させたことにも、やはり、陽明学が影響しているのです。
「論語」の言葉にある「志士」とは、天下のために強い志をもって働く人物を指すのですが、西郷ばかりではなく幕末の志士たちすべての姿がこれに重なって見えます。
しかし、実は尊皇攘夷という思想は、朱子学の中に最初からあったものです。
もともと尊王も攘夷も古代中国からある考え方で、それはのちに儒学にも取り入れられました。さらに朱子学は名分論を重視しますが、名分とは各々の名と実を一致させるという考え方です。それを突き詰めれば、日本の君主はやはり天皇以外にはいません。
外国との条約締結のおりには天皇の勅許を求める必要があったように、将軍は天皇の臣下にしかすぎません。
長きにわたって安泰を続けた江戸幕府は、こうして、内部の論理から崩壊していったといえるでしょう。朱子学の論理によって支えられた江戸幕府が、最後には朱子学の論理によって幕を閉じることになったのはなんとも皮肉なことです。
つづく
宮 武 清 寛
論語普及会
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