三原城 -① / 広島県三原市城町1
久しぶりに三原城天守台へ上がってみました。
久しぶりと言っても、ブログでその時の写真や文章をUPしていないので、ちゃんとした記事としては″初″になります。
以前 散策したのは今のエトセトラが、瀬戸内マリンビューとしてデビューした、2005(平成17)年10月でした。
瀬戸内マリンビューが走り始めたのは10月1日だったのですが、たぶん1~2週間以内に乗った気がします。
あれから21年も経ってしまっていますが、その間に解説板などが周囲に設置されて、ちゃんと歴史公園の体裁が完了しています。
今回は安芸もみじ初なので、三原駅構内から天守台へ上がり、その後、お堀周囲を歩いてみた記事にします。
一発で全部をUPは、長くなるのが嫌いなので、今回も数回に分けての公開となります。
過去の記事で三原城について語ったことがありますが、山陽鉄道(現 JR山陽本線)が西下延伸する際に、三原城は破壊されました。
そもそも三原市街地は今のような硬い地盤があった訳ではなく、鉄道を通すには三原城内に駅を造るしか選択肢が無かったためでした。
冒頭の写真は1881(明治14)年ころの、三原城天守台の写真です。
櫓は既に失われていますが、石垣と本丸構内は広く残っています。
平城や山城とはよく聞きますが、海城と分類されるのは希少です。
現役当時の図が掲示されていて、海上神殿の厳島神社の数百倍という広さを持つ海上城郭は、水軍の基地としても機能していました。
三原城は東西約900m・南北約700m(約63万平方メートル)の広さがあって。
厳島神社は約2,000〜3,000平方メートルなので、概算で約200〜300倍の規模だったことが分かります。
そして城郭全体ではなく、本丸等の主要区画だけでも厳島神社の数十倍以上の広さがありました。
現在三原城跡として残っているのは、明治期の近代化による破壊の残存で、本丸に関して言えば、山陽本線そして山陽新幹線による影響が甚大でした。
現在三原城跡として残っているのは、明治期の近代化による破壊の残存で、本丸に関して言えば、山陽本線そして山陽新幹線による影響が甚大でした。
そして残った一画の天守台へは、その三原駅から上がることができます。
三原駅前ロータリーから駅構内へ入ったり、JR線で下車して改札口を出て来たりすると、一見行き止まりに見えるその奥が。
三原城跡天守台への入口となっています。
それと先ほど記した″一見 行き止まり″に見える突き当たりも、そこまで行けば裏手へ出る通路があることに気付きます。
天守台への階段を昇ると、そこには新幹線のコンコースが現れ、入れなく仕切ってありますが改札口もあります。
新幹線から在来線への連絡通路も、この2階の踊場は面していて、修学旅行等の出口にも使える構造となっています。
この2階踊場から外へ出て、もう少し階段を昇ると、そこが天守台跡です。
天守台には三原駅構内からしか行くことはできませんが、新幹線の駅を造る際に当時の国鉄が、史跡保護の観点からそのような造りにしたそうです。
と、言うものの、実際にはまだ広く残っていた天守台跡を、新幹線を通すために地元と協議した結果、このような形になったのですけれど。
天守台を掘削してホームを造ったのですから、新幹線も天守台からよく見えます。
過去の記事では、ホームから天守台を撮ったので、今回は天守台から新幹線を撮ってみました。
8両化されたN700Aの″こだま″が止まっていましたが、通過線をN700の″さくら″が追い抜いて行ったので、そのシーンをうまく撮ることができました。
-つづく-
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