2024年8.6前夜 / 私事メインな記事です
被爆2世が語る平和記念日と世界史シリーズ |
この写真は被爆直後の本通り商店街です。
現在の広電 本通り電停を背に稲荷町──広島駅やJRA Wins広島と比治山の分岐交差点•••••方面を見ています。
新しく路面電車の線路が敷設されて、広島駅へ向かう高架へ曲がることとなる交差点方向です。
向かって左の白い建物は安田生命広島支店、右側の茶色く変色した建物は、帝国銀行広島支店の残骸です。
帝国銀行広島支店は現在、タカキベーカリーの本丸 広島アンデルセンで、被爆建物の一部を往事のデザインのまま流用して建て替え、歴史保存に努めています。
この本通り商店街の写真は佐々木雄一郎氏の撮影で、本通り交差点の西側 = 平和公園側に原爆被災説明板の碑として使用されています。
ここは爆心地から約250メートルの位置で、少し歩けばほぼ爆心直下の島外科、そして原爆ドームがあります。
本通商店街は当時も現在も、広島市内有数の繁華街としてにぎわってきましたが、人類史上最初の原子爆弾により瞬時に建物が倒壊炎上し、この一帯にいた人々のほとんどが死亡し ました。
実はこの写真はモノクロなのですが、今から17年前となる2007(平成9)年に、私がカラー化したものです。
当時、モノクロ写真のカラー化やモノクロ映画のカラー化が、実験的に行われ始めていた時代で、まぁあまりウケないだろうと思いつつも、私もやってみようと被爆直後の風景をカラー化してみたものです。
AIなど無い時代で、数日かけてフォトショップを使っての着色で、原爆関係写真のカラー化としては、初期の走りだったものです。
元データは大きなサイズだったのですが、当時のアメブロへアップロードする際に、ガラケーで表示できるサイズへ縮小して使用しました。
その他にも複数枚の被爆直後の広島の街をカラー化したのですが、実は元の色を調べて厳密にカラー化したのは、この最初の1枚だけだったりします。
ところが、この写真なんですが、元データがどこへいったのか行方不明で、アメブロへアップロードした320pixの写真しかありません。
なので今回、「広島平和記念日と終戦記念日」を再編集と加筆修正する際に、AIを使って1080pixまで大きくしてみました。
パソコンで見る時は800pixに縮小表示されるので、まぁまぁ見られる程度には補正できていると思いますが、スマホ等でブラウザやアプリで拡大クリックすると、加工の目の粗さはやはりどうにもなりません。
しかしこのカラー化した時代から17年の月日が経ち、デジタルによる色彩復元技術やAIによる着色技術が進歩し、大勢の人たちがカラー化を試みています。
私の稚拙なカラー化とは雲泥の差で、被爆前そして被爆直後の美しいカラー写真が、たくさん発表されていて、しかもいろいろな方々がプロジェクトとしてされていて。
もう私の出る幕はないなぁ~と痛感するばかりです。
さて写真ですが、最初の2枚は長々と説明した通りで、続いてはG7 広島サミット期間中に撮った、原爆被災説明板です。
そして続いては、建物の一部に被爆建物を組み込んで新築した、広島アンデルセンです。
明日は広島平和記念日と言うことで今回は、被爆者 父 武治の生まれた1938(昭和13)年の写真を引用させて頂きました。
広島県産業奨励館前を流れる、元安川の対岸で遊ぶ子どもたちの写真ですが、位置的には原爆ドームの原爆被災説明板よりやや、元安橋寄りの辺りです。
対岸は住宅街が広がっていたはずなのに、なぜ砂場?と思い、古い地図を広げてみたら、地図上では道路扱いになっていました。
当時の広島市の流通は、市街地を横断するのは道路の役目で、縦断するのは河川の役目だった故に、産業奨励館 = 原爆ドームはメイン道路ではなく、川を向いて建っているのですが。
現在は灯籠流しや各種イベント用に護岸が改良されていますが、かつては原爆ドーム側のような雁木があって、荷受け荷渡しがここで行われていたため、砂地なのだと思われます。
知識だけで当時の風景を見たことが無いため、写真で、しかもカラーで見られたこの体験は、郷土史をやる人間として、とても貴重です。
ちなみに原爆ドーム = 産業奨励館は1913(大正2)年5月14日が杮落としで、当初は広島県物産陳列館と言う名称でした。
因みに江戸時代は広島城外堀対岸で、広島藩米蔵地でした。
やはり毛利輝元が広島城を築城した当時から、河川は流通システムの要衝で、運河こそが広島を支えた経済基盤でした。
続く3枚は1938(昭和13)年の写真ではあるのですが、広島の写真と言う訳ではありません。
ただ田舎でもないのに田舎っぽい街並みが、当時の日本の町の原風景で、どんな時代だったのかをちゃんと伝えてくれる、第一級の資料として貼らせて頂きました。
また3枚目ですが、大陸では大東亜戦争が継続中で、日独伊三国同盟締結2年前、真珠湾攻撃の3年前な1938(昭和13)年、戦地へ兵隊さんたちを見送る壮行会が、子どもたちによって行われた写真のようです。
この時はまだ、日本と言う国が滅亡するかも知れない大戦争へ発展するなど、誰も夢にさえ思っていなかった、最後の平和な時代でした。
2人の女性がいる位置は、現在の西松原の浜辺で、写っている回廊は西回廊で、本殿の平舞台は左を向いていて、写真の1番左に写っているのは、左楽房と並び奥が門客神社です。
もうね、どの写真も素晴らしいの一言に尽きるのですが、カラーになることで臨場感が増し、見たい知りたい過去へタイムスリップが可能になります。
今回、写真を使わせて頂きました方々は、″記憶の解凍″さまと″Pear Book″さま、そして″写真修復の朋成″さま、これからも歴史と史料の保存活動を、陰ながら応援致します。
父が亡くなり慰霊碑へ名前が入って16年ですが、1938(昭和13)年の記憶が父にあるはずはなく、私自身の1番古い記憶を辿ると幼稚園に入る前の見学なので、3歳だと思われます。
記憶には個人差があるので父の1番古い記憶が何歳なのかは分かりませんが、同じく3歳だとすると1941(昭和16)年となります。
東京都への首都空爆は1942(昭和17)年4月18日から1945(昭和20)年8月15日まで断続的に実施されましたが、罹災者100万人超え 死者は9万5,000人を超えた1945(昭和20)年3月10日の″東京大空襲″は悲惨たる甚大な被害が発生しました。
父にはこの度重なる空襲の記憶はあるようでしたが、東京大空襲の直前に広島へ帰省し転居したと聞きました。
当時、祖父(私から見て曾祖父)の富三郎は、浅野長之(あさのながゆき)侯爵に従事していましたが、1940(昭和15)年12月20日に家督を相続した浅野長武(あさのながたけ)侯爵に従事を始めていました。
華族議員だった浅野家にいたことから、戦局がいよいよヤバイよな•••••••との話しも耳に入るようで、東京大焼殺が起こる1週間前の3月3日 桃の節句に帰広したようです。
父の記憶によれば、帝国大学(東京大学)の赤門付近に屋敷があった•••••••との、うっすらとした記憶があるようで、戦後、広島県庁職員時代に東京都庁務めとなった時。
当時の住んでいた場所を探してみたものの、街並みが変わり果てていて全く探し当てられなかったと言っていたのを覚えています。
1944(昭和19)年に本土決戦へ向けた特別措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、特急および急行列車などの全廃が決定されました。
これにより4月1日から特急列車が全廃され、急行列車も一等車・展望車・寝台車・食堂車の連結は全て中止とされました。
急行列車の運行は全廃こそ逃れましたが1945(昭和20)年3月20日から東京~下関間の1往復のみに削減されることが決まっていて。
まだ広島へ帰れる列車があるうちに、帰広しようと浅野長武 侯爵へ御暇も申し出て、受理されたことからの帰広となりました。
因みに私から見て祖父の名前は″武″で、父の名前は″武治″ですが、両方とも浅野長武 侯爵から1字を頂いたものです。
話しは横へ逸れますが、長武公は1895(明治28)年生まれで、祖父 武は1912(大正1)年の生まれです。
──と言うことは、炎柱 煉獄杏寿郎が無限列車で戦死した時は、祖父は5歳の頃•••••••おっと、話しが逸れたどころか脱線してしまいました。
で、富三郎は私から見て曾祖母・祖父・祖母・父・叔母を連れて広島へ帰ることとなったのですが、浅野家は広島に自宅はあるとは言え、明治時代からずっと東京暮らし。
当然、うちの家系もずっと東京暮らしなので、広島へ家はありません(厳密には無い訳では無い)が、親戚の児玉家が元 草津城主だった縁で、草津東町へ屋敷を建てました。
そして5ヶ月後。
人類初の核攻撃が、広島を襲いました。
今年は広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 = 広島平和記念式典の前夜が、月曜更新日となったため、父の生まれた198(昭和13)年を中心とした、話題をしてみました。
それによってこれまで触れたことない、家のことも少し話すこととなりましたが、生前は生ける災厄と呼ばれた父 武治に、今後は人の役に立ってもらいましょうのことば通りに(笑)
時折、物語を綴りますが、祖父や祖母につても稀に、語ることが今後はあるかも知れません。
還暦を迎えて、原爆の日の捉え方は少し変わった部分もあり、 子どもの頃から一貫して変わらない部分もあり•••••••なところです。
なので平和記念日や終戦記念日などの慰霊の日の記事は、根源的な部分では変わらないものの、記事のあり方は少しずつ変化して行くのかも知れません。
2024(令和6)年・平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)について、広島市からお知らせです。(7月8日時点)
-参列席-
平和記念公園式典参列者席(メイン会場)に約7,000席
広島国際会議場 フェニックスホール 及び ヒマワリに屋内席(サブ会場)に約2,200席
式典の開式は8時ちょうどです。
まずは早朝より入場規制が始まります。
-式次第-
5時0分~:入場規制範囲内にいる公園利用者に対し、公園外への移動を要請します。
6時30分~:平和記念式典参列者の式典会場への入場開始
8時0分~:開式 及び 原爆死没者名簿奉納
8時3分~:式辞
8時8分~:献花
8時15分~:黙祷 及び 平和の鐘
8時16分~:平和宣言 及び 放鳩
8時24分~:平和への誓い
8時29分~:内閣総理大臣及び貴賓あいさつ
8時46分~:ひろしま平和の歌
8時50分~:閉式
-補足-
◎入場規制の内容 = 午前5時から午前9時までの間、公園利用者の平和記念公園(式典会場)への入場を規制します。
◎規制時間中に、慰霊碑への参拝を希望する者については、午前5時から午前7時までの間に設ける専用出入口及び専用通路を利用することができます(手荷物検査及び金属探知検査不要)。
◎参列者は式典会場入場口で、手荷物検査を受けて公園内に入り、参列者席(メイン会場)入口で、金属探知検査を受けていただくことになります。
尚、混雑状況によっては、入場開始時刻を前倒しすることがあります。
◎参列者席(メイン会場)のうち、先着順である被爆者・遺族席(約1,600席)及び一般席(約1,200席)については、定員に達した時点で入場をお断りすることになりますのであらかじめ御了承ください。
◎上記の入場規制のほか、関係車両通行時など、平和大通り周辺で歩行者の通行規制を行うことがあります。
◎なお、入場規制の内容は変更となる場合があります。
◎入場規制中の禁止行為等平和記念公園(式典会場)においては、午前5時から午前9時までの間、次の行為を禁止します。
①危険物、大きな音を発するもの(マイク・拡声機・楽器類等)、プラカード・ビラ・のぼり・横断幕等、式典の運営に支障を来すと判断されるものの持込み
②ゼッケン・タスキ・ヘルメット・鉢巻等の着用や小型無人機(ドローン等)の飛行
③物を投げる、大きな音声を発する、立入不可エリアに無断で侵入するなど、式典の妨げとなると判断される行為
④他の公園利用者の通行その他の公園の利用に支障を来すと判断される行為
◎公園の利用者間の調整を図るために市職員等が実施する警備に支障を来すと判断される行為
・警備のための移動要請等に従わない
・規制線や検査場を強行突破するなど警備を妨害する
など 禁止行為に該当すると認められる場合は、行為の中止を要請します。
当該要請に従わない場合は、平和記念公園(式典会場)外への退去の命令または強制退去の執行することがあります。
平和記念式典は被爆者とその遺族のものであり、また、先人の御霊に手を合わせ平和を希求する人々のためのものです。
去年は行ってないのですが、一昨年も岸田政権が原発の新増設などの検討を進める方針を打ち出したことから、原発反対の人たちが朝から平和公園に集まって。
ピースサイクル広島を始めとした全国からの活動家の人たちが集まって来たんだけど、被爆者や遺族が思いを寄せている時、大声で拡声器使って、妨害に来たのよ。
一昨年の記事にも記したのですが、平和活動もいい、原発反対もいい、けど遺族の式典を邪魔するなよ。
って、ちょっとことば悪くなるけど、ご容赦下さいね。
バカがバカみたいに集まってバカなこと叫ぶなやっ!
参加者全員調べ上げて、身内の誰かが亡ぅなった時、葬儀の最中にお経や参列者の声が聞こえんぐらい、外でバカ騒ぎしちゃろうか?
政治信条や思想を訴えてストレス発散に利用するんじゃねーわ、お前らんための式典じゃねぇんじゃ、バカどもが!
一昨年は優しく表現していましたが、今年は申し訳ありません、昭和99年と言う白寿な年なので、文字ながら荒々しく主張してしまいました。
と言うことで、明日は広島の慰霊の日です。
今年は今できる範囲で準備万端な体制で実施される平和記念式典ですが、穏やかに 厳粛に 慰霊と追悼の心を込めた式典が行われますように⭐彡
原爆ドームが広島県物産陳列館として、1913(大正2)年5月14日にオープンした時、来館者へ配布された記念ポストカードです。
広島観光の名所として物産陳列館はオープンしましたが、広島と言えば日本三景 安芸の宮島で、厳島神社とツートップでのデザインです。
111年絶った現代においても、広島の世界文化遺産としてツートップの観光名所ですね。
そう、来年は昭和100年ですが、今年は原爆ドーム(広島県物産陳列館)開業111周年なんですよ。
☆被爆2世が語る平和記念日と世界史☆
May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)
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