戦艦大和 movie set 2005 -⑦ | 安芸もみじ / 神社と電車と自転車と 【広島】

戦艦大和 movie set 2005 -⑦


アルキメデスの大戦、大好評上映中でなかなかな盛況ぶりです。

今日は長崎の原爆記念日。

平和祈念式典は、午前10時35分の被爆者合唱から始まります。

10時40分 開式 原爆死没者名奉安、10時42分 式辞、10時46分 献水、10時48分 献花と進みます。

原爆の日,平和祈念日,長崎

そして人類史上2発目となる核攻撃となった11時2分、黙祷を1分間捧げます。

その後11時3分 長崎平和宣言、11時13分 平和への誓い、11時18分 児童合唱と続き。

11時23分 来賓挨拶、11時38分 合唱 千羽鶴献祈を行い、11時43分に閉式となります。

広島は8時台ですが、長崎は11時なので、式典の最中の気温が気になります。


各国代表や遺族、一般の参列者の方々には、脱水症や熱中症に、じゅうぶん注意して頂きたいと思います。

私から見て近親の被爆者は両親と、父方の祖母、父の妹、母方の祖母です。

祖父は両方共、兵役従事に就いており、被爆は免れましたが、母方の祖父は戦死しております。

被爆直後の広島では原爆を"ピカ"と呼んでおり、放射能という認識は弱かったものの『ピカは伝染る』と言って、被爆負傷者は忌み嫌われて、差別されていました。


"ピカは伝染る"は、科学や医学に疎い人たちが流したデマだとも、一部では言われていましたが、被爆負傷者は受けた放射線を発しており、また抗体が損傷しているので、生きたまま身体が腐敗して行くといった現象も起こしていて。

親戚や知人を頼って訪れた被爆負傷者は、隔離されて保護してもらえた人もいましたが、看病中に放射線の三次被害(被曝)を受けたり、繁殖した細菌やウィルスが感染したりして、病に伏せるという事態も多くありました。

私の父は4人兄弟で、次女と次男は戦後の生れでしたが、父は昭和13年生れ、長女は昭和15年生れでした。

昭和20年、私の実家にも被爆負傷者の親戚が身を寄せていましたが、1ヶ月も経たない内に亡くなられました。


それからほどなく、幼い長女が体調を崩し、あっという間に息を引き取ります。

祖母(父・長女の母)は、毎年夏になるとそれを思い出すようで『部屋へ行ったらいけんよ言うとったのに・・・・』と、こぼしていました。

祖父も『まだ幼かったけぇ、もらってしもうたんかのぅ』と、祖母に返していました。

毎年の会話です。


きっと長い人生の中で、一瞬たりとも忘れたことは無かったのだと思いますが、原爆の日を迎える季節になると、口に出さないといたたまれなかったのだと思います。

私の家系はブログのHNの通り、鎌倉幕府を開いた"源家"の傍流で、1945(昭和20)年の東京大空襲の前年11月24日の第1回東京空爆の直前まで、貴族院議院・浅野 長武(あさの ながたけ)公の従者を務めていました。

安芸源氏の時代から毛利時代を経て浅野家に仕えるまでは、いろいろ紆余曲折があったようですが、それは話しが逸れてしまうので機会があれば・・・・と、言うことで。

祖母方は陸軍・海軍の将校を多数勤める名門・多田家の出。


戦前戦中と戦後において、その価値観を根底から覆された、多くの当事者の1人でもありました。

戦前の華やかな時代に女学生として暮し、縁談で嫁として来た後、長武公に仕える義父と夫(曾祖父と祖父)と一緒に、東京で暮らしました。

東京大学の赤門付近に、住居を構えていたそうです。

祖母の人生は、嫁に来た家を守るため、ひたすら守るためのものだったと、生前に言っていました。


広島へ帰って来たため、東京大空襲は避けられたものの、8月6日に原爆の投下された8時15分には家の中で被爆しましたが、身体中にガラスの破片が突き刺さり、血まみれだったそうです。

その時に同じく家にいたのは、義父と義母(曾祖父と曾祖母)に長女(叔母)でした。

長女は祖母のすぐ後ろにいたらしく、原爆が爆発した瞬間に磨りガラスがピンク色に染まり、直感的に長女に覆い被さったそうです。

その直後に衝撃波と爆風が襲って来て、家中のガラスが全て吹き飛び、家の中を暴風が吹き抜けて行きました。


家屋自体は倒壊を免れたため、静かになると我に返り、義父と義母を探しに家の中を歩いたと言っていました。

2人とも爆心地から見て、一番奥になる部屋へいたため、ドアやふすまや窓は吹き飛んでいましたが、ケガもなく呆然としていたそうです。

しばらくすると、外でも音がするようになり始め、様子を見に出てみると。

グランドゼロとなる島外科から、約4~5km離れているので、近隣の家屋も倒壊は免れてはいましたが、被害程度はまちまちで、屋根の瓦は爆心地側は全て剥ぎ取られていたそうです。


山陽本線はまだ非電化でしたが、どこから飛んで来たのか分からない様々な物が散乱していて、線路は埋まっていました。

宮島線は架線柱が立っている物もありましたが、所々はなぎ倒されており、架線も線路へ垂れ下がったり這っていたりしていましたが、送電設備そのものが破壊されているので、漏電などは無かったようです。

家の裏手に建っている鷺森神社も、大きな損傷を受けていたそうですが、倒壊はしていなかったとのこと。

しかし、衝撃波と爆風が襲った瞬間に外へいた人は、みんな重症だったそうです。


多くの人が、血まみれで倒れていた・・・・との話しは、今でも草津踏切や仙洞踏切、鷺森神社の境内から列車の写真を撮る度に、リアル感を以て思い出します。

ちなみに長男(父)は草津八幡宮へ疎開しており、八幡宮の境内で被爆しました。

はたして、長女(叔母)は当時言われていた通り、ピカが伝染って亡くなったのでしょうか。

それとも、爆風が運んで来た放射能に、幼い体が耐えられなかったのでしょうか。


それは永遠に分かりません。

亡くなったのは前記の通り昭和20年ですが、名簿の登録が始まった昭和27年に、その名前は記載され、現在は祖父・祖母・母・兄(曾祖父・曾祖母・祖母・父)と一緒に、原爆死没者慰霊碑に納められています。

その他の大勢の核兵器犠牲者と共に。

『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから....』


6日は広島の平和記念日、今日は長崎の平和祈念日ということで、原爆にまつわる話題をしました。

毎年、8月前半はこういった記事をUPしていますが、今年からは被爆者から私が聞いた話しを、毎年1つUPしようと思いました。

とりとめの無い文体となってしまいましたが、初回は祖母と叔母の話しにしてみました。

私が残せるもの。


それは体験記など資料や書籍に比べると、ほとんど無いに等しいほど微少なもの。

それでも、誰かが目を通してくれたなら、それも亡くなった人たちへの供養だと思いました。

今年の広島平和宣言は、また後日にUPします。

で、話しは変わるのですけど。


アルキメデスの大戦は、TVCMでドキュメンタリーチックなナレーションが流れていますが、れっきとしたフィクションです。

フィクションではありますが、非常に大きなエポックメイキング的な、価値のある作品だと思います。

何かを成す時には、必ず予算が必要になり、今まで論じられなかった、別の視点から歴史を考えるきっかけになるのかも知れません。

そもそも、戦争が起きる時、優秀な兵器があるから、戦争をしようと思う訳ではありません。


戦争はあくまで外交カードの1枚に過ぎず、軍部の暴走だけで戦争になる訳でもありません。

そこには世論も味方し、国家予算も組まれなければ、国と国との戦いに発展することはありません。

ノンフィクションを基にした2011年の映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』と、併せて味わいたい作品です。

なぜ、日本はあの時代に、戦争をしなければならなかったのか・・・・深く考えたい令和の新時代です。

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ広島ブログ
どくしゃになってね…ペタしてね
お役に立ちましたら応援をお願い致します
ブログトップページ