充実感とは何かということですが、

これは感覚的なことなので、よくわかりません。

目の前の人が「充実している」といえば、

私はそうとらえますし、「充実している」

という割にはネガティブな話が多いと、

その人は無理をしているなと考えます。


まず、お金と充実に関してはっきりさせておきたいのが、

充実している=お金がある状態とは違います。

むしろ、対極になると思った方が良いのではないかと

考えます。これは多くの人の頭を困惑させてしまうかもしれません。


例えば、一流企業で一流の給料をもらっている人が

人間関係の悪化で仕事を辞めたいと思ったとします。

これは、職場に充実感がないからですね。


借金生活でとび職をしている方が、

「現場ではなくて、専務になってほしい」

と社長から昇進を誘われ「いいえ、僕は現場に幸せを

感じていますので、お断りします」と答えている

としたら、その方の日々は充実感でいっぱいでしょう。

借金の苦痛より、やりたいことがやれている充実感の方が

勝っているからです。


お金は、時として人が本当にやりたいことを

する時、それを妨げる魔女的働きをします。


充実とは、お金に左右されない要素から成り立っているのです。

「金銭の正当な対価」と混同されがちですが、

仕事から正当な対価をもらっていても、娘がグレて

父が鬱になり、帰宅しては妻が飲んだくれている状態では

充実した毎日とは言えないのではないでしょうか?


天職だと思った仕事が歌手で、多くの人が聞いてくれ、

それに見合った収入、地位が与えられても、

プライベートが寂しいものだと辛いでしょう。


逆に今プライベートがどんなに充実していても、

正当な対価無しにはそれが続きません。

人は生きている限り、生産し、消費していくのですから。


次はお金と精神のバランスについて書いていきます。



前回、金銭的に正当な対価について触れましたが、

これはようやくすると、「頑張った分だけのお金がほしい」

という欲求です。


人は、経済的に豊かな暮らしをしたいと思うのが普通なので、

その正当な対価が得られている状態で、「お金がない」

というのは通常あり得ません。


高級服をたくさん買ったり「あれもこれも」と大人買いをする行為は、

仏教的観点から言わせるとダメなのでしょうが、

私は、そこまでの人徳者でもありませんし、

お金は使わないとただの紙切れなので、

色んな物が欲しいという欲求は悪くないと考えます。


しかし、度が過ぎた購入も全て「自分への正当な対価(ご褒美」

となってしまいます。つきつめれば、私もしくはあなたが、

「頑張ったんだから買ってもいい」と思うからその行為が成り立つのです。

どれだけ好きな物が目の前にあっても「これを買ったら生活していけない」

と心の底から思ったら買いません。買えません。

沢山買ったら、自分が必要とするお金が増えるので、

給料を増やさなければなりません。だから一生懸命働く。

これによって個々の正当な対価が段々と上がっていき、

社会的に見れば、経済が潤っていくのです。

日本の高度成長期を支えていた精神は様々ですが、

個人レベルを突き詰めるとあながち外れていないはずです。


さて、高度成長期時には、食べること、住むことの確保が

そのまま精神的な充実感を与えていました。

しかし今、生まれながらにして食あり家あり水洗トイレありの

物質で満たされた社会では、新たな充実感を求めなければいけません。


正当な対価を得ても、使う先が無い、家に引きこもってカドで体操座りを

しているような毎日だと、幸せとは言い難いです。


日本人の10人に1人、9、8、7人に1人は鬱だと、年が経つにつれ

鬱患者数は増えていますが、私の周りの人をみる限り、

鬱に陥っている人はもっとたくさんいるように感じます。

バリバリ仕事している人も、豪邸に暮らしている人も鬱になります。

金銭面だけでは幸せになれないことを物語っています。


よく心療内科だとかメンタルクリニックに通っている人の相談を受けますが、

私は極力勧めません。鬱が起こるのは、日々の生活の中に「充実感」

が無いからであり、「充実感」があれば発生しないからです。

病院に行くことに充実感を見いだせればそれにこしたことはありませんが、

「治す」または「うまく付き合っていく」ことを目的とした場所なので、

「充実感」を探そう、持とう、という場所ではないからです。


では充実感とは何か、ということを次回書いていきます。

幸せを構成する金銭的な要素として

何故「有り余るお金」ではなく「正当な対価」なのでしょう。


まず第一に、すごいお金持ちになりたい!と思ってる人は、普通はそれだけの仕事をします。

何もせず、食って寝て起きたら毎日100万が口座に入ってきたらどうでしょうか?

最初は嬉しいかもしれません、欲しいもの買って、家族に分け、

恋人なんかもできちゃったりするかもしれません。

しかし、「納得感」は得られないはずです。

どう考えたって努力してないのに、打出の小づちみたいに

お金が入ると、段々と後ろめたさを感じてしまうはずです。

「後で何かバチが当たらないだろうか?」


更には不安も襲ってきます。

「いつまで続くんだろう。明日からストップするんじゃないか?」

「誰にもこの事実がバレてはいけない」

という後ろめたさも湧いてくるはずです。


それは、人は自分が何かを犠牲にせず、何かを得ることに

満足できないようになっているからでしょう。


エジプトではナイル川という有難い水資源があり、

「ナイルの賜物」と言われています。

あくまでギフトの和約ですが、賜物と言われるからには、

それ相応の努力をしたのだと思います。

「水よ貯まれ」と願うたびに川ができたら

何かいい加減申し訳なくなってくるはずです。

逆に何百人で毎日毎日ひたすら祈り、

やっとのことで川をプレゼントされたら、

「神様ありがとう」と同時に「祈り続けて」

良かった、と対価を素直に受け取ることができます。

地下鉄で人がこけそうになったご老人を腕で引っ張り

助けたとしましょう。もしそのご老人が

「ありがとう。つまらんものだが、」

と1億円くれたら「助けて良かった」と素直に思えないはずです。

「マジで!」という安易な気持ちで受け取ってしまったら、

日が経つにつれ罪悪感や虚無感にさいなまれることでしょう。


ですから、お金が欲しいというのは、

何かを買いたい、ということよりも、

自分の存在意義を感じるために現れる欲求です。

人はお金を使い、正しい対価物を得ることで喜びを得ることができますが、

それよりも、自分が頑張った分だけの正しい対価としてお金を得るという、

この現象そのものに喜びを感じるのです。


次は精神的な充実感について書きます。