いんきょ。~インドがわたしの第二の故郷~

いんきょ。~インドがわたしの第二の故郷~

興味のあること:家族・無縁社会・貧困問題・歴史 好きなこと・もの:音楽・ダンス・旅・ねこ♪ ほんの小さな一歩でも、私にできることをしていきましょ。
◆Key words◆社会福祉・国際協力・教育・インド大学院留学・ICCR(インド政府奨学金)


テーマ:
インドの北東7州のひとつ、ナガランドに来ています。
州都コヒマは、高い山の上にできた都市。



今回は、大学院時代の友達メジに会いに来ました!
コヒマも千葉と同じくらい寒いです。人々はたき火や暖炉で暖を取ってます。


で、今回は歴史のお話。
いろいろ観光もしたのですが、ある意味コヒマで体験した中で一番心に残った場所なので、書かせてください。

昨日、友達とその彼氏が私を連れて行ってくれたのは、第二次世界大戦の墓地(War Cemetery)でした。

大戦中のインパール作戦は、ミャンマー側から入って、今のインドのマニプル州で主に行われたと思いますが、ナガランド州はそのマニプル州のお隣。
日本軍はここまで来ていたのです。
(私は恥ずかしながら、今回初めて知りました。)

ウィキペディアによると、こんな感じです。
***
『コヒマの戦い』
1944年4月~6月
連合国側のインド兵士を含めたイギリス軍と、日本軍約12000~15000人が三度に渡って戦闘を繰り広げた。最終的にはイギリス軍が勝利。
この戦いは、日本軍による英領インドへの侵略を阻んだものとして人々の記憶に刻まれている。

イギリスの戦没者慰霊団体が造営したコヒマの墓地には、1420体のイギリス軍の犠牲者が眠っている。
***

実際に、3人で墓地を歩いて来ました。
20~30分くらいで回れます。

私はとても写真を撮る気にはなれなかったのですが、美しい場所でした。慰霊団体によってきれいに整備されていて、ちらほら花も咲いていました。
春には花々が咲き乱れて見物だそうです。インド人や欧米人の観光客もいました。

私は行く前からメジに
『泣かないでよ。』
と言われていたのですが、一つ目のお墓を見た時から既に涙腺がゆるんでいました。

一つ一つの墓碑には、亡くなった人の名前、出身地、歳、そして家族からのメッセージなどが彫られていました。

それらを見ていると、「何千人亡くなりました」と聞くのとは違って、
誰かの息子で、夫で、父だった35歳や26歳が、
名前のあった誰かがここで命を落としたのだと思い知らされます。

中には誰なのか特定できずに、
『第二次世界大戦の兵士』
と記されたお墓もありました。

日本で沖縄のガマや資料館を見に行っても思うことですが、改めてひしひしと感じました。

二度と戦争をしてはいけない。


ちょっと、教訓めいた話になってしまいました。
ただ、ここでもう一つだけ皆さんにお見せしたいものがあります。というか、実はこれを見てもらいたくて今回の記事を書いています。



『墓地で一番大事なのはここだ』
と言って、メジの彼氏ケニーが連れて来てくれたのは、斜面に造られた墓地の一番下。
そこの記念碑にはこう書かれていました。

『故郷に帰ったら、みんなに伝えてくれ。
お前達の明日のために、私達は自分達の今日をあげたんだ。』

さすがに、メジに『もう泣いてもいい?』と聞いて泣きました。

もう二度とこんな決断を強いられる人達がいませんように。


コヒマは山の上にある都市です。
夜には空に満天の星座が、
そして地上には無数の灯がまるで星のように瞬いています。
星になった人達が、この街を彼方から見守っているのでしょうか。

 

 ※このあたりの話は、ギター奪還作戦の頃と多少日にちが前後します。

 

 さて、大学院に通い始めて1ヶ月前後。授業のある教室に(急な教室変更があったとしても!)迷子にならずに行けるようになった。けれど、1か月経ってもまだまだ悩まされていることがあった。コトバの問題だ。

 

 いちばん致命的だったのは、「なかなかみんなの言っていることが理解できない」こと。インドの二大公用語はヒンディー語と英語。(ちなみに、公用語自体は全部で22言語あるそうな。)もちろん、ヒンディーで話し始められると、私は全く理解できなかった。だから、授業以外の休み時間や食堂でのクラスメイトのヒンディー語会話には、全然付いていけなかった。

 

 それどころか…という話。大学院での授業中に使われるのは英語だ。英語は留学前に猛特訓していったので、なんとかなると思っていた…が、ならなかった。

 なぜかというと、それがインド英語と言われるヒングリッシュ(ヒンディー語なまりの英語)だから!

 インド英語は、日本の英語教材に多いアメリカ・イギリスのネイティブスピーカーたちとイントネーションがまるで違う。全く違う言語のように聞こえてしまうのだ…。

 

 例えば、ある日の授業で、先生が何度も繰り返している単語が全っ然聞き取れなかった。

「エン×◎△」としか聞こえない。私は隣に座っていた男子アブドゥルに、先生の口真似をして、

「エン×◎△?」

と聞いてみたが、似たような単語をおうむ返しにされるばかり。埒が明かないので、自分のノートを彼の方にずらして、

「スペルは?」

と言って単語の綴りを書いてもらったら…

 environment(環境)

という超簡単な単語でびっくりした。

 

 こんな風に、よく知っているはずの単語でも、インド英語マジックにかかると、たちまち異国の言葉に早変わりしてしまう。(結局、だいたいのインド英語を理解できるようになるまで、1年以上かかった。)とは言え、日本人の英語も似たようなものかもしれない。

 

 あとは、語彙に関しては自分の知識不足で知らない単語も多かったので、授業に電子辞書は必須だった。(当時のインドでは電子辞書は珍しかったらしく、同級生に「何それ、コンピューター?」とよく聞かれた。)

 ついでに言うと、いくら英語に備えたとしても、事前知識がない話題についていくのは難しい。だから、インドの社会・文化などの話は、知らない単語が出てきたらその場で聞くべし。

 

 そんなこんなで、毎日ちんぷんかんぷんな中でやっと気付いた。7月11日の日記より。

「自分は授業の中身をみんなよりだいぶ分かってないから、人より努力せなあかんのだ。」

ということで、それ以降は授業の受け方を少し変えてみた。

それまでは、授業中は先生が説明するパワーポイントの内容をノートにメモするのに必死になっていた。でも、パワポに関しては、先生にお願いしたらファイルを自分のUSBメモリにコピーさせてもらえることが分かった。また、授業によっては“moodle”という名のオンラインシステムの中にパワポのデータが入っていた。だから、授業中はメモはそこそこにして、先生の話を集中して聴いて、極力内容を理解する。そして、授業の後にパワポで復習しよう!という戦法にした。

 

 

 そしてもう一つ。コトバの壁にはもう一面あった。

それは「自分の思っていることを、英語でうまく表現できない」ということ。

 

 留学が始まって2~3ヶ月の間は、頭の中でまず日本語が出てきて、それを英訳…という流れで話していた。

 まだその段階にいた時、7月9日(月)のグループ・ラボの時間に原子力発電の話題が出た。東日本大震災と、福島の原発事故から、1年4か月後だった。

 インドのインテリ層である先生と同級生も、当然その事故のことを知っていた。そして、当時インド政府は原発を推進しつつあった。同級生の男子は「原発導入を進めるべきだ」と意見を言っていた。私は、なんとかして原発の危険性を伝えなきゃ…と思って懇願するような気持ちで先生に手を挙げた。先生は私の気持ちを汲み取ってくれたようだった。

「今、私たちが最も耳を傾けなければいけない友人がいます。」

そう言って、先生は私に発言のチャンスをくれた。教室のみんなが、私に注目する気配がする。

 

 それなのに…言葉がちゃんと出てこなかった。

「私たちは、原発を作るべきじゃありません…日本ではひどい事故がありました…」

このくらいをなんとか絞り出した。あとは頭の中を「原発は危険」とか、そんな日本語がぐるぐる回るばかりで、ちっとも合理的な理由を英語で説明できなかった。もどかしくて、悔しかった。

 

 その日の夕方、帰宅してキッチンでムクタに「今日はどんな日だった?」と聞かれた時、その授業での悔しさが込み上げてきて、インド生活で初めて泣いた。ムクタと、その時家にいたカリッサが慰めてくれて、ムクタが夕飯にパスタを作ってくれた。ありがとう…。

 

 

 ともかくも、自分の思いを英語で伝えるには、ひたすら実践あるのみだった。私の場合、ルームメイトのジョーと夜に「今日はこんなことがあってね…」という会話をしていたのが、一番の練習だった気がする。

 

 さて、13~14時のランチタイムの後、私と職員さんは学校を出発した。職員さんは、40代後半くらいの背の高いおじさん。英語はしゃべれない。私はぎこちないヒンディー語で自己紹介をした。おじさんにも名前を聞いた。(もう忘れちゃった。ごめんなさい。)

 おじさんが英語を話せず、私もヒンディー語ができなかったので、実際私たちはほとんど意思の疎通ができなかった。共通認識はたった一つ、「空港から無事にギターを取り戻してくる!」だった。

 

 まず、空港までタクシーを使うことにした。その時点で既にコミュニケーションに失敗した。学校の近くのタクシーのたまり場で、おじさんは私に

「AC?」

と聞いた。エアコン付きタクシーのことだ。ムンバイにはエアコン付きのタクシーとエアコンなしのがある。エアコン付きの方が料金が高めで、台数も少なめ。

「オーケー。」

本当は全然オーケーじゃなかった。私は冷房は苦手だ。でも、その時まだ私は「断れない日本人」だった。寒くなったら切ってもらえばいいと思っていた。そして、AC付きタクシーの方が値段が高いと言うのもなんとなく知っていたけど、そこまで高くないだろうと油断していた。

 

 ともかくも、青い車体のAC付きタクシーで出発。大学院から空港までは車で約1時間の道のり。結局、冷房は車内が冷え切って『もうだめ、これ以上耐えられない…』と言う限界まで我慢して、「寒い!」と言って切ってもらった。

 15時少し前。手紙にあった受付時間ギリギリになって、タクシーは空港の貨物オフィスに到着。気になるタクシーの料金は…650ルピー!!!(約1040円)

 日本人のみなさんには、『なんだ、安いじゃん』と思われるかもしれない。でもこれは、当時1日100~200ルピーで生活していた私にとって、たいへんな高額だった。『ACタクシーにはもう金輪際乗らない』…そう固く心に誓った。

 で、着いたその1か所目は間違いだった。オフィスで手紙を見せると、別の場所に行けと言われた。おじさんと私はそこからオートリキシャに10分くらい乗って、本当の目的地に着いた。

 

 

 その建物は、赤と黄色のインド郵便局の看板の付いた、薄暗くて陰険な雰囲気のところだった。なんだかんだで時間はもう16時前。

 私たちは案内されて3階のオフィスに行った。そこは棚だらけで入り組んでいるものの、かなり奥行きのありそうな部屋だった。棚という棚にはラベルの付いた大小さまざまの荷物が無造作に詰め込まれていた。その棚に囲まれるようにして、古びた小さな木の机があって、サリーを着た小柄なおばあちゃんが座っていた。

 

 まずは、一緒に行ってくれたおじさんが手紙を見せながらおばあちゃんに事情を説明してくれる。現地の言葉が分からない私は、荷物の山を眺めながら『このどこかに、私のギターがあるんだ…」と思いを馳せていた。

 ところが、サリーのおばあちゃんがやおら英語で私に言い放った。全部は聞き取れなかったけれど、要は「取扱時間も過ぎているし、今日はできない」ということだった。

 

 なんですって!?冗談じゃない。時間を過ぎたのは、正確なオフィスの位置を手紙で示さなかった郵便局側にも落ち度があったし、授業を抜けてはるばる1時間以上かけてここまで来て、手ぶらで帰るわけにはいかなかった。私は半ばぶち切れて声を上げた。

「私には、今日しかないんです!授業があるから、もう来れません!私は今自分のギターが欲しいんです!」

…みたいなことを英語でまくしたてた。そして、勝手にその周りの棚を探し始めた。

 すると、そこの職員のお兄さんに止められた。けれど、どうやらこちらの切迫した状況が通じたらしく、奥の方から私のギターを運んできてくれた!『なんだ、やればできるじゃん!』(心の声)

 

 今度は、サリーのおばあちゃんが「ここで開いて中身を見ないといけない」とのたまう。もはや、どうにでもなれ、という気分だった。その場にいた郵便局のお兄さん・おじさんたちと一緒に、父が厳重に梱包してくれた段ボールを開く。果たして、ギターは弦も切れずに無事な姿で出てきた。ホッとしたのも束の間、ケイティ・マムが危惧したようにここで余分なお金を払わされるのでは…と少し緊張した。

 おばあちゃんはしげしげとギターを見つめている。ケースの底には、クリアファイルに入った楽譜も入れてあった。

おばあちゃん「これが楽譜ね?」

私「そうです」

おばあちゃん「あれは?あの弾く時の小さいやつは?」

ん?ピックのことかな?クリアファイルの中に一緒にあったはず…なんでそんなものが見たいんだろう?あ、発見。

私「これ?」

おばあちゃん「そう、それよ」

 

 それから、おばあちゃんは言った。

「私は、このギターが新品かどうか調べていたの。新品だと関税がかかるからね。でもこれはあなたのギターだわ。あなたはお金を払う必要ありません。」

ピックを見るまで中古品か新品か判断できないなんて…。そもそも、私のギターは何年も前に友達からもらった年代物だ。楽器が届く度に、ここの人たちはこんなあほなやり取りをくり返しているのだろうか。

 

 ともかくも、私は安堵してギターを抱えて帰ろうとした。その瞬間におばあちゃんの一言。

「今は渡せないわ。私たちがあなたの家まで送ります」

はぁ~?この期に及んで?そもそも、取りに来いって意味じゃなかったの?今ここで私が持って帰った方が、あなたたちも楽なんじゃないの?…と思いつつも、もう従うことにした。最後まで思い通りにならないギター救出劇だった。

 

 そこからの帰路は、オートリキシャにした。料金は150ルピー(約240円)だった。所要時間も、タクシーと大して変わらなかった。オートの中で横から入ってくる風にびゅんびゅん吹かれながら、「ふざけろインド!」と心の中で叫んでいた。

 ちなみに、ギターは翌日には家に届いた。やればできるじゃん…。その2日後が、始めにゲストハウスでルームメイトだったネパール人のタラのお誕生日だった。学校にギターを持って行って、ハッピーバースデーを弾いた。

 

(オートリキシャの座席からの眺め。今回の話とは別の時に撮ったもの。たぶん、このリキシャドライバーのお兄ちゃんは、NO SMOKING 禁煙と書きたかったんだと思う。)

 

 

 7月6日(金)夕方。学校から家に帰った私を待っていたのは、1箱の段ボール。

東京の実家からはるばる海を越えてやってきた、家族からの救援物資だ!ありがと~(^ヮ^)♪

 

 今回の便はもともと、インドで落ち着く先が決まったら送ってもらうように、家族に頼んでいたもの。中身は服やインスタントみそ汁、好きなお菓子(カントリーマアム)。そして、インドに来てから『あ!これも持ってくるんだった~。』と思った細かな物(ハンドタオルとか)も、発送してもらう前にメールでお願いしてあった。さらに、大家さん夫婦が欲しがった日本のお守り。(父が近くの神社で買って入れてくれた。)

 

 私の場合、救援物資はだいたい3~4か月に1回お願いして送ってもらっていた。(それと、こっちの秋休みに家族がインドに来たときにも、手荷物で物資を運んでもらった。ほんとに、感謝…。)送り方は、郵便局のEMS(国際スピード郵便)という方法。送料は段ボール1箱でだいたい8000円~1万円。今回は7月3日(火)に東京から発送してもらって、3日間でムンバイに到着。便利ですね。

 

 よく送ってもらったのは、お菓子・インスタントみそ汁・食べるいりこ(カルシウムの摂取源)・うどん・パスタソース・ご飯のお供の佃煮など。そして、本や漫画も必需品。インドから欲しい本をアマゾンのwebサイトで購入手続きして、東京の実家に届くようにしていた。日本語の本は、インドでたまに現実逃避したいときにとっても重宝した。

 

 さて。救援物資が届いたのはいいのだけれど、この時私にはもう一つ到着を待っている物があった。

 アコースティックギターだ。私はその2年前からギターを習い始めていた。やっと少し弾けるようになったところだったので、『インドに行ってる2年間に、まったく弾かなかったら忘れてしまう…!』と思って、空輸することにしたのだ。

まず、渡航前に実家の近くのハード・オフで硬いギターケースを4000円で購入。そして、輸送中にギターの弦が切れてしまわないよう、かなり緩めておいた。次に、ギター本体をバスタオルでくるんでケースに収納。で、最後にケースの表面に養生テープを何重にもして巻いた。

 私はその状態で父に発送をお願いしたのだが、父はインドの郵便屋の仕事の質を疑って、さらにギターケースを段ボールでご丁寧に梱包した上で送ってくれた…感謝。。ちなみに、送料は約1万円。随分高いギターになってしまった。

 

 そのギターが、待てど暮らせど、来ない…。救援物資の段ボールと同じタイミングで発送してもらったのに。

 そして、運命の7月16日(月)。日本では海の日で祝日だったが、インドでは関係なし。その日は初めてフィールドワーク(NGOのインターン)に行った日だった。

 家に帰ってくると、私宛てに1通のボロいお手紙が。よれよれの封筒に、ところどころインクがかすれて英文がタイプされた手紙。はじめは要領もつかめなくて、大したことないかと思って見ていたが、よくよく注意して読むとこんな内容だった。

 

「ムンバイ国際空港××課であなたの荷物を預かっています。7月△日(既に過ぎていた)から20日(金)の朝×時から15時までの間に取りに来なさい。」

 

 これって、ずっと待っていた私のギターのことでは!?それにしても、なんで届けてくれずに来いと言われたのかが全くもって意味不明だ。しかも、預かり期間が終わりかけた頃に通知が届いたのも気に食わない…。

 

 翌日の火曜日も私はフィールドワークがあって、空港まで行きようがなかった。いろいろ考えてみて、18日(水)の午後の授業を抜け出して行くことにした。と言っても、水曜午後の「基礎コース」は出欠チェックが厳しい。まず先生に事情を説明しなくては…。

 という事で、水曜の午前中に自分の専攻の先生に話しに行った。すると、

「それはケイティ先生に言いなさい。」

と言われ、ソーシャルワーク棟の最上階(3階)のケイティ・マムのお部屋へ行くことに。緊張。

 

 ソーシャルワーク課程の重鎮のケイティ・マムは、もう結構なお歳に見えるおばあちゃん先生だ。多分60代。浅黒い肌にしわをいっぱい刻んで、いつもちょっと厳しい表情をしている。ショートのちぢれっ毛も半分以上白髪だ。重そうな体をゆっくりゆっくり運びながら歩く人だった。

 

ノックしてから、

「失礼します、ケイティ・マム…。」

「お入りー。」

ケイティ・マムは4畳くらいの研究室に私を温かく迎え入れてくれた。で、事情を説明。

 

 一通り私の話を聞いてから、マダムは言った。

「もちろんあなたは空港に行っていいわ。ただし、私はとても心配。空港であなたが職員たちにいろいろ言われて、お金を取られたりしないか。だから、学校から誰かひとり職員をあなたと一緒に行かせるわ。空港に着いたら、このギターは学校のフェスティバルで使うためのものだと言いなさい。そして、あなたは学生でお金がないと言うのよ。気を付けていってらっしゃい。」

 

 なんという優しい心遣い!私は感動した。

そして実際、ケイティ・マムは事務の人に話をして、男性の職員さんを私のお供に付けて下すった。

 さぁ、空港にギターを取り返しに行きますよ!

 

今回のコラムは、インドに渡って初めて更新したブログの記事です。荒削りですが、そのままで。

***

 

●聞いてはいたが、インドで物事を進めるのには 何かにつけ『待つ』。

ものごとは少しずつ進んでいく。

逆に、待つ時間を楽しもうということにしました。

むこうの都合で待ってるんだから、こっちも多少わがままになっていいんだと。

 

●でも、みんな親切。

困っていても、何かしらどこかしら 助けの手が差し伸べられる。

ありがたい。本当に有り難い。

 

あと、カンボジア人のRathanaも言っていたけれど、基本的に人と目が合うとにっこりする風土がある。(特に大学内) 外に出ると大都市ムンバイだから いちいち笑顔ふりまいてもいられないけれど、ご近所さんでも 都会にいる日本人が忘れてしまった、笑顔と挨拶がある。

 

●ダメもとでも言ってみよう。笑

これはインド人から学んだんでなく日本の人から出発直前に学んだんですが。

いやはや、これは得難い訓示だった。

お店でもオートリキシャ(安いタクシーみたいなもの)でも「ダメかなぁ、断られちゃうかなぁ」と思いつつも、とりあえず言ってみると、案外なんとかなったりする。駄目だったとしてもスッキリする。

これまで私はどれだけのことを 自己判断でぽしゃらせてきたのだろうか。

 

***

「待つ」

 

 

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