私の父は大正生まれの一人っ子、母は8人兄妹でした。

      父の実家は人に貸し、私たち一家は故郷から遠い地にいましたから、

      お正月や盆に帰省するのは母の実家でした。母の実家は長男夫婦である

      叔父叔母が守っていて、従弟もいました。

 

      お正月に叔父の家に帰ると、叔母が「〇〇子ちゃんたちのために

      卵をとっといたんよ。」と、家で飼っている鶏たちが産んだ卵を見せて

      くれたのです。昭和20年代の後半でしたから、卵はまだ貴重なもの。

 

      お正月には、兄弟姉妹が集まり、夜遅くまでお酒を飲み交わし、

      話に花が咲き、延々と続く宴会に、叔母の負担を子ども心に

      感じたものです。

      叔母は嫌な顔一つせず、お酒の燗をしたり、足りなくなったおかずを出したり

      夜遅くまで忙し気に身体を動かしていました。

 

      翌朝、早く起きると、もう叔母はかまどの前でご飯を炊いていて、

      「〇〇ちゃん、おはよう!よう眠れたかな。」と声をかけ、

      朝食の準備のため、まだ土間だった台所を、動き回っていました。

      おばちゃん、寝る時間があったのだろうかと、幼心に思ったものです。

 

      あの頃の長男の嫁は、夫の兄弟が集まって夜遅くまで、どんちゃん騒いでも

      それが当然であるかのように、もてなしていたのです。

 

      まあるい顔をした叔母の柔和な顔が、今も思い浮かびます。

 

      叔母は遺伝性の糖尿病をもっていて、50代迎えるとすぐに亡くなりました。

 

 

       さて、私はと言えば、長男と結婚しました。

 

     夫の実家は所謂旧家で、結婚して間もなく、舅から

     「嫁いだからには、嫁ぎ先だけの繁栄を考え、家を大事にするよう」と

     言われたときは、その真意がわからない幼い嫁でした。

     しかし、時間の経過と共にこの舅と同居は無理と、渋る夫を説き伏せ、

     実家から車で10分のところに家を建てたのです。

 

     私も跡取り娘でしたが、遠く故郷を離れた結婚でした。

 

     私は「嫁ぐ」という言葉が嫌いで、舅に反発する言葉を発したこともあり

     一層お互いの関係は微妙なものになっていったと思います。

     しかし、お正月には舅の兄弟姉妹が集まるので、手伝わないわけにはいかず、

     いい嫁としてふるまった自分がいました。

     姑も格式を大事にする人で、夫(わたしからすると、舅)の兄弟姉妹を大切にし

     よく尽くしていました。

 

 

     ではでは、我が家の長男のお嫁さんの場合、

     福岡に住む彼女は、神戸が実家で、ふだんなかなか帰省できないため

     お正月やお盆は、ちょっと我が家によって、

     昼食を共にし、そののち一人で神戸に帰ります。

     彼女の実家も、80歳を越えたお母さんと、彼女の妹さんの

     二人暮らしなので、私は彼女が実家に帰ることは納得しています。

 

 

     同性同士の結婚も認められるようになった今

     女は結婚して相手の家にはいり、そこの人になり、男の子を生み

     婚家を繁栄させるための道具のような考えは、

     今では、もはや通用しないと思われませんか?

 

     どんな形であれ、お互いが思いやりの気持ちをもっていれば

     よき家族関係が作れますよね。

 

         

 

              (柳川藩主 立花邸  釣り雛)