どの宗教でも
ほぼ似たようなことを
説いておりますけれども、
とくに
仏教の説くところは、
「温かなこころ」
ということだろうと
思うのです
中村元(はじめ)
世の中にはいろいろな宗教がございます。
それぞれ絶対のものを仰いで教えを説いております。
また、宗教のかたちはとらなくても、人間の道であるとか、あるいは体系化したイデオロギーであるとか、そういうものを説く教えがいろいろございます。
どれも自分の教えが最も尊いものであるといいます。
そこで人々は拠り所に迷うということがあるわけでして、これはお釈迦さまの時代でも同じだったと思うのです。
原始仏教聖典もいろいろございますが、なかでもスッタニパータという経典は非常に古いものだと学者は想定いたしております。
その中でこう述べております。
世の哲人たちは自分の説く教えが真理である。ほかの人の説く教えは誤っている。一人の人がそう言うと、今度は別の人が来てまた同じことを言う。自分の説くことだけが真理である。ほかの人の説くことは誤りである。
そういうことを言われますと、何に頼ったらいいのか、世の人々は※帰趨(きすう)に迷うと言うことがあるわけです。
仏教徒の方々は、仏教が当然最も優れた教えであると思っていらっしゃるし、またそのように説かれるでありましょう。
では、仏教がいろいろなことを説いている。その中でほかの宗教より以上に尊いもの、拠り所となるものは何だろうかと、そういうことが問題になるわけでございます。
私ひそかに考えますに、どの宗教でもほぼ似たようなことを説いておりますけれども、とくに仏教の説くところは、「温かなこころ」ということだろうと思うのです。
ほかの教えでも同じようなことを説かれますけれども、しかし、とくにインドから発してアジアの国々に広まり、東海のわが国に及びましたこの仏の教えにおきましては、人々に対する「温かなこころ」ということをとくに説いているように思います。
これは仏教の伝統的な言葉で申しますと「慈悲」ということですね。ここに教えの真髄が極まっているのではないかと思うのです。
思想史的あるいは哲学的な議論はいろいろなされましょうけれども、この「温かなこころ」ということは、端的にわれわれ日本人の間で理解されていると思います。
その証拠に仏像を考えてみましょう。
宗教的な像にはいろいろございまして、それぞれの民族の理想像がそこに投影されております。
わが国の祖先は理想的な姿を仏像に投影しました。
少なくとも日本人が望ましいと思う姿を、仏像に表していると思うのです。
理屈は抜きにして、仏像を拝んでおりますと、心が和やかになります。
中村元著『温かなこころ 東洋の理想』より一部引用以上