今日も、一日レッスンDay。


昨年立ち上げた目白教室も、3人の講師をお願いするまでになりました。


たくさんの生徒さんを教える中で私が日々感じていることを、めずらしく真面目に語ってみますね。


いつも真面目だと疲れるからね(笑)










●先生が見本を示したり、CDを聴いたときに、何も考えず素直に真似る人のほうが上達する。






●真似るより、理屈や言い訳が先にくる人は上手くならない。




子供はすぐ真似します。大人はまず理屈が分かってからでないと真似できない。何歳になっても白紙の自分をもっていたいですね。




●「うちの子は練習しないんですが、音楽に向いてないですか?」と聞くお母様方へ。私も自発的にやるようになったのは、高校生から。それまでは、親がコワイから義務で練習してました。子どもが練習を嫌がったときに甘やかさず、忍耐力を学ばせてあげられるのは親しかいません。プロにならなくても、習い事で身に付けた忍耐力は、成人してから必ず他の分野に生きます。






●「うちの子は全然練習しないんで叱ってください」「先生が優しいから子どもが甘えてしまって困る」・・・というお母様もいらっしゃいます。五嶋さんも、私の教育ママも同じ意見でしたが、「親が厳しくして練習した結果を先生が褒める」という親と先生の連携プレー(アメとムチ)が子どもを育てます。これが逆だと、レッスンに来るのが嫌になります。








●疑問をもち、考えること→これは、まず模倣した後のプロセスですね。この先生の言う事は正しいのかな?とか、作曲家はどんなイメージでこの曲をつくったのかな?とか、なんでココ上手く弾けないのかしら・・・?とか私も疑問だらけの子どもでした。今もかな?








●「音譜をちゃんと弾かなきゃ」という意識をもっているうちは、まだ「音楽」じゃないです。単なる「指の運動」です。どんなに完璧に弾けても、これだと聴衆を感動させられない。






趣味であっても・・・というか、趣味だからこそ、音楽の楽しさを初心者のうちから教えてあげたいです。「楽譜」は「台本」であって、「音」は「言葉」です。どんな間合いで、どんな気持ちで、どんな雰囲気で言葉(音)を発していくか・・・それはあなた次第なのです。4拍子だから、1234に当てはめて弾くとか、フォルテ(強く)って書いてあるから全部しっかり弾かないと、など枠にはまった概念から解き放たれなくてはいけません。








●日本の音楽教育は、大学・オーケストラなど組織の枠内での音楽作りというものに捕らわれる傾向が強いと思う。人と違った風に弾くこと、楽譜と違った風に弾くことを恐れすぎです。コンクールの弊害でしょうか。






お客様ありきの現場主義の先生、エンターティメントとは何か?(大衆に媚びることではありませんよ)という自由な発想を教える先生達、音楽家がもっと増えないと、日本の音楽シーンはつまらないものになってしまうという危機感をおぼえます。






海外の先生方は、正確に弾くことよりも、自分の音を味わうことを教えます。


自分が心の耳で聴いてない音は、人にも伝わらないから。




ウィーンフィルと、モーツアルトのハープ&フルート協奏曲を共演したとき、メンバーたちが皆、本番中に笑いながら弾いていて驚きました。モーツアルトが楽しくてしかたない・・・のだそうです。外国かぶれしているつもりはないですが、モーツアルトに真面目に取り組む日本の教育・・・と大きな差を感じました。








●ハープに限らず他の楽器の生徒さん(今日もチェリストから・・・)、しかも音大生やプロの方々からも相談される事が多いので、おこがましいようですが、思ったことを正直に書いてみました。






皆さん、楽譜に記しきれない作曲家の想いを汲み取ってみましょう!






弱い音、柔らかい音、消えていく音、非現実的な音・・・・そういう音も立派な主張であることを忘れていませんか?影(弱音)をつくらないと、光(強音)も意味を成しません。






音には方向性があります。どの角度で、どれくらいの距離で、どのタイミングで手を離すのか・・・・音たちは皆ちがう個性をもっています。ひとくくりに同じように弾いてしまうと可哀想です。。。






ドミノ倒しのように、ひとつの音の方向性が、次の音の方向性を決めていきます。






それは、本当に即興的で、自由で、スリリングな作業です。






その、無限の可能性に気がついてください。








そして、あなただけの世界を、私たちに見せてください!!