出羽庄内藩の山村に遺された御用留を読む(初心者の古文書) -4ページ目

出羽庄内藩の山村に遺された御用留を読む(初心者の古文書)

羽州庄内藩の小さな山村(山形県鶴岡市山五十川)に遺された御用留を古文書の初心者が読み解く趣味のブログです。 御用留とはお上から出された達し書きを村方で写し取って一冊の文書綴りにしたもの。幕末(元治元年=1864年)の動乱期、揺れ動く庄内藩の様子が垣間見えます。

初心者の古文書;一緒に楽しみませんか

蕨野村(現鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]文久4年(正月)8番目のお達し
                     (1864年)

ご城内のお稲荷様のご祭礼。領内の下々の者達にお参りを許す、と誠にありがたいお知らせです

毎年初午(はつうま)はお稲荷様の御祭禮。 鶴ヶ城内にお祀りされた稲荷神社に領内の老若男女全ての者に参詣を許す  ・・・・とのことです。

しかしながら、実俣村&蕨野村からは峠を3つばかり越えて20KM以上もあります。
ご利益は頂戴したいが、ちょっと遠いし・・・・・。
行ぐべきだろか??? どうしたらええがのーー!!


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     庄内藩酒井氏の居城 「鶴ヶ岡城」  二の丸 右下隅に稲荷神社

                     
< 御用留 本文 >

●1; 庄内藩庁の大納戸が公布したお達し

      
當年初午二月十日ゟ十一日
御城内稲荷御宮御祭礼被 仰出郷中
信心之者老若男女参詣御免被仰出候
右之通寄々申通候様被仰出候
   子正月      大納戸

●2; 大納戸のお触れを代官から温海組庄屋に発したお達し

右之通十蔵殿御達之旨御沙汰ニ候間村々江
不洩様可被申達候右申達候順達留ゟ可被相返候
                      以上
   正月十九日            茂兵衛
                    金右衛門
  吉兵衛門殿


< 現代語訳にチャレンジ・・・・ >
 
●1; 庄内藩庁の大納戸が公布したお達し 

        
当年、初午にあたる2月10日より11日は鶴ヶ岡ご城内の稲荷神社にて御祭礼が執り行われる。
領内の信心篤い老若男女に参詣のお許しが出ました。
皆々、集って参詣するように、との仰せです。
    文久4年正月        大納戸

●2; 大納戸のお触れを代官から温海組大庄屋に発したお達し

右の通り十蔵殿からのお達しであるから、との指示なので配下の村々へ洩れなく伝達してもらいたい。 なお、この回状は村々を回付後、最終の村から当方へ返却すること。
   文久4年正月19日          茂兵衛
                      金右衛門
   吉兵衛殿

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< 考察してみましょう >

 鶴ヶ岡城内の稲荷神社について

学生時代は全く目にもとまらなかったお稲荷様ですが、今こうして調べてみるとなかなか由緒ある神社のようです。
創建は宝永5年(1708年)、鶴ヶ岡城内に鎮座する神社でお城時代の唯一の建築物とのこと。
六代藩主酒井忠真(ただざね)公が、城内鎮守として社殿を建立された由。

 明治に入りお城の御殿その他の施設は取り壊されたが一般民衆の崇敬が厚かったため廃社を免れた、と鶴岡市の観光案内に記載されているが、この御用留に初午(はつうま)の御祭礼の折、全ての領民に参詣を許し多くの信心を集めたことが記されているのでこのことは間違いない事実でしょう。
庄内地区の 商売繁盛・五穀豊穣に大きなご利益をもたらしたことは疑う余地もありません。

それにしても、小生が早くにその存在に気づいてお参りしていたならば、今頃は相当なお金持ちになっていたであろうと思うと甚だ悔やまれます。


◆ このお觸を発した「大納戸」の役回りは・・・

納戸(収納庫)を管理して衣服・器物の出し入れした役のことを云いますが、庄内藩においては稲荷神社の管理もこの大納戸役が行っていたのでしょう。
文中の十蔵殿とは、苗字はわかりませんが、この時分の大納戸役の責任者であったのかもしれません。

お稲荷さん参詣のお許しに関する御触れは庄内一円全ての村々に届けられたようですが、領域は南北95KM、東西35KMに及ぶので ”皆々、集って参詣しても良い” とは言われても、実際に参詣できたのはご城下の町とその周辺地域に限られることになったのではないでしょうか。

 藩庁のお役人、茂兵衛・金右衛門のこと

当時、庄内藩における領国支配の流れは
  郡代 ⇒ 郡奉行 ⇒ 代官 ⇒ 大庄屋 ⇒ 肝煎り ⇒ 添役
になっていたようです。

大庄屋本間吉兵衛に宛てたこのお達しには発信人として茂兵衛・金右衛門と2名連記になっていますが、前者は白石茂兵衛、後者は細井金右衛門と云い上級家臣である家中の一員でこの時期山浜通担当の代官を勤めていました。

代官は領国支配の行政区分である5つの ”通” に夫々2名づつ置かれたということです。 


< 古文書 御用留 >

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[実俣村(鶴岡市山五十川)の御用留] 文久4年正月7番目のお達し

幕末、徐々に治安が乱れ浪人共が我がもの顔にやりたい放題を始めたようです。


東北の小さな山村にも天下動乱の模様が伝えられてきました。

お達しには、水戸浪士とか新徴組とか幕末の歴史書でお馴染みの言葉も見受けられ、次第に世情は荒れ模様になってきた様子が分かります。
怪しく立ち回る浪人どもを厳しく取締るようにとの幕府からのお達しで、命令に従えば罪を許したり手助けもするが、抵抗すれば切り殺しても構わない、・・・・とのこと。
江戸への出入りについても関所で厳しくチェックし、身元を証明する書面を持たない者は通さない、・・・との大変厳しい措置も伝えられています。

上洛によって将軍が留守になる江戸の町、治安維持に最大限の対応をとらないと非常に危ない状況になってきた、ということなのでしょう。

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< 御用留の本文 >

●1; 温海組庄屋本間吉兵衛から実俣村肝煎に宛てたお達しの表書き

別紙写之通御達有之候間各得其意
不洩様可被申達候右申達候早々
順達留ゟ不相返候已上
   正月二十三日      吉兵衛
 肝煎 治朗右衛門殿

●2; 老中(?)から大目付に出され、そして庄内藩へと発せられたお達し

    大目付江
近頃浪人共水戸浪人或者新徴
抔と唱へ所々身元宜もの共江攘夷
之儀を口実ニ無心申掛其余公事
出入等ニ携彼是申滅し金子為指出
候類有之候所追々増長及ひ猥ニ
勅命抔と申觸し直々農民を徒党
引込候類も有之哉ニ相聞へ今般
御上洛被 仰出候折柄難捨置依之
以来御料私領村々申合置帯刀いたし
居候共浪人体ニ而怪敷見請候分ハ無
用捨召捕手向いたし候ハハ切殺候共
不苦旨被 仰出候間悪事ニ不携
もの共ハ早々旧主江帰参之儀相願神
妙ニ奉公可致若悪事ニたつさわり
或者子細有之旧主へ難立戻分者
有躰ニ可訴出候其始末ニ応じ罪を
免し又ハ難儀不相成様取計可遣
万石以上以下とも用向有之家来
旅行為致候ハハ其度々吃度道中
奉行江相達先觸差出孰茂此程
相達候通調印之書付を以関所、関所ニ
相通し万一先觸不差出旅行いたし
或者旧主へ帰参も不致被召捕候節ニ
至り手向いたし被切殺候ハハ其身
之不念ニ候間其旨可存候
右之趣板札ニ認御料私領宿村高
札場或ハ村役人宅前ニ当分掛置候
様可被相觸候
  亥十二月



<現代訳から始めましょう>

このお達しは将軍が上洛するにあたり日本全国、幕府領、大名領にかかわらず全てを対象に発布されたものと思われます。
少々長文なので先ずは ”御用留” の当該部分を現代文で著わしてみます。

●1; 温海組大庄屋本間吉兵衛門から実俣村の肝煎に宛てたお達しの表書

別紙写しのとおりお達しがあったので各位その内容を洩れなく徹底すること。 本書は早急に回付するものとするが大庄屋宛に戻す必要はない。

●2; 老中(?)から大目付へ、そして庄内藩へと発せられたお達しの写し

近頃、浪人達が水戸浪士であるとか新徴組であるとか自称して金持ちの家に押しかけ攘夷のためであるとの口実をもって金をせしめ、更には私的なもめ事に介入しては金を出させるようなことをしている。
しかも、これがますますエスカレートし天皇からの命令であるなどとみだりに言いふらしながら農民を自分たちの一団に引き込んでいるとの風聞も聞かれる。
今般、将軍家茂公ご上洛にあたりこのような状態を放置したままにしておくことはできない。
従って、幕府の直轄領、各大名領にかかわらず各村々協力し、例え腰に刀を差していようとも怪しく見受けられる浪人どもについては容赦なく召捕る(逮捕)こと。
召捕(逮捕)の際、抵抗するようであれば切り殺しても構わない。
ただ、これらの者達が悪事に加わっていなければ、早々に元の主人のところに戻り従来通り真面目に奉公に励むよう促すこと。
もし、悪事に手を染めていたり、或いは何か特別の事情があって帰参することが難しい者が有りのままに訴え出れば その内容に応じて罪をゆるし、また元の場所に戻ることが難しい者については戻れるように手助けをする。
1万石以上(大名家)、1万石以下(大名家以外)にかかわらず用件があって家来達を旅行させる場合は、その都度必ず道中奉行へ通知し先触れを差出し、更にはこの程通達した通り主人の印鑑を押した書面(旅の目的、人数、日程等々記載)を関所、関所に差出すこと。
万一、先触れを差出さず旅行したり、或いは元の主人の所へ戻らないで召捕られる際に抵抗して切殺されてもその責任は全てその身にあるのだ、ということを承知しておくこと。

以上のことについては板札に認め、幕府領・大名領にかかわらず各宿場、各村々の高札場に掲げておくこと。
高札場を持たない村については村役人宅に掲げて領民に知らしめること。
   文久3年(亥)12月


< 考察してみましょう >

 お達しの冒頭にある水戸浪士、新徴組とは・・・・

このお達しから、当時、水戸浪士や新徴組の者が、その偽者も含めて、江戸やその周辺で治安を乱し公儀を困らせていたことが分かります。

 水戸浪士
尊王攘夷の本家本元は御三家のひとつ水戸藩ということになりましょうか。
その中でもとりわけ過激な活動分子が脱藩し、安政7年(1860年)3月3日には桜田門外における大老井伊直助暗殺を実行。  歴史教科書でもおなじみですね。
それから数年後の文久3~4年頃も水戸の脱藩浪士達は偽物も加わり大儀を振りかざしながら相変わらず乱暴狼藉を働いていたのでしょう。

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                              桜田門外の変

● 新徴組 
将軍家茂公が第1回目の上洛の折その警護として募集された浪士隊が江戸にもどってから再編され幕府によって組織されたのが新徴組。
 ( 注; 江戸に戻らず京都に居残ったのが有名な近藤勇率いる新撰組)
新徴組はこの当時、、隊としての行動目的が明確になっていなかったこと給料が安かったことなどから素行の良くない者達が商家などに押しかけゆすりたかりを働いては酒食にふけっていたようです。
この後、新徴組は我が庄内藩(藩主は前述の酒井左衛門尉忠篤公)の預かりとなり江戸市中の取締にあたることになり、これから以後は秩序ある行動で治安維持にあたり江戸の人たちから喜ばれた(威圧?)ようです。

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                 新  徴  組

この後、新徴組は庄内藩の一員として戊辰戦争を戦い東北の庄内まで付き従う(庄内に来た新徴組は隊士136人、家族311人)が、結局 異郷の庄内になじめず哀れな末路を辿ることになったようです。
鶴岡市の郊外にある湯田川温泉には、当地で亡くなった隊士やその家族など20名の墓地があります。

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                               新徴組墓地


 怪しげな浪人に対し幕府は意外にも寛大な対応

このお達しを見るに、幕府は治安を乱す浪人達をただ闇雲に捕まえ処罰した訳ではなさそうです。
先ずは、悪事を働いた者であっても正直に訴え出れば内容に応じて許す、と言っているし、事情があって元の主人のもとへ戻ることが難しい者については帰れるように支援しよう、とも言っております。
切り捨てるのは最後まで抵抗する場合のみであり、その際はお達しを守らない自分自身の責任であることを承知せよ、・・・と断っています。
お達しは一見、非常に厳しそうな文言ではあるが、よくよく見ると秩序回復に向け更生や復帰を促す現実を直視した対応策であることが分かります。
意外という外ありません。

このお達しについては高札場に掲げるようにとの指示も付け加えられておりその徹底ぶりが伺い知れます。

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                               高 札 場

蕨野村そして実俣村には高札場があったとは聞いたことがないので、おそらくは肝煎宅の表にお達しの内容が書かれた木札が掲げられたのでしょう。


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< 新徴組のあらまし >

文久2年、清河八郎の案にて上洛する徳川家茂の警備の名目で浪士が集められ、江戸伝通院を出発して京に向かい壬生にて宿陣した所、清河が言を翻し、将軍の護衛の為ではなく攘夷の先鋒として浪士組を集めた旨を宣言すると、近藤勇や芹沢鴨ら一部が離反、会津藩の預かりとなり、のち新選組となる。
 残りの浪士組は幕府より「生麦事件」の影響により英国と兵端を開くかもしれないとの理由で江戸に帰ることになる。
江戸に帰った後、清川は佐々木只三郎(会津に眠る)に殺害され、残った浪士組は庄内藩御預かりという事となった。
浪士組は庄内藩預かりになる前は幕府の直接支配であって「将軍直属」の誇りがあり、直参旗本に取り上げられないまでも御家人くらいに拾い上げられれば何れにしても将軍直参の身分ではある。
それを夢見てきた浪士組の面々にとって庄内藩預かりになるということは、その夢が絶たれ、またそれまで陪臣と軽蔑してきた庄内藩士の下に立たされる事になる為、彼等にとっては我慢の出来ない屈辱で、また庄内藩としても「よそもの」である彼等と壁を作り差別した。

 庄内藩は、浪士組とは別に浪士を募り、清河系統とは別の新徴組をつくり江戸飯田町に住まわせたが、のちには当初からの浪士組も一緒に住まわせることになった。

しかし派閥を異にし、犬猿の仲であり、散乱者が後を絶たず、まもなく庄
内藩御預かりになった当時の人数のわずか4割のみとなっていた。
この新徴組を統轄するにあたり主役となったのは庄内藩の松平権十郎で、清河追慕の者を見つけ次第追い出し、新規に別の浪人を拾い上げた。
そのため新徴組は庄内藩にだけは牙を抜かれた猪のようにおとなしくなるのだが、庄内藩以外に対しては餓えた狼の如く町奉行の同心等としばしば衝突して斬り合うこともあった。
こうした新徴組の行動は江戸市民からみれば当然ながら嫌われ者、厄介者であった。

この後、新徴組は庄内藩の実働部隊として戊辰戦争の引き金となった江戸薩摩藩邸の焼き討ちに加わる。
幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜公が江戸に逃れ上野の山に謹慎すると庄内藩主酒井忠篤公は見切りをつけ国元に引き揚げるが、この時、新徴組も一緒に出羽庄内に付き従い上記の結末を迎えるのである


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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 文久4年正月)6番目のお達し

イケメンのお殿様、左衛門尉に叙任されたとの知らせ

”おめでたいお知らせ”、 各村々へしっかり伝えよ ・・・とのことですぞ!!

< 古文書 ”御用留” 本文 >

●1; 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々に宛てた添状

以回状申達候然者別紙写之通御達有之候間
厳重沙汰可被致候尤
殿様御官名被為蒙仰候儀茂承知之為
申達候右申達候早々順達留ゟ可被相返候已上
   正月二十二日         吉兵衛
 肝煎 治朗右衛門殿

        猶々本文御官名被為蒙 仰候儀
        各寺社之面々江無落入念通達可被致候
        此段申達候早々以上

●2; 藩庁から総御家中に発せられたお達し

旧臘二十五日御老中御連名御奉書至来翌二十六日
殿様田安仮
御殿江御登 営被遊候處
御叙爵被為蒙 仰御官名
左衛門尉様と御改被為遊候旨御飛脚至着
申来候此段為承知申達候已上
   子正月十五日

●3; 藩庁からのお達しを受け山浜通担当の代官茂兵衛が大庄屋に宛てた添状

右之通御觸達有之候間為承知申達候
早々順達留ゟ可相返候已上
    正月十六日       茂兵衛
  吉兵衛門殿


< 現代文にしてみましょう >

●1; 温海組庄屋から実俣村の肝煎に宛てたお達しの表書(添状) 
 
回状によって通達する。
別紙のとおりお達しが届いたのでこのことを各村内に徹底すること。
お殿様が官名を頂戴したことを領民に知らせるべく通知するものである。
早急にこの回状を各村々順送りし最終の村から当方へ返却すること。
    正月22日          吉兵衛
  肝煎 治朗右衛門殿

      猶々 本文に記載のとおりお殿様が官名を頂戴したことに
        ついて、各寺社の面々にも洩れなく念入りに伝えること。

          
●2; 藩庁から庄屋に宛てられたお達し

旧年(文久3年)の12月25日、ご老中連名にて奉書が届き、翌26日お殿様が田安の仮御殿へ
登営し官名を頂戴した。
この叙任により左衛門尉を名乗ることになった旨、飛脚をもって連絡があった。
このことを領内に知らしめるべく通知する
   文久4年(子)正月15日

右のとおり各村々へお触れ達するようにとの指示なのでこれを通知する。
早々に本状を回付し最終の庄屋から当方へ戻すこと。
     正月16日          茂兵衛
   吉兵衛殿

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              庄内藩第11代藩主酒井忠篤公


< 素人なりに考察してみましょう >

 この時に叙任された庄内藩のお殿様は・・・・
第11代藩主酒井忠篤(タダズミ)公と思われます。

それにしても、我 お殿様はかなりのイケメンですよね。
ちょっとビックリしています。

 叙任の時期、通知は・・・・ 
叙任された日の前日、12月25日に老中連名の奉書が届けられた由。

ウィキペディアによれば文久3年10月26日に従四位下、左衛門尉に叙任、とありますが、当の庄内藩が領内に回付したお達しによれば文久3年(1863年)12月26日叙任となっています。
江戸城本丸、二の丸の火事のタイミングも勘案すると叙任は12月26日と考えるのが自然かと・・・。
ウィキペディアの記事は誤りと思われます。

 奉書とは・・・・・
高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に、下位者に1度その内容を口頭などによって伝えて、下位者が自己の名義でその旨を記した文書を作成して伝達の対象者である特定者に対して発給する形式を取ったものを奉書というのだそうです。
一般には差出者が直接書いて指示命令を伝えるがこうした文書形式を直(じき)状といい、これと対になる書式であるとのこと。

今回の場合は、将軍徳川家茂が庄内藩主”酒井忠篤”に伝達する指示を老中連名による書面にして、これを酒井忠篤宛てに発行しということなのでしょう。

ちょっと難しいですね。

 田安の仮御殿とは・・・?
文久3年の11月、即ち この叙任の直前に江戸城の本丸、二の丸が火事で炎上してしまったらしい。
このため14代将軍家茂公は現在 武道館がある北の丸の田安邸に移り仮御殿としていた由。
本丸も二の丸も焼失してしまったため酒井忠篤公はこの仮御殿に召し出され叙任の儀式が執り行われたのでしょう。

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                      江戸城炎上

ところで・・・、
笑えない話ではあるが、本丸御殿も、二の丸御殿も焼けてしまった江戸城なんて ” ○○○の入らないコーヒー ”みたいですね。
文久3年のこの年、実は西の丸御殿も焼失しているので幕末には江戸城に主要な御殿が消えてしまっていたことになります。
結局、これらの御殿は再建されないまま官軍に明け渡されました。
新政府は幕府の軍資金を期待したようだが、江戸城の御金蔵が空っぽだった、といいますからこれも理解できますね。


< 古文書 御用留の原本 >

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(庄内藩山浜通担当の代官茂兵衛から温海組大庄屋吉兵衛に宛てた部分は紙面の都合で略す)

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝えられた御用留]久4年正月5番目のお達し

 怪しきよそ者は領外へ送り出せ!!

得体の知れない怪しいよそ者が御城下を徘徊しているようなので油断なく対処し領外へ送り出すように!! 
                                     ・・・・・ とのお達しです。

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<”御用留” 本文>

●1; 
此節他所入込□□之乞食之趣ニ付而ハ郷方江
立廻候者も送出方別紙写之通御沙汰ニ付
各扱下村々江厳重可申渡候此段申達候
早々順達留ゟ可被相返候已上
   十二月晦日       加藤文内
  本間吉兵衛門殿

●2;
此節他所ゟ含躰之者入込
御城下徘徊致候趣ニ付無油断差心得前々之通
送出之儀早々可致沙汰旨両御町奉行江申達
候間郷方立廻候者之儀も同様送出候様
送出方宜敷可致沙汰旨平右衛門殿御沙汰
ニ付此段申達候宜被成御沙汰候已上
  十二月二十九日     石原織人


< 現代文に置き換えれば・・・>

●1; 庄内藩の役所から温海組庄屋へ宛てたお達しの表書き

最近、領外のよそ者と思われる者が入り込んできており、この者達が在方の村々へ立ち回った場合は領外へ送り出すようにとの指示である。
各庄屋は配下の村々へこのことを厳重に支持すること。
なお、この書面は早急に回付し最終の者から当方へ戻すこと。
    12月30日           加藤文内
  本間吉兵衛殿

●2; 庄内藩の役所内における指示書

最近、得体の知れぬよそ者が入り込みご城下を徘徊していることについて、決して油断することなく領外に送り出すようにと以前にも指示したが、このことを改めて徹底するようにと両町奉行から再度の指示である。
在方の村々においてもこうしたよそ者が立ち回ってきた場合は同様に領外へ送り出すようにせよ、と平右衛門様からの指示なのでよろしく徹底するように。
     12月29日          石原織人



< 考察してみましょう>

◆ 怪しい者とは誰だ!!
この時期、庄内藩の領内に得体の知れぬ者が侵入し徘徊などしている、とは一体全体どんな人達であったのだろうか?    何を目的に侵入し徘徊などしているのであろうか?
浪人?、他藩から流れ出てきた乞食のごとき浮浪者?、旅芸人?、風体の記述はないけれども対策として ”領外に送り出し” と比較的穏やかな措置なので特別危険と察知されるような人達ではなかったのかもしれません。
しかしながら、領内の秩序を乱す恐れのある者達ではあったのでしょう。

 お達しが出された経緯
さて、今回のお達しは ●2 の文書が起点です。
先ずは、町奉行がご城下におけるよそ者の徘徊に留意し見付け次第領外に送り出すよう指示を発しています。  この指示が徹底されなかったのか、或いは侵入者が絶え間なく到来したのか、上記の文書は再度のお達しとして発せられたようです。
そして、この2度目の町奉行からのお達しを契機に郡奉行が配下の在方の村々へ同趣旨のお達しを出したのでしょう。
この仮説が正しければ、恐らくは平右衛門様は郡奉行か或いは郡奉行所の上級役人で、石原織人は当該部署の中・下級の役人ということになりましょうか。

更に、●1 の文書は石原織人の部下と思われる加藤文内から温海組庄屋の本間吉兵衛に宛てたお達しの表書き、という位置づけになることが分かります。

◆ 回状の取り扱い
石原織人が●2 の文書を作成したのが年末の12月29日。 
これを受けた加藤文内は翌日、 即ち 大晦日に庄屋宛の文書を発行しています。  庄屋の数だけ文書(お達し)を作成し、恐らくは当日中か 遅くとも元旦の早朝には在方に配られたものと思われます。
更に、お達しを受け取った庄屋は直ちに配下の村々の肝煎に持回った筈です。
関係者は公務といえど、年末年始に大変なことです。


< 古文書 御用留本文 >
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[蕨野村(鶴岡市山五十川)の御用留] 文久4年正月 4番目のお達

 正月から税金取り立てのお達しです。

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< 御用留本文>
 
去ル戌八月ゟ亥七月迄御馬飼料金を以
御年飼相成小物成残高銀組当
書面之通当二十三日迄無間違我等方江
上納可被致候右申達候早々以上
   正月十八日     吉兵衛
     各
 
一、金壱歩弐朱ト参百八拾四文蕨野村
右の通
   子正月
 
 
 
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<現代文にすれば・・・・>
 
正直のところ文面の言い回しについてどう理解して良いのか自信ありませんが、以下のようなことでないかと・・・・・・
 
文久2年(戌)8月より文久3年(亥)7月迄、御馬飼料としての年間経費については金銭による税(小物成;雑税で賄われているが、この残高について今月23日まで間違いなく上納すること。
以上の通り通知する。
    正月18日        吉兵衛
 
1、税の納付; 1歩2朱と384文 ・・・・・・ 蕨野村
   右の通り支払う。
    文久4年正月
 
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<考察してみましょう>
 
適切でないかもしれないが・・・・・
 
●1; 久2年8月から翌年の2月迄の1年分のお馬の飼育経費(飼料代)についてはお金で納める小物成(雑税)によって賄われていて、この税を早々に大庄屋のところへ上納するように、・・・というお達しかと思われます。
 
ここでの御馬とは街道で人や荷物の運搬に使われる駅馬であろうと推測され、この時期毎年同様の通達が成されています。
庄内藩は温海組内の温海村に駅馬を置くことを義務付けておりましたから、同組内の蕨野村にもこの馬を維持する経費(小物成=税金)を納付するようにと求めてきたのでしょう。
 
●2; この指示に対し 蕨野村としては1歩2朱と384文を支払ったとあるので、現在の貨幣価値に置き換えるならば 約 47,000円くらいかと思われます。
この時期、蕨野村の家数は40軒くらいであったようだが資産の保有状況に応じて各戸負担額を割り当てられた筈です。  
納付金は一軒あたりにすれば現在価値で1,000円余りということになりましょうか・・・? 
 
●3 お金で上納する雑税(小物成)についてはいろいろな名目で諸々あり、個別には比較的少額である場合が多かったようです。
また貧富の度合いに応じて負担額の多寡が決められていたようですが殆ど現金収入の手段を持たない貧農の者にとっては年貢の他に課せられるこの僅かばかりの税さえも上納することが困難であった、・・・・ということが他の記録に遺されています。
幕末期、庄内藩の中で特に山間地の村では多いところでは全体の2~5割くらい、当蕨野村でも1割くらいが殆ど土地を保有しない「水呑」と称す貧農(小作民)であった模様です。 
貧しい者は年貢の負担と小作料を支払うと殆ど手元には残らないため雑税(小物成)を納めるお金も時には借金で賄わざるを得ず、こうして貧しい者が年を追うごとに更に貧しくなり、これ以上貧しくなりようのないところまで貧しくなってしまうと、もうこの状態から抜け出すことは事実上不可能というのがこの時代の姿であったと考えられます。
村内の貧富の格差が非常に大きかったということですね。
基本的にこの構図は明治維新後も不変で第二次世界大戦で日本が負け占領軍が農地解放令を発するまで続いたことになりますが、本当の意味で解消されるのは経済発展が進み現金収入の道が大きく開ける昭和40年頃からかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 文久4年正月 3番目のお達し

街道での人馬継立費用(運搬費)、安くして欲しいなあ・・。 幕府領の役人なんだけど・・・。

宿場にて運送手段として人馬を頼む場合の賃料などについて、地方の幕府領の役人から公儀(幕府)に問い合わせがあり、これに対し公儀(幕府)から付札にて回答する、という形式で示されています。
 
問い合わせの趣旨は、「山伏に適用している優遇措置を私達地方勤務の幕府関係者や名字帯刀を許されている者にも適用できないでしょうか?」
これに対する幕府からの答えは、 「ダメ!!」 と、冷たく一蹴です。
 
 
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                   人馬継立 ・・・・ 問屋風景
 
ただ、本件は前々年8月付の案件であり、なぜ1年半もたった文久4年正月に地方の山村にまで回付されてきたのか分からないが、難しいことは抜きにして、先ずはオリジナルの文面を示します。
 
< ”御用留” 本文 >
 
御名領分中并御領所の者共三奉
行所ゟ御呼出之節道中人馬継立之
義寺社山伏等先触差出御定之賃
銭ニ而為継立不苦候哉
一.町在之者ハ相対払勿論之儀と奉存候得共
其内従
公儀苗字御免又者領主ゟ苗字帯
刀等差免候者も相対払之外不相成儀ニ
御座候哉
右之通兼而心得罷度此段奉伺候以上
   閏八月十九日     御名内
                  黒川市郎
右御指図之付札
  書面寺社山伏等ハ御定賃銭ニ而為継立
  不苦在町之もの共ハ縦令苗字帯刀御免
  之者ニ而も相対賃銭相払候筋ニ有之候
     閏八月
 
< 現代文に置き換えてみましょう>
 
地方の幕府領・旗本領在住の者達が、三奉行所(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)から呼び出された折、道中において荷物輸送の人馬を宿場(驛々)で調達する場合、寺社や山伏が先触れを出して頼む場合の定額料金を適用してもらってよろしいか?
一.町方の者、在方の者が街道で人馬継立を行う際に賃料が相対払い(時価相場)であるということは十分承知しているしその事に従うけれども、公儀より苗字を許されたもの、または旗本家から苗字帯刀を許された者が相対払い以外の方法で賃料を決めてはならない、ということであろうか?
以上、あらかじめ承知しておきたいのでお伺いいたします。
   閏 8月19日        御名内
                     黒川市郎 
 
問い合わせへの回答(指示)= ”伺い書の本紙に付札を貼って回答”
寺社、山伏は定められた賃料で宿場での人馬調達を行ってもよろしい。
町方、在方の者は例え苗字帯刀を許された者であっても相対払いで対応すること。
      閏 8月              
 
< 考察してみましょう >
 
●1; 人馬継立とは・・・・
当時、街道で輸送される荷物は宿場、宿場で何度も馬や人足を代えて輸送されており、このことを人馬継立と称したようです。
 
●2; 幕府領の黒川市郎が幕府宛に伺いを出した狙い、推測するに、幕府領にある者が幕府の三奉行所から呼び出されわざわざ江戸に向かう場合は人馬継立の料金を寺社・山伏が先触れによる予約料金を適用してよろしいか?・・・ということなので、恐らくは寺社・山伏へ特別に認められていた優待最安値の定額料金適用を暗に求めたものではないかと思われます。
他ならぬ幕府領の者が公儀の呼び出しを受けて江戸へ行くのだからそれくらいの配慮があって然るべきではないか、・・・ということなのでしょうか。
 
そして、町方、在方の一般人は相対払い(時々の一般相場料金)が基本ルールであることを承知しているものの苗字帯刀を許された者までもそうしなければならないでしょうか? ・・・ というのが今回の伺いのポイントのようです。
 
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              ( 苗字帯刀赦状 )

 

●3; これに対する公儀の回答は実にシンプルでつれないものです。
 
「寺社・山伏については定められた賃料でやって良し。」
「一般人は苗字帯刀を許されたものであっても相対払い(時の相場料金)が基本ルールである。」
 
●4; なぜこの時期にこの回状が回付されてきたのだろう?
 
本件の伺いと回答がなされた時期が閏8月とあります。
閏8月があった一番近いタイミングは文久二年のことになり、この時の決定事項であるとするなら、なぜ文久四年正月になって山奥の村々まで回付されてきたのだろうか・・・??
 
恐らくは、同じような問い合わせがその後も度々あったのかもしれませんね。
 
 
●5; 寺社の先触れについて
 
寺社の先触れについては原本そのものが筆者の手元にあります。
 
筆者の先祖である本間佐次郎が江戸時代後期、湯殿山注連寺の才領として先触れを行っていたようでその時の書面が複数残されています。
内容は鶴岡から会津若松までの各宿場の問屋に運搬用の馬を用意するよう事前に求める、・・・ものです。
 
因みに、湯殿山注連寺は明治の廃仏毀釈により往時の勢いは大きく削がれましたが、幕末までは湯殿山信仰の中心寺院6ヵ寺のひとつとして隆盛を誇りました。
往時の姿は知る由もありませんが現在も寺内に面影を残し鉄門海上人の即身仏を安置しておられます。
作家の森敦が当寺に滞在中小説”月山”を執筆して芥川賞を受賞したことでも知られていますね。
 
    ( 湯殿山注連寺のHP )
 
 
 
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  先觸    羽州庄内
        湯殿山注連寺才領
          本間佐次郎 (印)
 
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       覚       |     
              |
一. 本 馬  三疋    |  一. 本馬  3匹
              |
 
右者九月二十日       | 右は9月20日
五ツ時寄元出立庄内ゟ    | 8時に鶴岡市の最寄りの所から出発し
越後通り若松迄罷      | 新潟県を通り会津若松まで行きますので
通り候間宿々人馬      | 各宿場においては荷物運搬の人と馬を
無滞指出可請候以上     | 滞りなく準備願いたい。
 九月二十日        |   9月20日
   羽州庄内        |     山形県鶴岡市
    湯殿山注連寺     |      湯殿山注連寺
     役人        |       役人
      本間佐次郎(印) |        本間佐次郎(印)
               |
羽州庄内ゟ越後通       |  山形県鶴岡市から新潟県通り
会津若松迄          |  会津若松までの
  宿々問屋中        |  各宿場の問屋御中
               |
 但シ此先触之義者      |   なお、この先触の書面は
 会津高久町江留置      |   会津高久町の問屋へ保管
 可致請候以上        |   しておいて頂くようお願いします
 
 
この先触は各宿場の問屋(といや=運送の世話をしてくれる店)に本馬3匹を
提供してくれるよう依頼事項を事前に通知することを目的に出されたものです。
 
本馬(ほんま)とは一頭で30~40貫目(135~150kg)を運搬できる
頑強な馬の事を言います。
また、軽馬(からじり)という馬もあって人間が一人と手荷物5貫目(19kg)まで、荷物運搬なら本馬の半分の20貫目(75kg)までというものもありました。
 
この先触によれば注連寺では本馬3頭を手配しているので400kgくらいのかなり大量の物資を会津若松まで運んだことになりますが、果たして何を運んだんでしょうか??
湯殿山信仰が絶頂を極めていた頃の注連寺が会津若松に運ばなければならなかったものとは・・・・金塊でしょうか? 米でしょうか? ・・・全く想像がつきません。
謎であります。
 
● 先触れの保管をお願いした会津高久町について
  現在の会津若松市神指町大字高久・・・のことかと思われます。
  越後街道の会津若松市中心部まで6~7kMくらいのところにある町
  ( 会津若松と坂下宿のほぼ中間地点 )
 
 
 
 
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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 文久4年正月2番目のお達し
                   (1864年)

 将軍が上洛するので江戸の守りを厳重に!!

幕府の力が強ければ起こりえない事態が生じたようです。

雪深い山村にも幕府からの命令が届きました。

第14代将軍徳川家茂は、朝廷が兵庫開港を決めた老中2名を幕府の意向に関係なく処分したためこれに抗議すべく文久4年(1865年)1月に2度目の上洛を企図。  この上洛を行うにあたり幕府から諸国に出されたお達しです

将軍が不在となる江戸市中への出入りを特別厳重に制限する、  
もし命令に従わない者があれば ”斬る” ・・とのこと。



イメージ 6
                将軍家茂公 ご上洛
                                    


< 古文書;御用留の本文 >

5通の文書で構成される長文のお達しです。

 温海組大庄屋本間吉兵衛から配下の村々(肝煎)にあてた書面(添状)

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別紙写之通御達ニ候間各得其意村々無洩
申達以来弥以無出御判ニ而出国不致様能々
呑込罷在候様壱人立可被申達候右申達候
早々順達留ゟ可被相返候以上
   正月十八日      吉兵衛
 惣肝煎連名

● 庄内藩の代官が連名で温海組大庄屋吉兵衛にあてた書面

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別紙之通御觸達有之候間村々不洩様
可被申達候右申達候以上
   正月十二日          茂兵衛
                  金右衛門
  吉兵衛殿

  幕府の内局(将軍側近の組頭・小姓頭)から大目付にあてられたもの
   で2通の文書で構成されています。
   このお達しは、大目付から庄内藩を含む全国の御領(幕府領)、私領
   (各藩)、寺社領等へ発せられた。

その1)
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    大目付江
今度
御上洛被 仰出候ニ付而者御留主中御取
締向一際厳重可致就而者来ル十五日より
諸国関所并江戸出口宿々番所等ニ於
ゐて出入相改主人并領主地頭之書付持
参不致ものハ不通筈ニ候間万石以上之
面々ハ勿論以下ニ而も陣屋有之時々家
来往来為致候面々ハ兼而印鑑道筋
御関所等江相廻置家来往来之度々月
日人数等委細認候調印之書付可被相渡候
若海道閑道相越又者押而相通候ハハ召
捕手向いたし候者切捨いたし候筈候
一.御代官手付手代等も御代官印鑑御関所江
  廻し置前同様改可受候
一.御代官領主地頭附属ニ無之土地の寺社
  家来など其寺社印鑑兼而御関所等江
  廻し置同様改可請申候
一.御領私領寺社百姓等無拠子細有之分ハ
  其支配御代官領主地頭江申付月日
  人数等相認候調印書付申受出府
  可致候地頭家来無之小給所之百姓ハ
  最寄御代官陣屋又者私領役場江申立
  右陣屋において糺し之上支配所領
  分出行之者同様書付可相渡候
一.御供ニ而上京いたし万石以上家来出府
  いたし候儀等も有之候ハハ前々条ニ準じ
  廿日迄遠国より出府之者ニ限り関所ニ
  於て糺し之上主人領主等調印之書付
  無之分ハ在所出立日附等得と相糺し
  怪敷儀も不相聞無拠訳相立候ハハ
  其訳并何方迄相通候段書付認相渡
  江戸出口番所ニおいて為指出相通候様
  可被致候
右之通御料私領其外関所番所等有之
面々江早々可被相觸候
    月日

(その2)
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   大目付江
此程相達候江戸出口宿々御番所江指
出候印鑑之儀万石以上之面々ハ家来印
鑑万石以下ハ実印ニ無之印鑑差出間
敷尤諸国御関所江兼而印鑑差出置
候分ハ右同印相用可申且諸国関所
之儀も今度改而印鑑相廻候筈ニ付
兼而相達置候負数之外領分出行所
等江往復有之候関所ニ関所之分来ル十一日
迄御目付江可被差出候右之通万石以上
以下の面々江早々可被相達候
右之通従
公義被 仰出候間被得其意支配
有之面々ハ支配下江も可被申達候
    十二月          組頭
                 小姓頭

 庄内藩の両頭(中枢である組頭・小姓頭?)から上級家臣へ宛てられた
  ものと思われるお達し

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    惣御家中 
旧臘二十七日御軍艦ニ而
御上洛可被遊旨申来候間為承知
之申達候右ニ付面々居宅火之元別而
入念可被申付候支配有之面々ハ支配
下江可申達候
  正月十一日       両頭



< 先ずは、現代文に置き換えたところから・・・>

当時の言い回しについて分からないところがあるので正しく現代訳できたかは自信なし、ですが・・

このお達しは 将軍側近の部署(組頭・小姓頭) ⇒ 幕府(大目付) ⇒ 徳川家臣団 及び 各藩・有力寺社 ⇒ 大庄屋(組) ⇒ 肝煎(村々) の経路で流され、且つ 経由部署でそれぞれが表書(添書き)を加えていることから最終の村に到着した際のお達しは5つの書面で成り立っています。
非常に長文ですが先ずは御用留に記された順(文書は下流から上流に向かって認められている)に従って読み解くことにします。

 温海組大庄屋吉兵衛から実俣村含む配下の村々に宛てられた添状

別紙写しの通りお達しが届いたので各位お上のご意向を洩れなく村内に徹底すること。
これから江戸に旅する場合は藩の印鑑を押した書面が不可欠なのでこのことを十二分に念頭に置くように。
このことは非常に重要なので書面の回付のみならず説明のため1人を各村々へ派遣する。
この書状は速やかに村々を回付して最後の村から大庄屋宛返却すること。
    正月18日         吉兵衛
  各肝煎殿

 庄内藩の代官から配下の大庄屋に宛てられたお達し

別紙の通り幕府からお達しがあったので各村々へ洩れなく徹底すること。
   正月12日           茂兵衛
                   金右衛門
    吉兵衛殿

 将軍の側近部局(組頭、小姓頭)から大目付に出された書状(3通)

(その1)

    大目付へ
この度の将軍上洛にあたり留守となる江戸市中の取締を特段に厳重に行うこと。
就いては、来る15日より諸国の関所並びに江戸出口の宿々の番所において行う出入改めの際は主人、領主(大名)、地頭(知行地を持つ旗本など)等が発行する書面を持っていない者は通行させないことにする。
このため1万石以上の大名家の家来達は勿論のこと、1万石に満たない者であっても領内に陣屋などがあって家来達を諸国往来させる場合は、通行する最寄の関所にあらかじめ印鑑を届けておき、家来達が通行する度に当該印鑑を押した書面に旅行日月、人数、その他詳細を書き記し関所・番所に提示し改め(チェック)を受けること。
もし、関所・番所の通行を避けるように海道(船旅)、閑道(表街道でない道)を通り、更には取締にあった際 無理に通ろうとした場合は切り捨てることにしている。

一 御代官の手附、手代は御代官の印鑑を予め関所・番所に届けておき、
  通行の際は当該印鑑のある書面を前書き同様に提示し改めを受ける
  こと。  ( 対象;幕府天領の代官所の家来=士・侍身分 ) 

一 御代官(代官領)支配の幕府領、旗本領等に所属しない寺社の家来が
  通行する場合は寺社の印鑑を予め関所・番所に届けておき通行の際は
  当該印鑑のある書面を前書き同様に提示し改めを受けること。 
   ( 対象;寺社等私領の家来=士身分 )

一 幕府領、大名領、寺社支配地の百姓などが特別の事情があって旅行せ
  ざるを得ない場合は、その地を支配する御代官、領主、地頭等に申し
  出て旅の月日、人数などを認め調印した書面を貰い受けてから旅に
  出ること。
  旗本支配の家来もいない小さな支配地の百姓は近くの御代官陣屋または
  大名領の役場にき、そこで事の次第を確認してもらって前同様の書面
  を貰い受けてから旅に出ること。
   ( 対象;やむを得ない理由で旅をする一般の百姓など )

一 将軍にお供して京都に向かう大名(万石以上)家の家来が国許から出立
  する場合も前々条に準じて通行の手続きを行なうこと。
  但し、20日迄に遠国から出立する者に限っては手続時間の都合上印鑑
  を押した書面を準備することができない場合、関所での改めに対応でき
  るように出立日時、行く先、旅の目的など誰がみても怪しいと思われな
  いような内容の文書を作成し江戸出口の宿にある番所へ差出すこと。
   ( 対象;将軍にお供する大名家の家来衆=士身分 )

以上の通り大名、旗本、寺社、関所、番所等の関係者に早急に触れを出されたい。
    月日

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(その2)

    大目付へ
この程通達した江戸出口の宿々の番所へ差出す印鑑については、1万石以上の者は家来の印鑑、1万石以下の者は実印を、などこれら印鑑を差出してはならない。
諸国の関所へあらかじめ印鑑を届け出ている場合はこの印鑑と同じものを用いることとし、且は諸国の関所へ改めて印鑑を登録するにあたっては通達に基づく提出数の外、各領地まで往復する道中に存する関所の分を来る11日まで大目付へ差出す。
以上の内容を万石以上、万石以下の面々へ早々に指示すること。

上記のとおり、公儀(幕府)の意向を受け各領主(主家筋)は支配下に領内に徹底すること。
    12月           組頭
                  小姓頭


 庄内藩の両頭(中枢の組頭・小姓頭?)から藩の上級家臣に向けたと
  思われるお達し

    惣御家中へ
昨12月27日、軍艦にて将軍が上洛されることについて通知が届いたので、このことを家中に知らせるべく通達するものである。
就いては、一同居宅の火のもとに特段注意するように!!
配下の者がいる場合は、これらの支配下の人々にも火の用心を徹底すること。
    正月11日              両頭

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< 素人ながら考察してみましょう >

 このお達しが発せられたのは ・・・

① 第14代将軍徳川家茂が文久4年(1864年)1月12日に2回目の上洛を行いました。
この時、将軍が留守となる江戸市中の取締を厳重に行うべく幕府から全ての大名、旗本、寺社等々にお触れがだされた、ということですね。
この頃になると幕府の権威は相当に失墜し京都では攘夷派によるテロが頻発するなど世情は相当に不穏。
こうした情勢下、将軍不在時における江戸市中の治安に大きな不安があったのでしょう。
外様の諸大名とその配下のみならず将軍直属の代官に対してさえ江戸出入りの際は厳重に身元確認を行った模様です。

このお達しが幕府から発せられたのは文久3年12月。
その一月前の11月に庄内藩は江戸市中取締りを命じられています。

② お達しの内容は・・・・、

「江戸の出入りに際しては、あらかじめ関所に届け出た領主の印鑑と同じ印鑑を押した書面(旅の子細を記載)を提出しなければ誰であっても通さない」 という内容です。
当時の支配体制に即して細々と指示があり、もし、通行に際し書面を保持しなかったり、取締から逃れようと裏道を通ったり或いは身元改めに抵抗する者があれば切り捨てても構わない、                                       ・・・・との厳しい命令です。

③ 幕府からの指示が東北の庄内藩においても山深き小さな村を含めて領内全域で漏れなく通達されたことがこの御用留から分かります。
そして今回のお達しは特別に重大事と判断したのでしょう、・・・・温海組大庄屋の本間吉兵衛は重要なお達しなので文書の回覧だけでなく各村々へ
人を派遣して説明させるとも記しています。
もしも、配下の村々の誰かがお達しを守らず江戸へ旅立った場合、最悪切り殺されてしまうかもしれないし、そこまでにはならないとしても厳罰に処されてしまう可能性が大きいと考えたからでしょう。
情報伝達の徹底ぶりがうかがえます


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                  通行手形の事例

 この時、”火の用心”についても併せて厳命

 この時、併せて全ての家中の士(さむらい)に対し火の用心を厳命していますがこの時、敢えて”火の用心”について徹底するよう指示を出したのはなぜであろうか。

推測するに・・・・・
文久4年1月の将軍家茂公上洛直前にあたる文久3年11月に何と江戸城の本丸と二の丸が焼失しています。  そして同じこの年に実は西の丸の御殿も焼失しているのです。 
ということは、この時期、江戸城内には主要な御殿が全て無くなっていたことになります。
わずか5年前の1859(安政6)年にも本丸が焼失しすぐに再建されたが、この御殿がまたまた焼け落ちてしまった訳ですからたまりませんね。
こうした江戸城における異常とも思える火災のことが念頭にあってこうした通達が発せられたのではないでしょうか。

因みに、幕府は江戸城の主要な御殿を失ってからは北の丸の御三卿 田安邸 を仮御殿にしていて酒井忠篤公も1カ月前の12月26日にここ田安屋敷で左衛門尉に叙任されています。(当ブログ7番参照)

うがった見かたにはなりますが、将軍上洛の隠された理由として、江戸城内に住むべき御殿が無くなってしまったので一時的に京都の二条城或いは大阪城に居を移した・・・ということも一因としてあったのかもしれませんね。


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                       江戸の火事


 情報伝達の速さについて 


将軍上洛は文久4年1月12日。 
幕府からの書面には軍艦にて京都に向かわれたとあるが東海道の浜松付近を将軍自身が馬で旅している浮世絵もあります。
どちらが本当なのだろうか?

一回目の上洛が陸路で、二回目の上洛が軍艦で海路を・・・・ということなのでしょうか。

この上洛に際し、将軍留守中における江戸市中への出入りを厳重にする旨のお達しが各大名、旗本、代官、寺社等々にお触れがだされたのは、日は定かではないものの前年の12月。
そして、このお触れを受けた庄内藩の藩庁(代官)が配下の大庄屋にお達しを出したのが正月12日。
将軍上洛の出立当日に村々へ通達されたことになるが江戸から400KM離れた羽州なれば当時の情報伝達はこんなものだったかもしれませんね。

藩の指示を受け、温海組大庄屋本間吉兵衛から更に配下の村々の肝煎宛お達しを出したのが正月18日です。
当地、実俣村肝煎次郎右衛門宅には早ければ恐らく正月18日の午後か、遅くとも19日の朝迄にお達し書きが到着したと思われます。



初心者の古文書 ; 一緒に楽しみませんか

[蕨野村(鶴岡市山五十川)につたわる御用留] 文久4年(正月)1番目のお達し
                                                                 (1864年)
正月早々に ”苦竹” 8万本を調達せよ、とのこと。

正月早々にお上(庄内藩)から 緊急のお達し です。

御用留の表紙をめくると直ぐに出てきたのが 急以回状申達候・・・・」 から始まる下記の記述。
お殿様である酒井家が新しい御殿を造営するために必要となる大量の竹材を調達するとのこと・・・・、
各村々へ緊急の指示が届きました。
庄内藩は蝦夷地警備や江戸市中見回りなど厳しい任務を命じられ相当にアタフタしていた時期であったと思われるが、御殿の建設ということですからまだまだそれなりにゆとりがあったということでしょうかね。


<古文書の本文>

先ずは「御用留」原本の写しです。

筆者の先祖本間佐左エ門恵考が、蕨野村の肝煎 次郎右衛門殿に代わって書き認めたものか、趣味で書き留めたものか、それにしてもなかなかの達筆と思います。

イメージ 3


急以回状申達候此度
御新殿御普請御入用之こま以竹
にか竹大凡八万本程入用ニ付
八組江御達一組壱万本之割合を以
御買上之御沙汰ニ付組々穿鑿之上負
数伐数共取調早々書付を以御届申上
候様御郡奉行中御達ニ付各村々入念
穿鑿之上有無之訳共書付を以此状
達次第早々我等方へ可被相届候右意
御取急之御沙汰ニ付回状弐通ニ而申達候間
名下時付を以早々順達留ゟ可被相返候
                      以上
  正月十二日 早朝出ス  吉兵衛
  肝煎 次郎左衛門殿
      外連名略ス

     同月十二日夜暮六ツ半
     時過実又村ゟ相達
     拝見直様戸澤村へ差
     送同夜九ツ半時過届状
     戸沢村ゟ相達明方実又へ送


< 現代文にチャレンジ >

 文久4年正月(1864年2月)深い積雪の正月に温海組の大庄屋 本間吉兵衛から配下の村々の肝煎宛に最初に出された回状の写し書きです。

この回状は緊急のお達しである。
この度、(酒井家の)新しい御殿の造営工事にあたり壁材の ”こまい竹” にする ”にが竹” 約8万本程必要なので領内の8組に対し1組当たり1万本の割合をもって買い上げる、とのお指図である。
各組は、それぞれの地域内にある竹を詳細に調べた上で、”地域内の竹の数”、伐採できる数” を早急に書面で届出るように。
御郡奉行からの指示なので各村々は入念に調べた上で竹の有無とその状況をこの回状が届き次第急ぎ書面にして庄屋まで届け出るように!!
このお達しは特別急ぐので回状を2通作成し名下時付で出す。
この回状を速やかに各村順送りし、最後の村から大庄屋宛戻すこと。
  正月12日(西暦1864年2月19日)    吉兵衛
              早朝に出す
 肝煎 次郎右衛門殿  
    連名の外の肝煎については写なので省略

 ここまでが大庄屋から届いた回状の本文(写)。 続いてこの回状がどのように廻されたか、が記されています。  本間佐左エ門恵考がこの回状がどのように回付されたのか,メモ書きとして加えたのでしょう。

12日の夜、暮六ツ半過ぎ(午後6時過ぎ)実俣村(現鶴岡市山五十川)に回状が届き、それを拝見して次の戸沢村へ廻す。 戸沢村には夜九ツ半過ぎ(翌午前1時過ぎ)に回状が届き明け方に実俣村へ戻す。


< 内容について考えてみましょう >

1. 御殿の工事とは

庄内藩(酒井家)でこの頃に新たな御殿の工事が行われたとすると、文久3年(1863年)に11代藩主酒井忠発(さかい・ただあき)公が隠居所として建てた御隠殿のことを指すのではないかと推察されます。
現在、鶴岡市の到道博物館に玄関と奥の座敷が残されていますが筆者は残念ながら未だ中に入ったことがないのでこの”御用留”をご縁にできるだけ早い時期に訪れてみたいものです。

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到道博物館内の御隠殿


2. 御殿の工事に必要な”こまい竹”って何だろう??

こまい竹”とは”竹小舞”とも云い土壁の下地にする竹材であるとのこと。
先ずは下の写真をご覧ください。
土壁を塗り、さらに漆喰を重ねてしまうので外からは見えなくなりますが丈夫な壁を作るためには非常に重要な部材のようです。

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 こまい竹(小舞竹=竹小舞)として使用する竹の種類が”にが竹(苦竹)”ということで、これは即ち真竹のこと。
新しい御殿の規模がどの程度のものであったのかは未だ調べていないので分からないが、御用留に記されたお達しによれば8万本もの竹を必要としたということなので、これから類推するならばかなり大規模なものであった・・・・のでしょう。
温海組内12カ村で1万本を調達できたのかどうか、この御用留には結果が記載されていないので分かりません。
そしてまた、御郡奉行所は 「”にが竹”を買い取る」としていますが、一体全体どれくらいの値段だったのか、これも興味のもてるところではあるもののこれ以上の情報は記載なし、です。

 竹は平野部にはあまりなかったと思われるが全領内8つの組全部へ「にが竹(真竹)」の有無、存在している量、伐採可能数を緊急に書面で報告するよう指示を出しています。

 鶴岡市の到道博物館ホームページによれば、御隠殿は庄内藩の江戸屋敷にあったものを解体して文久3年に鶴岡城内に移築したとあるが、この御用留のこの記事がそれを指しているのであれば文久4年正月頃はまだ未完だったということかもしれませんね。

3.庄内藩の郷村支配について

にが竹の手配を8組に対して行ったとあるが、この「8組」とは具体的にはどんなことをいうのでしょう。

 出羽庄内; 庄内(酒井)藩 の御領の範囲 
      南北23里27丁(約95KM)
      東西8里36丁(約35KM)
  であり、この地域内には715の村がありました。

 [ 総村数 ; 715カ村 ] 
  (内訳) 御領( 幕府領=天領)  ・・・・72
       御私領(庄内藩支配)  ・・・・611
          (庄内支藩;松山支配)・・・40
  
   庄内藩が直接支配する村は最上川以北と以南に計611ヵ村
   で、これを下記の行政区分により統轄支配。

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 行政区分
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当御用留の中には随所に8組という記述がみられるが、この8組とは、”最上川以北の3郷と以南の5通を合わせて” ということを意味します。  即ち、庄内藩の全領地のことを指す言葉として用いられております。
郷と通の下の行政区分として ”組” があるのでちょっと紛らわしいですよね。

本間佐左エ門恵考が住む蕨野村は山浜通に属する温海組の下に連なる村になります。

 郷村支配組織

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大庄屋は現在の村・町役場に相当するような業務を行っていたものと思われます。 配下の村々の肝煎と協力し年貢の徴収を行ったり、藩からの指示を各村々に伝達したり、或いは村方からの訴え事を藩庁に取り次いだり行政全般を司っていたのではないでしょうか。
因みに、本御用留を執筆した本間佐左エ門は天保年間から大庄屋に書役(行政官)として長年勤務し膨大な文書(温海組大庄屋文書;鶴岡市資料館所蔵)を遺しています。


 温海組内の村と石高(幕末期)

温海村(湯村・釜谷坂村・暮坪村・米子村・平清水村)=499石余
実俣村  =156石余
蕨野村  =150石余
戸沢村  =192石余
小菅野代村=45石余
濱五十川村(安土村・鈴村)=355石余
一霞村  =75石余
大岩川村 =562石余
小岩川村 =360石余
堅苔沢村 =232石余
小波渡村 =63石余
  ◆ 温海組内(11カ村)の総石高 ・・・・・2690石余

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4.温海組大庄屋本間氏の出自について

温海組大庄屋本間氏の先祖は佐渡の豪族本間山城守と伝えられているそうです。
これが事実であれば・・・・・
佐渡の本間氏は鎌倉幕府の御家人で相模国がそもそもの本拠。
承久の変で功績があったことから佐渡の地頭職を与えられ、その後佐渡一円に勢力を拡大した。
戦国時代に至り越後を上杉謙信が支配していた頃はその配下として引き続き佐渡を支配し繁栄していたが、謙信が亡くなって御舘の乱が起こると佐渡も小豪族間で争いが起こり大いに乱れることになった。
上杉景勝が越後を平定すると真っ先に佐渡の鎮定に乗り出すことになった。
雑太城の本間山城守は景勝に抵抗しなかったが、結局佐渡の支配は上杉配下の直臣に任されることになった。
このため本間山城守は浪々の身となり出羽に逃れ温海に住み着いた、ということです。

本間吉兵衛の先祖は庄内が最上氏の支配当時から地域の大庄屋を勤め、酒井氏が入部後も明治に至るまで長期にわたり引き続き大庄屋として地域の尊敬対象であったということです。
大庄屋は元武士身分の者から選ばれたそうなので恐らくこの伝承は事実と思われます。

因みに、筆者の先祖も本間ではあるが本間吉兵衛家との姻戚関係はありません。 また、在所の蕨野村の住人は約半分が代々本間を名乗っているので、やはりその昔は佐渡の本間にゆかりのあるものの末裔ではないかと思っているが、・・・・・記録もなく全く分かりません。


5. 回状(お達し)の村々への廻し方について

 庄内藩庁(御郡奉行)の指示を受けて正月12日の早朝に温海村大庄屋本間吉兵衛からこの回状が発せられています。 
御殿の工事が相当に遅れていたものか、緊急扱いです。

この日は新暦に置き換えると2月19日ということになるので最も積雪が多い時期になります。 また、当時の道路はけもの道に毛の生えたような粗末なものであったと思うのでこの雪道を徒歩で持回るというのは大変難儀なことであったに違いありません。
履物は何だったのでしょうか。草鞋では耐えられないだろうしワラ沓でも履いたのであろうか? それにしても大変なことです。

 温海村の大庄屋宅から早朝に回状が発せられ、推測するに米子村⇒暮坪村⇒鈴村⇒浜五十川村⇒小菅野代村⇒安土村に届けられ、そこから川沿いに更に4KMほど上流にある実俣村へと順送りに持回られたものと思われます。
回状が蕨野村に接する隣村の実俣村へ届いたのはその日の午後6時過ぎ。
早速 蕨野村肝煎の次郎右衛門宅に回状を送り届けこれを書き写すと、3KM離れた戸沢村へ届けた、とあります。
戸沢村の肝煎宅に回状が届けられたのは何と翌13日の午前1時過ぎといいますから真冬の真夜中です。
厳冬の真夜中に叩き起こされ行燈の灯りの下、かじかむ手で回状を書き写し、すぐさま次へ廻さなければならないのですから肝煎の仕事も楽ではありませんね。
戸沢村の肝煎宅で回状が書き写され翌朝に実俣村へ戻された、と記されています。

 実俣村に戻された回状はそのまま逆ルートで大庄屋宛に返送されたのでしょう。
回状の文末に 「早々順達留ゟ可被相返候」 とあるので上記の書面は決められたルートを経て大庄屋宅(役所)に返されたことになります。
そして、今回は特別に急ぐ案件なので回状を2通作成し2ルートを経て廻す、とありますから湯村(温海温泉)、一霞村方面、或いは堅苔沢・小波渡方面には別の書面が廻されたのかもしれません。

回状を回す順番、廻し方などについては、文書の取り扱い規定により全てルールが定められていたと考えられます。

 ところで、こうした回状の取り扱いから考えてみるに当時は農村といえど識字率がかなり高かったように思われます。
お上からのお達しが書面で来て、それが回付され、書き写され、書面を以て回答する、そうした仕組みが山奥の村々まで一村残らず徹底されるためには領民の識字能力・内容の理解力等が一定水準以上に達していなければ機能しない筈です。 この御用留の後段には幕府から発せられた文書が何通もそのまま書き写され伝えられているので、東北山村の農民と云えども公儀の文書を何の問題もなく読解できたことは疑う余地もありません。
徳川時代の日本というのは本当に凄かったんですね。






  

初心者の古文書 ; 一緒に楽しみませんか

[ 蕨野村(鶴岡市山五十川)につたわる御用留]  

寛政6年(1794年)生まれの筆者の先祖、本間佐左エ門恵考が出羽庄内藩山浜通り温海組大庄屋の書役を務めたこともあって多くの文書を書き遺したと伝えられています。
今でいえば町役場職員とでもいうことになりましょうか、温海組大庄屋書役として書き記した公文書(原本)が鶴岡市郷土資料館に多数保管されていることを筆者も確認しているが、佐左エ門家にあった沢山の文書類はその後事情があって残念にも多くを散逸させ現代まで残されたものはわずかになってしまいました。
そしてまた、この古文書類は崩し字で書かれ言い回しや言葉づかい等が現代と大きく異なることもあってあまり興味を持たれることもないまま長い間倉庫にひっそり大事に仕舞われたままでした。

しかしながら、このまま虫に食われてしまってはもったいない気もするので、何が書かれているのやら引っ張り出して少しづつ読み説いてみたいと考えています。

そして、もしできることであれば、東北の小さな山村の目を通して当時の天下の情勢をいささかでも見届けることができるならばが有意義に思います。
謂わば、葦の髄から天井のシミでも見ることができたならば面白いし、小さな期待を持ちつつこの”御用留”解読にチャレンンジです。
乞う、ご期待!!

 先ずは、文久4年の「御用留」からチャレンジ!!


< 御用留とは >

江戸時代,幕府,諸藩の役所や町村の役人から示達された公用の文書(必要に応じ付け書き=メモ書き)の控え帳のことです。

最初に読み解こうと考えている”御用留”は、幕末も押し迫った文久4年(3月1日付けで元治元年に改元=1864年)に羽州庄内藩山浜通温海組蕨野村(現 山形県鶴岡市山五十川)の肝煎 次郎衛門家に届いたお上からのお達しを私の先祖本間佐左エ門恵考が代行して書き留めたものと思われます。
治郎右衛門はこの年に初めて蕨野村の肝煎に選任されたものの業務不慣れであったため過去2度にわたり肝煎を勤めた経験のある佐左エ門恵考がこれを手伝ったのでしょう。
 
当時、東北の山村にお上からどのようなことが示達され、それを領民がどのように捉えたのか大変興味がもたれます。
文久の頃になると幕府の威信が大きく失墜し世の中は激動の時代と歴史の中では捉えられていますが果たして東北の山村にどのような影響を与えたのでしょうか・・・・・・???
京都においては新選組が結成され活躍を始めた年でもあります。


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(注) ① 羽州庄内藩とは江戸時代に現山形県鶴岡市に居城を置いた酒井藩のこと
    ② 実俣村と蕨野村は現在の山形県鶴岡市山五十川



< 文久4年(元治元年)の主な出来事 >

予備知識として文久4年(元治元年)の日本がどんな時代だったのか把握しておきましょう。
御用留に記されている東北の小さな山村での出来事と対比してみるのも面白いのではないでしょうか。

1853年(嘉永6年)
     *    6月   ペリー来航  7月、プチャーチン来航
     * 11月 徳川家定 13代将軍就任
     * 江川太郎左衛門 伊豆韮山に反射炉建設
1854年(嘉永7年・安政元年)
     *    3月 日米和親条約締結   8月 日英和親条約 
       12月 日露和親条約
     * 11月 幕府、松代・庄内両藩に江戸品川台場の警衛を命ず
1855年(安政2年)
     *    2月 蝦夷地を幕府直轄とする
     *    3月 全国の寺院の鐘楼を壊し大砲鋳造を命ずる
     * 10月 安政大地震
1856年(安政3年)
     * 2月~3月 本間佐左エ門(当御用留執筆者)一行19名 
             お伊勢参り
1857年(安政4年)
     *  5月 唐人お吉、米国総領事ハリスのもとへ奉公に
     * 10月 米国総領事ハリス、江戸城にて将軍徳川家定に謁見
1858年(安政5年)
     *  2月  江戸大火  約12万戸焼失
     *  4月  井伊直弼 大老就任
            日米修交通商条約締結、 英国、ロシア、オランダと
            通商 条約締結
     *  9月 安政の大獄始まる(梅田雲浜逮捕)
     *  10月 徳川家茂 14代将軍になる
18559年(安政6年)
     *  6月 幕府、外国貿易・武器輸入を認める
     *  9月 幕府、会津、秋田、荘内、盛岡、弘前の5藩に命じ蝦夷地
           の開墾を命ず
1860年(万延元年)
     *  1月  咸臨丸 米国へ向け出港
     *  3月  桜田門外の変 井伊直弼暗殺
     * 12月  米国書記官ヒュースケン、江戸赤羽にて清川八郎らに
            襲われ殺害される
1861年(文久元年)
     *  5月  水戸浪士等、品川東漸寺の英国公使を襲撃
1862年(文久2年)
     *  2月  和宮、将軍徳川家茂へ御降家
     *  4月  京都 寺田屋事件
     *  8月  生麦事件(薩摩の島津久光の行列が、英国人を斬棄てる)
1863年(文久3年)
     *  2月  京都市の壬生村にて近藤勇・土方歳三・芹沢鴨・清川八郎
            等250余名が京都市中の警備に当る 
                     ( 後に新撰組と改称 )
     *  4月  幕府 京都から江戸到着の浪士組を新懲組とし庄内藩に
            預ける
     *  7月  薩英戦争
     *  9月  新選組、芹沢鴨に代わって近藤勇が局長になる
     * 10月  庄内藩等、13藩に江戸市中見回りを命ぜられる
     * 11月  江戸城本丸御殿、二の丸御殿焼失
     * 12月  庄内藩主 酒井忠篤公 左衛門尉に任ぜられる 
                          (江戸城仮御殿にて)
1864年(文久4年・元治元年)
     *  1月  将軍 徳川家茂上洛
     *  3月  水戸藩 藤田小四郎が筑波山にて挙兵(天狗党の乱)
     *  6月  京都 池田屋騒動 (新選組が勤王の志士を襲撃)
     *  7月  京都 蛤御門の変
             幕命により庄内藩が長州藩麻布中屋敷を没収
     *  8月  第一次長州征伐
             英・米・仏・蘭の連合艦隊兵、長州に上陸し緒砲台
             を破壊す
             新懲組が庄内藩家臣扱いとなる
     * 11月  蛤御門の変を主導した長州藩の3家老自刃
     * 12月  長州藩 高杉晋作 下関で挙兵
            これを分水嶺にして以後急速に討幕の動きが・・・・。

文久4年(元治元年)は、幕府の開国政策に反対する攘夷派が京都を中心に荒れ狂った血なまぐさい激動の時代で新選組が最も活躍した時期。
そして、我が庄内藩は幕府方の重鎮として江戸市中見回りを命ぜられ、且つ浪士の寄せ集めたる新懲組を預けられる。  蝦夷地での外国警備という厳しい任務を遂行する中で江戸の治安維持という新たな役割も付与されることになりました。

こうした折、庄内藩の領内たる東北の山村はどんな状況だったのであろうか??
 この御用留から何が分かりましょうか・・・・。  興味が持てますね。


初心者の古文書 ; 一緒に楽しみませんか

ブログづくりにも初めてチャレンジです。

とにもかくにも、初めまして。うさぎ

定年後の趣味としてこれから古文書にチャレンジしてみようかと考えています。
動機は、先祖が書き残した諸々の古文書があるので何が書いてあるのやらこれからゆっくり読み解いてみたいと思っています。

ただ、これまでは仕事しごとに追われてきたので、私にはこうした文書を読む力量が備わっておりません。ショボーンショボーン

なので・・・、これから古文書を読み解き現代訳するに際しては、トンチンカンなものになること必定です。
同じような境遇にある方々と一緒に苦労を重ねながら共にゆっくりと楽しんでいけたら嬉しく思いますが、賛同者はいらっしゃいますでしょうか。
参加頂ければ大歓迎です。