出羽庄内藩の山村に遺された御用留を読む(初心者の古文書) -3ページ目

出羽庄内藩の山村に遺された御用留を読む(初心者の古文書)

羽州庄内藩の小さな山村(山形県鶴岡市山五十川)に遺された御用留を古文書の初心者が読み解く趣味のブログです。 御用留とはお上から出された達し書きを村方で写し取って一冊の文書綴りにしたもの。幕末(元治元年=1864年)の動乱期、揺れ動く庄内藩の様子が垣間見えます。

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(4月)19 番目のお達し
                    (1864年)

 奉行所のお役人が山林見分のため現地を巡回する旨、通達が来ました。


庄内藩の南部(山形県庄内地方の旧温海町地域)は山また山で平地は猫の額ほどしかない典型的な山間地です。
第二次世界大戦の後、この地域では杉の植林が進み現在は緑の広大な広がりをみせているけれど江戸時代においても貴重な木材資源の供給地であったのであろう。
藩当局からの文書にも御林と林に「御」を付けていることからみてもその重要性がうかがわれます。

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           蕨野村(現鶴岡市山五十川)

< 御用留 本文 >

 奉行所の片桐治郎吉から温海組大庄屋本間吉兵衛に宛てた通達

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御奉行中當月二十八日関根御林御見分
夫ゟ山中通木野俣ゟ関川小名部鼠ヶ
関濱通御廻村ニ付御林并分山割合
植付共御見分之積二付御通筋村々ゟ
ケ所出取調御通行先江指出候様御沙汰
二付此段村役人共江御達諸事不都合之
義無之様御取計被成度早々得御意
候 以上
   四月二十四日  片桐治郎吉
本間吉兵衛

町田川御昼菅野代御泊関川御昼小名部御泊り
鼠ヶ関昼此所山中御見分温海泊り五十川御昼此所山中
御見分三瀬御泊り清水御昼
    夫ゟ御帰寄
右之割合ニ而御廻村之積ニ候へ共當先觸
しかと御達相成可申と奉存候  以上


 藩からのお達しを受けて大庄屋本間吉兵衛から配下の村に宛てた添状

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別紙写之通御達相成候間被得其意
山方猥之儀者不及申諸事不都合
之義無之様可被相心候、 尤御林有之
村々者此状達次第早々取調我等
方へ右書付可被差出候、 右可申達早々
順達留ゟ可被相返候、以上
  四月二十七日      吉兵衛
      七ツ時出
  肝煎面々
猶々意取急ニ付廻状二通ニ而廻達いたし候、条
夜中共片時も無滞順達可被致候  以上




< 現代文にチャレンジ >

 奉行所の片桐治郎吉から温海組大庄屋本間吉兵衛に宛てた通達

奉行所が今月28日に関根のお林を視察し、それより山間部を通り関川、小名部、鼠ヶ関、浜通りと村々を廻りお林の状況、山の割り付け状況、植付の状況等を見て回る予定である。
順路に該当する村々は最寄りの山林の実態を調べて奉行所の役人に差し出す様にとのご指示であるのでこのことを配下の村役人に伝え諸事不都合が生じないよう取り計らうべく早急にこの趣旨を徹底されたい。 以上
   4月24日     片桐治郎吉
 本間吉兵衛

初日は町田川でお昼、菅野代で宿泊、 二日目は関川でお昼、小名部で宿泊、 三日目は鼠ヶ関でお昼としこの周辺の山林を見分、夜は温海にて宿泊、 四日目は五十川でお昼としこの周辺の山中を見分、その夜は三瀬にて泊まり、5日目は清水にてお昼とし夕方に鶴岡に帰る。
以上の日程にて各村々を廻る予定なのでこの予告通知を配下に通達すること。


藩からのお達しを受けて大庄屋本間吉兵衛が配下の村に宛てた添状

別紙の写しの通り奉行所から通達があったので山林の管理・取り扱いに不備がないことはもちろんのこと諸々全てについて不都合が生じないよう留意されたい。
ところで、山林がある村々はこの通達が届き次第早々に取り調べ以下に示す書面を大庄屋宛に差し出すこと。
以上の通り通達するのでこの書面を所定の順路で村々を回付し、最終の村から大庄屋宛戻すこと。 以上。
   4月27日        大庄屋 本間吉兵衛
      夕方4時頃出す

(追伸) この通達は緊急を要するので2通作成し村々へ廻達する。
      夜になったとしても滞ることなく回すこと。



< 素人なりに考察してみましょう >

 通達の時期について

28日からお役人が領内を巡回するというのに大庄屋本間吉兵衛から配下の村々へ通達を出したのが27日の夕方4時頃。
非常に急ぐので夜になっても滞りなく村々へ廻達するようにとのこと。

それにしても、こんなタイミングで通知され、それでいて諸事怠りなくというのは所詮無理というもの。
この当時、お上のご意向は絶対だったんでしょうね。

  山林の保全について

この時代の山は東海道53次の浮世絵に描かれているように木材が乱伐され相当数ハゲ山だったとも伝えられています。
雑木さえも木炭の用材として多用されていたようで日本の山は場合によるとかなり荒れていたのかもしれません。
こうした中において庄内藩では山林の保全が重要政策として機能していたということになるのでしょうか??

  巡回経路について

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五日間に亘る山林の状況視察です。
山道の峠をいくつも越え、林の中に分け入り見分するお役人も大変ながら、これを受け入れ対応する領民側にとっても大変な出来事であった筈。





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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年4月)18番目のお達し
                    (1864年)

 お蚕様の胤(たね)を安くお分けします、代金は後払いで構いません、  生産した生糸の一括買取もします ・・・・・ とのありがたいお話です。

この当時、庄内藩内の農家にとって養蚕は現金収入を得る非常に重要な仕事でした。 そして藩財政にも大きく貢献したことでしょう。
庄内藩としては農家が生産した生糸の買取を問屋・仲買人等で構成される株仲間に独占的に取り扱わせる仕組みになっていたが、試行と言いながらも庄内藩以外の別の買取業者も領内で生糸買取を行えるようにした模様です。
藩は、特定の株仲間に生糸取引の独占権を与え税収の安定化を図る政策であったのでしょうが、最近の生糸高騰の情勢を踏まえ規制緩和をして業者間に競争をさせ更なる税収増を目論んだものとみられます。
しかしながら副作用も目立ってきて再び何らかの規制が必要とされるようにもなってきたようです。

生糸取引の仕組みが揺れ動く中で、領内の平田郷中野俣村(現 酒田市中野俣)の清兵衛という方が伊達(仙台藩)と米沢で仕入れた日本一の蚕胤(種)を農家の皆さんに有利な条件で販売し、且つ生糸を生産者利益第一を考えた値段で一括買取をしてくれる、・・・とのありがたい話が舞い込んできました。

欧米列強による圧力でしぶしぶ行われた横浜開港は結果として生糸輸出の急拡大をもたらしたが、この地方にもいろいろな形で影響を及ぼしたことが分かりますね。

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                (山形県酒田市中野俣地区)  清兵衛の出身地


< 御用留 本文 >

●1; 清兵衛がこの阿部嘉藤治からの手紙を持って斉藤太良八を訪問。
         この手紙から本件スタートです。

春暖之砌ニ御様弥勇健被成御釛奉恭喜候 然者
私儀幷鈴木文太夫は去春中ゟ蚕桑取掛被
仰付御領内中ゟ出候蚕糸取扱候様尤右
買取候者者問屋壱人中買五人株式被 仰付
其外手先と唱候者三十六七人株式同様被 仰付
去年中茂専是等之手ニ而買会集他所者江者
勿論御国之者江も右問屋幷中買共ニ限売買
致候之様被 仰付候   右御趣意者近来生糸
莫大高直ニ相成候所他所者郷方へ猥ニ入込
逼(せり)買いたし大方己の為而巳を思ひ謀り
安買専一ニいたし郷方の為筋ニ不相成趣ニ相
聞其上御国用之分共他所者ニ被買取御差
図之廉も相見且御差障之筋も有之候ニ付
右株式被仰付候者ニ限売買致候様被 仰付
候得共未御試中積ニ付去年中ハ聢と之御觸
達も無御座候得共不遠御達ニも可相成と奉存候
然所平田郷北中野俣村清兵衛と申者日本
一伊達之本場極品之胤を成丈下直ニ売払
代銭者翌年ニ延蚕いたし候者専為筋を以
一手買之儀願出候ニ付段々相糺候所如何ニも功者ニ
相聞郷方者勿論御為筋之一阞(こ)をも相立度
趣意ニ而厚意之筋ニ付及沙汰置候得共未
不口の御沙汰も無之処最早蚕之時節ニも相成
候間売払度分申出候ニ付相対ニ而売捌候儀者少も
不苦候付勝手次第売払候様申達候處自己か
売捌候而者御趣意之程も通し兼候ニ付御役
前(所ヵ)江文通ニ而も致呉候様申出候ニ付先以御懇意
之廉ニ而書中を以得貴意候間御繁用中御
面倒千万奉存候得共御支配内江何分御声懸を以
届之者江相求候様被仰付被下度奉存 猶委
細之儀者清兵衛へ可申上候間御聞取宜御引立
可被下候  右可得貴意候 如斯ニ御座候 早々已上
  三月十七日
                    阿部嘉籐治
斉藤太良八様


●2; 斉藤太良八が阿部嘉藤治の書状(写)に自分からの添え状をつけて
    温海組大庄屋本間吉兵衛に回付

暖之節御座候所各様弥御安泰被成御釛
珍重奉存候 然者平田郷中野俣村清兵衛と申者
年之何連ゟ蚕胤取寄試居候者ニ有之由 近
年すの糸高直ニ付色々御世話も御座候ニ付伊達へ
参胤注文いたし追々下直ニ売払申度旨蚕桑
掛江願立候趣ニ而別紙阿部ゟ之書状持参
罷越猶各様江添書いたし呉候様申聞候
尤村々より注文有之所を以伊達江注文之上
相配代銭ハ翌年蚕作柄ニ寄受取候而
不苦旨申聞候 委細之別紙ニ而御承知被下
猶当人御糺之上御取り計可被下候 清兵衛為
持置早々得貴達候
    三月三十日
                 太良八
  吉兵衛殿

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● 3; 前の2通の書状(写)を配下の村々に回付するにあたり
              温海組大庄屋本間吉兵衛が認めた添え状

回状以申達候 然者此度御沙汰趣も有之
平田郷中野俣村清兵衛と申者蚕胤売払
度旨委細別紙写の通申来候間蚕いたし候
者共江無洩申付可被置候 清兵衛と申者又當月
中旬頃ニ各村々直段ニ罷越候筈ニ付其節時
宜取計可被申候 右申達候 早々順達留ゟ
    四月八日           吉兵衛

●4; この件で再び大庄屋本間吉兵衛が配下の村々へ回付した書状 

先日も及廻達候中野俣邑清兵衛と申もの
昨日三瀬迄罷越櫛引へ相廻り当二十七八日
頃ニ参り候趣ニ而別紙写之通り約定書
差置行とて三瀬ゟ相廻り申候 各等と
熟覧蚕いたし候もの心中ニ落入益方
ニも相成候 手ならい右下旬参り候
節何分熟談いたし候様兼而
不洩様申含可被置候 弥清兵衛相廻り候節
ニ至り不都合之次第有之候而者不宜候間
前以此段又々及廻達申候 右申達候 早々
   四月二十二日
                 吉兵衛

猶々出入清兵衛二十七八日頃参り候迄村々
胤求度面々ハ何位ツツ注文上申ニ所
各せんさくいたし置呉候様ニと三瀬ゟ通達
有之候間右段も心得罷有候様可被致候

●5; 事前に届いた清兵衛が示した蚕胤(種)売買条件について

       約定の事
一.蚕胤之儀者当夏中ニ引渡明年之
   蚕出来上りニ而胤代年越ニ受取可申事
一.万一仕損候節者蚕胤代金ハ半金ニ而も
   又者能々な連ハ赦し候ものニも諸人
   迷惑之無之様相談上可仕事
一.蚕胤之儀者伊達本場ニ不限米沢
   ニ而も両方諸人御届次第ニ御注文可被下候
   尤直段高下多分之ものニ候間壱朱ゟ
   壱両壱分位迄相場定無品ニ付代何
   位之品と御注文可被成候
右之條々無相違堅相守可申候 為其
約定仍而如件
    元治元年        中野俣邑
       子四月          清兵衛


< 現代文にチャレンジ >

●1; 清兵衛が阿部嘉藤治からの書状を持って斉藤太良八を訪問。
        この手紙から本件スタートです。

春暖かな折、益々ご壮健、ご繁栄のことと深くお喜び申し上げます。
さて、私は鈴木文太夫と共に昨年春より蚕桑取係(養蚕事業振興を総括する部門?)を命じられ庄内藩外へ出張しておりました。
ところで、蚕糸(生糸)の取り扱いについてですが、買取は問屋1名、仲買人5人が株式を持ち株仲間として独占的に取引することを許可され、その他、この問屋・仲買人の手先として活動する者(36~37人)も上記株仲間と同様の取り扱いをもって取引に従事することを命じられております。
昨年度もこの株仲間が領外の者との取引は勿論のこと領内の取引ついても独占的に一手に引き受けるべく藩庁から指示されました。
こうした中にあって最近になり生糸が高騰したことから領外の業者が領内の農村部にみだりに入り込み競り買いを行い大部分の者は自分たちの利益だけを考えた安値買いに走り生産農家のためになっていない、と聞き及んでいます。
更には、よそ者の業者内では藩内で消費すべき分の生糸までも買取るようにとの指示が出されているようなのでこのままにしておけば支障が生ずることになりましょう。
従来からの株仲間にのみ生糸取引の独占権が認められている中で外部の別の業者にも生糸買取を認めることについては今のところ試行期間というこもあって昨年度はキチンとした規制を加えることはしていないが、遠からず何らかの規制が行われるものと思います。
こうした折、領内の平田郷北中野俣村の清兵衛と申す者が日本一といわれる本場伊達産の上等な品(蚕種)をできるだけ安く販売し、その代金は翌年の延払い、そして生糸は生産者利益第一の視点で一手買いしたい、・・・と申請がありました。
詳細を確認するに実務的に非常にうまくできた仕組みであり生産農家は勿論藩財政に対しても貢献したいとの意向であります。
この有益な申し出については領内に通達により推奨の指示を行うべきであるがこれまでに文書での通知は行っておりません。
そうこうしているうちに早や、蚕のシーズンになってきたので清兵衛の方から蚕胤(種)の販売を行いたいとの申し出があったので自由に希望者に対し販売して全く問題はない旨回答しました。
これに対し清兵衛の方から民間の一個人の立場で取引を開始しても趣旨徹底が難しく上手く行きませんのでお役所の方から文書によって領内の関係者に通知して欲しい、とのことでありました。
就きましては、貴方とは日頃から懇意にさせて頂いてもおり、ご多忙の中大変ご面倒をおかけしますが、本件につきまして貴職の名において配下の希望する養蚕農家へお声がけ下さるようお願いします。
なお、詳細については清兵衛へ直接お聞きいただきよろしくお引き立て願います。
以上よろしくご理解・ご協力の程お願い申し上げます。
        3月17日                           阿部嘉藤治 
  斉藤太良八様

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●2; 斉藤太良八が阿部嘉藤治の書状(写)に自分からの添え状を添付し
    清兵衛による蚕種販売等の件を藩内の各大庄屋宛に通知

春暖かき折、皆様方にはますますご安泰、ご繁栄のことと存じます。
さて、平田郷中野俣村の清兵衛と申す者が、これまで何年もかけて各地から蚕種を取り寄せいろいろ試してきたとのこと。
この清兵衛が、近年、生糸が非常に高値になっていることから藩内の養蚕事業発展に寄与すべく伊達に参り蚕種を仕入れ、追々できるだけ価格を下げて生産農家に販売したい、と藩庁の養蚕事業振興係阿部嘉藤治に願い出てきたということです。 そして、有益なるこのことを各村々に伝えたいということで事の次第を認めた阿部から当方に宛てた書状を清兵衛自身が持って参りました。
阿部は自らの文書に私・斉藤太良八(郡奉行所の役人?)の方で添え書きして各村々へ通知してもらいたい、ということでありました。
ところで、村々からの蚕種の注文を受け伊達から仕入れを行い各養蚕農家に販売しますが、代金は翌年の蚕の出来具合を勘案し受け取っても構わない、と聞いております。
詳細を示した別紙阿部嘉藤治からの書状をご覧いただき、更には清兵衛本人から確認のうえよろしく対処願います。
この書状を清兵衛に持たせるのでよろしくご理解のほどお願いします。
      3月30日                 太良八
   吉兵衛殿 (温海組大庄屋)


● 3; 前2通の藩庁からの書状(写)を配下の村々に回付するにあたり
     温海組大庄屋本間吉兵衛が認めた添え状

回状により通知致します。
さて、この度お上ご意向を受けた形で平田郷中野俣村の清兵衛という方が蚕種を販売したいとのことで詳細は別紙の書状(写)にあるとおりです。
このことについて養蚕を行っている方々に洩れなく通知下さい。
清兵衛という方は当月中旬頃に各村々へ直接訪問することになっているのでその節よろしくお願い致します。
以上の通り通知致します。
本書を早急に村継により回付下さい。
      四月八日             吉兵衛 (温海組大庄屋)

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●4; この件に関し再び大庄屋本間吉兵衛が
    配下の村々へ回付した書状 

先日通知しました中野俣村の清兵衛という方が三瀬へ来られ、それから櫛引に廻って今月27~28日頃に温海組に来る予定とのこと。
清兵衛が三瀬を去る際、蚕種取引の約定書を置いていかれました。 関係者でこの約定書を熟覧するに納得できる内容であり我々にとって非常に有益と判断されます。
皆さん方もこの内容を事前に把握され清兵衛が今月下旬に来られた際に前もって指示してある通り養蚕を営んでいる者は洩れなく相手方熟談できるよう準備しておいて下さい。
以上、通知致します
   四月二十二日 
         吉兵衛 (温海組大庄屋)

(追伸) 清兵衛が27日(入)~28日(出)の予定で来られるが、それまでの間 
各村々において蚕種の買取を希望する者は十分
に調べたうえで数量を取りまとめておかれるように、・・・と三瀬の方
から連絡がありました。
以上、心づもりの程お願いします。


●5; 清兵衛から示された約定書の内容

        約  定  書 

一. 蚕種は今年の夏に引き渡し、代金は明年蚕が仕上がって
        から年越しにて受け取ります。
一. 万一、養蚕がうまくいかなかった場合は代金を半額に、
        または非常に出来が悪かった場合は無償にするなど養蚕
        農家が困らぬよう状況に応じ相談します。
一、 蚕種は本場伊達産のものだけでなく米沢産のものも注文に応じます。
   また、蚕種は値段の幅が大きく下は1朱から上は1両1分までと相場が
   定まっていないので注文の際はどれくらいの値段のものをどれ位と
   ご指定下さい。
 上記3つの条項を間違いなく固く守ります。

 以上、約定書と致します。

    元治元年                中野俣村
       子4月                清兵衛
        
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< 若干の素人考察 >

 この一連の文書の流れについて

① 最上川の北に位置する平田郷中野俣村(酒田市中野俣)の清兵衛が庄内藩庁蚕桑係に藩内での蚕種販売を願い出る。
② 蚕桑係の阿部嘉藤治は清兵衛の提案内容が合理的であり、養蚕農家にとっても、庄内藩にとっても財政メリットありと判断。
しかしながら、推進策について行政上の対応が遅れていた。 
③ そうこうしているうちに養蚕シーズンが近づき清兵衛から蚕桑係に蚕種の注文をとることについてOKか否かの問い合わせあり。
④ 蚕桑係阿部嘉藤治は「自由に注文をとってよろしい」と回答するも清兵衛は「役所のお墨付きがないと事は進まない。 お役所から各村々へ指示書を発行して欲しい」 と、願い出る。
⑤ 清兵衛の申し出を受けた蚕桑係の阿部嘉藤治は村々の行政を司る郡奉行所の斉藤太良八宛に事の次第を認めた依頼状を書き、これを清兵衛に持参させる。
⑥ 郡奉行所斉藤太良八は清兵衛からの説明を受けた上で阿部嘉藤治からの書状に自身の添え状を付して配下の大庄屋へ清兵衛による蚕種販売について指示。
⑦ 温海組大庄屋 本間吉兵衛がお上からの通知に自身の添え状をつけて配下の村々へ通知。
⑧ この後、間もなく清兵衛さんは具体的な活動を始めた模様。
温海組大庄屋吉兵衛の元へ三瀬組(温海組の隣の組)から以下の内容が伝えられた。
「 清兵衛さんが三瀬組で蚕種の取引に関する説明を行った後、櫛引方面に向かい、温海組には27日~28日に行く予定。  清兵衛さんは櫛引二向かう折、蚕種取引に関する約定書を置いて行かれた。
三瀬組としては清兵衛さんの申し出が納得できる内容と認めるので温海組としても清兵衛さんが来られる前に事前検討を十分に行われ清兵衛さんと熟談
できるようにしておいた方が良い 」
⑨ 温海組大庄屋は三瀬組からの連絡内容を配下の村々へ伝えると共に、養蚕農家は事前に十分検討し注文数量を纏めておくように、・・・と指示。

当、御用留には本件に関する記事がこれ以上記載されていない。
従って、この後どうなったのかは全く分からない。


 御用留の記述から当時の養蚕・生糸取引等について分かることを整理してみます。  

① 幕末期の庄内藩の行政組織に蚕桑掛(係)と称す養蚕振興を業務目的にしたと思われる部署があった。
そして、文政4年(元治元年)当時、その部署には阿部嘉藤治と鈴木文太夫の2名の武士が配されていた。
② 領内で生産された生糸の買取・販売等の取引にあたっては 問屋1名、仲買人5人で構成される株仲間(株式による出資)に独占権が認められていた。
この株仲間は手先として36~37人を組織し領内で独占的に取引に当たっていた。
③ また、この時期、庄内藩内でも生糸がかなり高騰したようである。
歴史書によれば、幕末の開国により生糸輸出が行われ高品質の日本産の人気が高まったことで品薄から高騰した、とあるが、このことは当御用留の記述からも裏付けられる。
④  生糸の価格が高騰したため藩庁は従来の株仲間にのみ独占的に認めていた生糸取引に試行とはいえ領外の業者にも参入を認めた。
これは藩財政に有益に働くのではないかとの期待があったからではなかろうか。
⑤ 従来からの株仲間だけではなく外部の業者へも市場参入を認めた結果、当然の帰結として取引に競争原理が働くことになった。
藩庁の担当部門として・・・、外部業者の大半は自分の利益のみを考えて生糸の競り買いを行い生産農家に良からぬ影響を与えているとの風評を聞くようになってきた、・・・とあるが・・・、本当にそうなのであろうか?
生糸が高騰している中で既存の株仲間と外部業者が競争すれば生産農家にとってはむしろ良い結果をもたらすのではないだろうか。
不利益を蒙るのは既存の株仲間の方で、これが藩庁蚕桑係への苦情となって表出したのではなかろうか。
⑥ 外部業者が引き起こしている問題があるとすれば、それは庄内藩の中で織物や布団・衣類等で消費すべき生糸までも高値で買い占め輸出など高値で売れるところへ回そうとしたことなのでは・・・・??
⑦ こうした状況下、平田郷中野俣村の清兵衛が日本一の品質をもつ蚕種を伊達(仙台)から仕入れて領内の養蚕農家に 「できるだけ安く」 「代金は翌年度に延払い、しかも蚕の出来具合によりゼロから半値でもOK」 という破格の条件で斡旋してくれる、・・・とのこと。
兵衛さんにはそれだけの資本力があったということでしょう。


   


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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年4月)17番目のお達し

藩の御郡奉行所のお役人が領内見分のため温海組に来られます。


温海組の領内見分として庄内藩の御郡奉行所(御代官所)からお役人が来られるので山絵図など説明資料を持ち寄るようにとのご指示です。
どうして役人が見分のため現地視察することになったのかについては先に関係者で打ち合わせ済みの案件だったようです。
何かトラブルでもあったんでしょうかね。


< 御用留 本文 >

 大嶌裕治と2名の肝煎りからの連絡文書

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 急以村継得御意候然者兼而之一条ニ付
 今度場所御見分之た免御郡奉行
 所御代官所御名代として御役人
 中明七日温海村江御出郷之趣御達ニ付各
 様并兼而之御面々明夕方迄温海村江
 御越可被成候其節左之通
一.山絵図
 但澤々地名山々模様間尺等も分り候ハハ
 成たけ委御取調御持参之事
一.證拠二可相成古キ書付類
一.古キ絵面等有之候ハハ右同断之事
右御持出被成候様ニと御差図ニ付此段拙者
共ゟ得御意候早々以上
  四月六日       
               大嶌裕治
               肝煎 源左衛門
               同   彦七
  肝煎  徳左衛門様
  同    源助様
  同    重三郎様
  同    治郎右衛門様

猶々温海村へ御参着次第裕治方へ早速御知ら
せ可被成候尤絵図認方心得候者御同道被成候
ものも御同道被成候様ニと御差図ニ御座候以上


< 現代文にチャレンジ >

急ぎの村継でお上からの連絡事項をお伝えします。
用件は兼ねてから課題となっていた件について藩の御郡奉行所
(御代官所)から明日7日にお役人が温海村へ来られる、とのこと。
肝煎の皆さん方、そして兼ねて申し合わせの関係者は明日7日の
夕方迄温海村へお越し下さい。
その際、
① 山の絵図 ・・・・各沢の名称、山々の形、距離数などできるだけ
           詳細に調べたもの
② 証拠に値する古い文書類
③ 古い絵など参考になりそうなものがあれば何でも。
・・・を持参するように、 とのお上からご指示です。
   4月6日
                    大嶌裕治
                    肝煎 源左衛門
                    同   彦七
  肝煎  徳左衛門様
  同    源助様
  同    重三郎様
  同    治郎右衛門様

追伸)
温海村へ到着しましたら急ぎ大嶌裕治の方に連絡下さい。
また、絵図面を書ける者を同行してきている場合はその者も
一緒に連れて来るようにとお上からの指示です。

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                              < 山絵図 >


< 素人考察 >

① 本書は大嶌裕治 と肝煎である源左衛門並びに彦七との連名で他の4名の肝煎に宛てた文書です。
宛先の治郎右衛門は実俣村の肝煎であり重三郎は蕨野村の肝煎と思われます。
徳左衛門と源助はどこの村の肝煎かは分かりませんがこの二つの村に隣接する村の肝煎と推察されます。
② 4つの村の間で山間部の村界について何か見解の相違などトラブルがあって、その争い事の仲裁を藩の御郡奉行所にお願いしたのかもしれませんね。
役人が現地見分を行うにあたり絵図面や昔からの山の権利に関係する資料を持参するように、 との指示です。
③ 温海組の中ではこうした地境にからんだ問題が発生したとき、その対応を大嶌裕治が担当することになっていたように思われます。
大庄屋 吉兵衛の名前が見当たりません。
山の権利は複雑なので特別の知識がないと対応できなかったのかもね。





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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(文久4年3月)16 番目 のお達し

 年号が ”文久” から ”元治” に変わるとのお達しです

文久4年になったばかりなのに3月1日付で年号を「元治」に改める、との通知が届きました。
天皇が退位したわけでもなさそうなのにどうしてこんなに短い期間に改元するんでしょうね。
しかも、3月の中旬になってからのお知らせです。

< 御用留 本文 >

●1; 庄内藩の家中総員宛に出されたお知らせ

        
當月朔日ゟ年号元治と改元之旨申来候
可被得其意候
支配有之面々者支配下へ茂可被申達候以上
                    組頭
  三月十五日               小姓頭
  惣家中

●2; 藩庁(代官?)から温海組大庄屋吉兵衛に宛てた添え書き

右之通御觸達有之候間被得其意支配村々へ
可被申達候右申達候早々順達留ゟ可被相返候以上

   三月十六日         茂兵衛
                 金右衛門
  吉兵衛殿

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< 現代文にチャレンジ >

●1;  庄内藩の中で家中(上級家臣)総員に出されたお知らせ

             お知らせ
当月1日付で年号を「元治」に改元するとの通知がありました。
このことについて配下へも連絡すること。
以上通知します。
   3月15日                 組頭
                         小姓頭
  惣御家中

●2; 藩庁(代官)から温海組大庄屋吉兵衛に宛てた添え書き

右のとおり通知があったので改元のことを配下の村々へ知らせること。
以上通知する。
この書面は所定の組々回覧後、最終の組より当方へ戻すこと。
   3月16日                 茂兵衛
                         金右衛門
  吉兵衛殿


< 内容を素人なりに考えてみましょう >

 先ずは、「改元」の告知時期について

3月1日付で年号が変わるというのに庄内藩の家中で通知された文書の日付が3月15日というのはいかにも遅すぎるように思います。
朝廷が幕府に事前に知らせることもなく突然に改元した、ということなのだろうか??
それとも、改元の通知というのは当時こんな感じでのんびり通知されていたのだろうか??

そんな状況ではあっても藩庁(郡奉行所?)から配下の大庄屋に出された通知は翌日16日付ですからこの段階での事務処理としては普通に早いですよね。

 元治元年を西暦であらわすと・・・・

1864年、 今から153年前です。
前年の文久3年(1863年)に京都で新選組が結成され、そして元治元年6月にはこの新選組が三条池田屋旅館を襲うあの有名な池田屋事件が起きています。
幕末動乱の激動期ですね。

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]久4年2月15番目のお達し

未開の蝦夷地で働く ”郷夫(人夫) の取り扱い役人を募集、  事実上強制です!!                                                                                                                   


正月24日に蝦夷地移住の郷夫を含む諸々の職人募集があったばかりです。
今度は蝦夷地警備の庄内藩陣屋から郷夫の取り扱い役人を急いで派遣してほしいとの強い要請が来た模様。

藩庁から藩内の村々に人選について事前の打診を行うも応募する者は一人もいなかったようです。
未開の蝦夷地で働く不安もあろうし、荒くれであったかもしれない郷夫達を仕切るのは大変なんでしょうね。

そこで、再び藩庁から強い協力要請(命令)のお達しが届きました。
温海組と櫛引組については「1名づつ出せ!」 ・・・とのこと。
お上からの命令は絶対でありこのままでは済まされません。
また、また、アタフタと人選作業に取り掛かることになりました。

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< 御用留 本文 >

●1; 藩庁(山浜通担当代官)から
      温海組大庄屋 本間吉兵衛
           に宛てられたお達し

蝦夷郷夫取扱役人八組穿鑿いたし
候得共届人無之趣ニ付是迠櫛引山浜
両組ゟ壱人も指出不申候上ハ右両組江壱人ツツ
出人申付候  石織人殿御沙汰ニ付其筋ニ無
御座候訳返々申取候処尤之儀ニ候へ共夫ニ而ハ
御差図ニ可相成候間筋不筋ニ不拘是非共壱
人差出候様事訳而被仰聞候 右ニ付肝煎󠄀ニ
限候事ニも無之並百姓之内ニ而も算筆
(仼?)出来候者ニ而左候間能々穿鑿之上
名寄書早々指出候様可被致候 尤三月朔日
立之儀御達ニ付其含ニ而可被申達候 右申
達候 早々順達留ゟ可被相返候 已上
  二月二十日       茂兵衛
              金右衛門
 吉兵衛殿
 
  ■  読めない文字 ⇒ (  ) 内  ・・・ どなたか教えて下さい

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●2; 藩からのお達しに添えて大庄屋から配下の村々へ発せられた文書
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先達而御糺相成候蝦夷地下り郷夫取扱役人
組方江無之間書付を以申出候間其段御届申候所猶又別紙写し之通事訳ケ而御達相成候上ハ各々村々打寄之上村中眼鏡之ものも可有之候間入念取評儀不口書付を以早々我等方へ可被相届候
一ト通相糺し無之ニ而ハ後日風聞も有之不相済候
成丈ケ入念取沙汰いたし可被申聞ふ分り之村々ニハ各呼出し可被承候間其分(?)(?)御取急之御達ニ付名下時付書入夜中
片時も無達滞順達留ゟ可被相返候以上
  二月二十五日        吉兵衛
       昼過出ス
肝煎 連名 
         二十六日朝五ツ時比実又村ゟ相達
           其侭戸沢村ヘ差送申候

  猶々大村継ヲ以早々順達留ゟ飛徒ヲ以
     我等方ヘ可被相返候 尤山中四ケ村ヘハ
     金左衛門写取本書下モ通へ可被送遣候 

   ■  読めない文字 ⇒ (  ) 内  ・・・ どなたか教えて下さい

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< 現代文にチャレンジ >

●1; 藩庁(代官)から温海組大庄屋本間吉兵衛に送られてきた達書

蝦夷地で働く郷夫取り扱い役人について藩内の八組へ適任者選任を指示するも全く届け出がなく櫛引、山浜の両組からは一人も提示されなかった。
石原織人殿から櫛引、山浜の両組については必ず一人づつ出すようにとの命令である。
蝦夷地郷夫取扱役人の選任についてその意義を繰り返し確認したが非常に重要な事案と理解され、従ってお上のお指図実現は必須である。
いろいろ難しい事情はあろうが、是も非もなく特別の事として郷夫取扱役人を選任すること。
以上のことについては、肝煎り(村長)だけのことにしないで普通の百姓であっても算術・読み書きができる者については協力して適任者を探し出し、名簿を差し出してもらいたい。
なお、本件の処理期限は3月1日付けとなっているのでその旨承知され然るべく対処されたい。
この文書は各組々に回覧し、最終の組から当方に戻すこと。
      2月20日            茂兵衛
                       金右衛門
  吉兵衛 殿


●2; 藩からのお達しに添えて大庄屋から配下の村々へ発せられた文書

先般、藩庁から選任要請があった蝦夷地で働く郷夫取扱役人について温海組としては適任者なしと書面で返答したが、なおまた別紙写しの通りお達しが届いた。
特別に重要な指示であるため 各村々においては皆が集まって郷夫取扱役人に相応しい者が必ずや居るはずなので念入りに対処し、これについて口頭ではなく書面で速やかに大庄屋の方に届け出る事。
ひと通り確認してなお該当者なしということでは後々外聞も悪くそのまま済まされることではない。
できるだけ念入りに村内に趣旨を徹底し、もし、お上の指図を理解できない村々があればそれぞれ呼び出されることになろうことを含みおく事。
非常に急ぎのお達しなのでこの通達を名下時付で書き認め、夜中であっても少しの間もおかず村々を回付し、最終の村から大庄屋宅に戻すこと。

   2月25日                吉兵衛
     昼過出す  
       このお達しは26日朝8時頃に実俣村到着。
                 そのまま戸沢村へ送り届ける                           
追伸 本通達は大きな村々だけの回付とし早急に回すこと。
   山中の4ヵ村については金左衛門が本書を写し取り送達すること。


< 素人なりに考察してみましょう >

★ その1 ; この達しを発する側の立場、 受け取った村方の立場

蝦夷地で働く郷夫(力仕事をする人夫)を仕切る役人を藩内の8組に募集を掛けたが誰も応募する者がいなかったため藩のお偉方から改めて温海組から1名、櫛引組から1名を選び出すようにとの指示です。
お達しの文面から類推するに藩庁側もこの命令はかなり難しい注文であることが分かっていたように思われます。 代官としては上役の命令は絶対であるが、日頃接している領民達の気持ちも十二分に分っていたのでしょう。
上級武士身分なれども末端に位置する役人の心情が感じ取れるような気がします。

また、この達書を受け取った温海組大庄屋としては、応募者が見込めない中でアタフタと再手配している苦渋に満ちた姿がみてとれます。
3月1日までには結論を出せ、との命令であるため猶予は1週間もありません。
夜、昼なく大特急で達書を村々に回付し期限までに郷夫取扱役人を選出しなければなりません。

★ その2 庶民が支えた蝦夷地警備

庄内藩の蝦夷地警備には武士だけでなく、これを支える多くの領民(各種の職人)を動員したことが御用留の記述から分かります。
おそらくは、警備にあたる武士の何倍もの領民が半強制的に送りこまれたのではないでしょうか。  
陣屋や見張所、これらをつなぐ道路等々の建設。 居住者のための住宅造り。 水や食料の自給体制整備。 そしてまたこれらのメンテナンス活動などなど・・・・・。

1月に郷夫(人足)含む諸々の職人募集があり、そして2月に入り郷夫達の職務を取り仕切る役人の募集が行われました。
しかしながら、これに対する領民側の反応は決してよろしくありません。
蝦夷地は冬の寒さが厳しいうえに未開の原野で働く労苦を考えると手当をした多少上積みしたくらいでは応募する者が殆どいなかったのだと思われます。
御用留には、この結果がどうなったのかの記載がないので分りませんが、恐らくは藩庁の命令通り温海組・櫛引組の両組から1名づつ郷夫取扱役人が選び出され現地に送られたのでしょうね。

またまた、例によって極貧の者にシワ寄せされた可能性があります。

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石狩市教育委員会作成の上掲説明看板には、庄内藩が建設した物資輸送用水路が現在も残されていると記述されているが、これだけの規模の水路建設となればかなり多数の郷夫を要したことは明白です。
殆どの郷夫は主に山間部の農村から強制的に刈り集められたものと思われるが、その後の去就についてはどうなったものかまるで記録が見当たりません。

歴史書には庄内藩が蝦夷地警備を幕府に命ぜられ、必要経費を賄うべく3~4万石程加増されたことなどは触れられているが、幕府の海防政策の影響を最も大きく受けたのはむしろ庶民達。
庄内藩の武士達は戊申戦争が始まると全員帰郷しているが、無理やり狩り出された庶民の多くはそのまま蝦夷地に放り出されたものと思われ、この取り残された人々の中には筆者の親族も含まれていたかもしれません。
しかも、戊申戦争の戦費調達のためプロイセン(ドイツ)に99年間貸与との目論見があったことなどを知ると私たちの先祖のことが何事もなかったの如く捨象されてしまうのは寂しい限りである。

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★ その3;  お達し書きの回付について

温海組の大庄屋宅から2月25日昼に書面が配下の村々に発せられたとの記述があり、そして蕨野村に隣接する実俣村には26日の朝8時頃に到着し、すぐさま隣村の戸沢へ送り届けた、・・との追記が付されています。
温海村から実俣村までの間には、途中2~3の村々があるのでここを経由し約半日かけて実俣村へ届けられたことになります。
この当時は街道といえど狭い山道で、しかも季節的に少なからず雪も残っていたであろうから夜昼なく駆け足で伝達したとしてもこの程度の時間を要したんでしょうね。

また、各村々では達書が届くとそれを「御用留」として書き写さなければなりませし、大庄屋への回答も書面で出す様にと求められています。
東北の山深い小さな村であっても百姓たる住民の多くは一通りの読み書きができなければ暮らしていくことができなかったことが窺い知れます。
明治政府が小学校令を発布して程なく軌道にのせることができたのはこのような徳川時代の行政の結果に負うところ大きいんでしょね

                         
 御用留を残した本間佐左エ門恵考が作成した”苗字尽”(抜粋)

 多数の苗字を調べて一冊にしたものです。 寺子屋の教科書として作成した
 ものか?
 世間では、往来物として取り扱われているようです。

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[ 実俣村(鶴岡市山五十川)につたわる御用留 ]  文久4年2月  14番目 のお達し

押借りなど悪事を働く者をそのままに放置するな!!           早速、捕縛せよ! 抵抗するなら打ち殺してもよし! ・・・とのこと。 

押借りなど悪事を働く者は放置せず捕縛するようにと、先年指示したにもかかわらず、その指示がないがしろにされている。
その結果、また押借り事件が発生したではないか・・・。
再度指示するが・・・・、悪事を働きそうな者を見かけたら領民はタイミングを逃さず早急に大勢で協力して捕まえるように!!
もし、刀などを抜いたり、暴れたりしたら打ち殺しても構わない。
指示をきちんと果たした者にはその内容に応じて褒め称えられるが、もし、さぼったことが分かったならそれなりの沙汰(罰)が下されよう。

・・・・・以上、藩庁の上級役人 平右衛門様からの特別のご指示が実俣村にも伝えられました。

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< 御用留 本文 >

●1; 藩庁の代官から温海組大庄屋 本間吉兵衛に宛てられたお達し

近年町在共悪者致徘徊候と相見押借躰之儀時々
有之候得共捕〆候儀者勿論風躰行衛等見届申出候儀
無之候異竟其場を遁れ或者追返候得者夫切ニ
致置候故可有之甚以等閑之事ニ候郷方村中
町方ハ近隣詞聢と申合鳴を立候歟又者何ぞ相図致し
置右躰之者参候ハハ大勢寄集捕〆候様可心掛候若
腰者等抜払ひ又者手にあまり候阿らけ等致し候ハハ棒
太刀或ハ稲杭等ニ而打すくめ可申候疵付打殺し候共少しも
不苦候右取計ニも至兼候節者追掛又者犬ニ付候而成
とも往處見届候様可致候等閑ニ致し置追而悪者
被捕〆候上相顕連候ハハ急度可及沙汰ニ候

右之通先年相達置候処年(?)候ニ随ひ心得違等閑
之次第相聞近頃郷方ニ而押借之もの入候節も捕〆
候儀者勿論行衛等も見届兼候者全ク平日申合方
等閑ゟ之事ニ付此後右躰之儀有之候ハハ少しも手
延之儀無之様相図を定置早速大勢寄集打
すく免候共打殺候とも可致若右ニ至り兼犬ニ付参り
候ハハ悪者行留り迄何方迄も慕い行急度見届
可申候其品ニ寄称誉之沙汰ニも可及若等閑ニ致し
置候而者急度申付候此旨郷方之ものへ猶又可被
申渡候
   二月
別紙之通平右衛門殿御達之趣御沙汰ニ候間
村々不洩様可被申達候右申達候早々
順達留ゟ可被相返候已上
   二月八日           茂兵衛
                    金右衛門
 吉兵衛殿

●2; 大庄屋 本間吉兵衛から配下村々の肝煎に宛てられたお達しの表書き

御別紙写両通之通御沙汰之趣御達相
成候各被得其意惣御百姓共へ無洩申含若
惣者等押入候節鳴を立早速大勢打寄
候様之手筈等申合置候様可被来置候右
可申達早々順達留ゟ可被相返候以上
   二月十二日        吉兵衛


< 現代文にしてみましょう >

●1; 藩庁の代官から温海組大庄屋 本間吉兵衛に宛てられたお達し

『 近年、町方や村々などの在方共に悪事を働きそうな素行の良くない者が徘徊し、時々は押借りのようなことをしている。 こうしたことに対しては捕縛するのは勿論のこと怪しい者共の行方についてはきちんと把握しておかねばならないのだが実際は何も行われていない。
我関せずを決め込み見て見ぬふりをしたり、怪しい者を追い返すだけでそれっきりにするなど対応が等閑(なおざり)になっている。
今後は、郷方においては村中総掛かりで、町方においては近隣できっちり相談し悪者を発見したら大声を発するか、又は 何か合図をして大勢が集まって捕縛するよう心掛けること。
もし、腰の刀を抜き払ったり、又は手に余るほど暴れたりした場合は木刀あるいは稲杭などで打ちのめすこと。
この時に傷を負ったり、打ち殺しても全く構わないし、このような状況に至らず逃した場合には悪者を追跡し、又は犬に追掛けさせるなどして行方を確実に見届けること。
後日その悪者が捕まり、結果として捕縛行為が等閑(なおざり)にされていたことが判明した時には必ずそれ相当の沙汰(罰を与える)をする。』

上記の通り、先年指示したにも関わらず、年を経るに従い心得違いをしたり、悪者をみてもそのまま放置している、・・・など良からぬ風聞がある。
最近、郷方(村々)で押借りが発生した時も捕縛はもちろんのこと犯人の行方の確認も行われていない。
全くもって普段の約束事が等閑(なおざり)にされている。
今後は悪事を働いた者が居ったならば対応を後回しにせず事前に定めた合図により大勢集まって打ちのめそうが、打ち殺そうが然るべく対処をすること。
もし、ここまで至らず逃してしまった場合は、犬に追わせ悪者が行き留まるまでどこまでも追掛けて所在を確認すること。
以上の対処について、その内容次第でお上より然るべく褒め称えられることになるが、もしも等閑(なおざり)にしているような事があったなら必ず報告すること。
このことについて郷方(村々)の者へもう一度申し渡す。
     2月

別紙(上記の内容)の通り、平右衛門殿(御郡奉行?)からの指示について村々洩れなく通達すること。
右のとおり指示するので本書を山濱通りの各組大庄屋へ持回り、最後の大庄屋から当方に戻すこと。
     2月8日                   茂兵衛  
                             金右衛門
  温海組大庄屋 本間吉兵衛殿

●2; 大庄屋 本間吉兵衛から配下村々の肝煎に宛てられたお達しの表書き

別紙写しの両通(前のお達しと今回のお達し)のとおりご指示が届いた。
肝煎りの皆々、お上の意向を全ての百姓に徹底すること。
もし、悪人等が押入ってきた時には大声で合図し大勢が集まれるよう事前に打ち合わせし準備をしておかれるように。
以上の通り通知するので早々に本廻状を各村々持回り、最終の村から当方に戻すこと。
    2月12日            (温海組大庄屋) 吉兵衛

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< 考察してみましょう >

 庄内藩においては治安維持を誰が担っていたのだろうか?

押借りしそうな怪しい者を見たら町方でも村方でも住民が大勢集まって捕まえろ!!、 抵抗したら打ちのめせ!! 場合によっては打ち殺しても構わない! ・・・・というお触れです。

庄内藩においては支配階級である武士達は警察行為に従事しないのが基本なのだろうか。
庶民達にかかわる治安維持活動は領民自身が協力して行うよう指示し、うまくやったらご褒美をやろう、知らんぷりしたら罰するぞ ・・・といった藩庁側としては極めて安直な対応です。

もっとも、領内の治安は平生にあっては相当に平穏で事件らしきことは滅多に起きることがなかったのであろう。
領民達はお上からの度重なるお達しにも関わらず治安維持活動に殆ど関心を示さずまるで無視を決め込んでいる風すらみてとれます。
今回のお達しで問題にしている犯罪も”押借り”ということですから、場合によると生活にひどく困窮した者が結果として止むを得ず犯してしまった罪なのかもしれません。
自らが直接危害を加えられているのならともかく平和に暮らしている者がちょっと怪しげな見知らぬ人であるからといってそう簡単に人を打ちのめしたり、殺したりすることなどできるものではありませんよね。

江戸時代は武士階級が庶民を厳しく支配する専制政治であったような印象もあるが、平和な時代が長く続く中で幕末期においては ”建前としては厳しく振る舞う” けれども ” 実運用としてはかなりゆるゆる” というのが実態だったように見受けられます。
現代においても政治は云うに及ばず、役所・市民双方に共通して存在する日本人の ”事なかれ” の姿勢は、この頃に培われたのかもしれません。
根が深いとも云えるけれど、・・・・でも、これでもやっていける日本というのは本当に素晴らしい国なのかも・・・・ ね。

これ以降も、同様のお達しが出るかのかどうか、「御用留」の内容が楽しみです。


< 御用留 原文 >

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初心者の古文書 ; 一緒に楽しみませんか

[実俣村(鶴岡市山五十川)につたわる御用留]文久4年(2月)13番目のお達し
                                                               (1864年)

新御殿造営のための御用材調達について具体的な指示が来ました

新しい御殿の造営が具体的に動き出したようです。

木挽き職人は、そろそろ準備するように!! 仕事が始まるぞ!!
山師が各村々に行って木材伐採買い取りの交渉を始めるので、村方はこれを無視しないで売却を具体的に検討するように・・・・・。
山師にはあこぎなことはするな、誠実に対応するように、と言ってあるので信頼して売却交渉をするように・・・・。
山師が買い入れ対象にしている山に限らず、その他の土地の立木についても積極的に買い取りの要望を出すように・・、 とのこと。

大庄屋 吉兵衛さんは、かなり積極的な感じです。

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< 御用留 本文 >

以廻状申達候然者
御新殿御用材木挽方御用ニ付各村々木挽之
内右御用ニ取懸候御沙汰ニ候間右様可被相心得候
山師宅兵衛惣左衛門又吉之三人追々各江相談可致
筈ニ付御用材御差(置?)ニ不相成候様(返?)沙汰可被
致候尤上中下も有之ものニ候得者村々迷惑ニ
不相成様各々馴合相談いたし候様右三人江申付
候間相含(?)相談可被致候右申達候早々順達
留ゟ可被相返候以上
    二月十一日         吉兵衛
 肝煎 長左衛門   同 権四郎    同 源左衛門  
  同 善太郎    同 源助     同 徳左衛門  
  同 金左衛門   同 治朗右衛門  同 重三郎

今般
新御殿御普請御用材之義兼而支配山師
共三人江請負被仰付候處右御用材多分
之品々ニ付何連之村々ゟ歟伐出可申筈最早
元伐之節ニも相成候へハ弥元(普?剪?)可致之族ハ
木数相当之取調を以早々願書可被指出候
尤右三人之者買入山ニ不限其外とも元剪
願度心組居候者ハ猶豫不致右同様取調
願書為差出候様各村内最寄面々相糺可被
願出候此段御内意も御座候ニ付申達候右の申達
早々順達留ゟ可被相返候以上
   二月十二日          吉兵衛

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          山五十川(実俣村&蕨野村)の山林


< 現代文にチャレンジ >

●1; 庄屋本間吉兵衛から2月11日付で配下の村々(12ヵ村)に通達された文書

廻し文により通達する。
新しい御殿造営に向け用材づくりの木挽き作業を行う各村々の木挽き職人は仕事に取り掛かるようにとのご指示なのでその心づもりでいること。
また、山師(山林の伐採・売買を業とする者)の宅兵衛、惣左衛門、又吉が、これから追々皆様方と(立木売買の)相談をすることになっているので御用材の提供について我れ関せずとの態度をとらないようにせよ、 とのご指示である。
もっとも木材については上中下といろいろあるので村々の住民が迷惑になることのないよう山師達には皆さん方と懇意に十分話し合うよう伝えてあるのでその旨含み置かれ協議するようにしてもらいたい。
     2月21日                  吉兵衛
 肝煎 長左衛門様   同 権四郎様   同 源左衛門様
  同 善太郎     同 源助     同 徳左衛門  
  同 金左衛門    同 治朗右衛門  同 重三郎

●2;  翌日の2月12日に追加して大庄屋から発せられたお達し

の度の新しい御殿建設のための用材調達については、かねて配下の山師へ請け負わせているが、必要となる用材の量が多いので何れの村よりかそろそろ伐採を始める時期になってきた。
いよいよながら、木材の切出しに応じる者は木の数をしっかり調べて早々に買い上げ要望書を指し出すこと。
また、3人の山師が買い入れの対象としている山に限らず、その他の土地にある立木についても売却を考えている者があれば、ぐずぐずすることなく立木の状況を調べて前同様買い上げ要望書を指し出すこと。
上記につき、各村内の山林所有者に確認をとり買い上げ要望書を纏めること。
お上からの内々の意向ということなので通知する。
この通達は早々に各村々を持回り、最終の村から庄屋宅に戻すこと。
   2月12日        吉兵衛

< 考察してみましょう >

 この達しに盛り込まれている内容について

この通達は、新しい御殿をたてるための木材の調達と建材加工に関するものです。
内容は、次の3点から成っています。

1つ目 ; 木を伐採した後、木材を大きなノコギリで引いて建築用材に加工する木挽き職人にそろそろ仕事が始まるので用意するように、との指示。

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                木 挽 き

2つ目 ; 山師が立木の買い付けを始めるので、山林を保有する者はこれを無視することなく対応するようにとの指示。  山師にも誠実に対応するように伝えてある旨の付記。

3つ目 ; 山師が買い入れの対象としている山に限らず、他の土地にある立木についても積極的に買い入れてもらうよう要望書をだすように、との指示。

 新しい御殿とは・・・

ここで示されている新しい御殿とは、当ブログ 2番 でご紹介した 文久3年(1863年)に11代藩主酒井忠発(さかいただあき)公が隠居所として建てた御隠殿のことを指すのではないかと推察されます。
文久4年(元治元年)正月一番に発せられたお達しは、この新御殿の壁材である木舞竹(こまいたけ、竹木舞とも云う)にするための苦竹(真竹)8万本の調達指示でした。
そして、2月になり今度のお達しでは、具体的な数こそ示されていないもののかなり大量の木材調達に関する内容が示されています。

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                 御 隠 殿

御隠殿は前藩主酒井忠発(さかいただあき)公の隠居所であり、江戸屋敷の一部を鶴ヶ岡城内に移築したものとされているので、これまでは節約意識の高い立派なお殿様とばかり思っていました。
しかしながら、この認識はちょっと違っているのかも・・・・。

この時期、庄内藩は幕命による蝦夷地警備で莫大な出費を強いられていた筈であり、こうした中で大規模な御殿の新造営が行われていたのであれば、さてさて如何なものかと思わずにはいられません。
江戸から移築した屋敷についても、節約意識でそうしたのではなく、只々個人的に愛着深い江戸屋敷の特に思い入れの深い部分を高額の運賃をかけ遠路運ばせたのではないかとも思ってしまいます。
身勝手な単なる贅沢三昧なのでは・・・・・?

・・・・とは言ってはみたものの、大庄屋 吉兵衛が発したお達しをみると、お上の意向にかなり積極的に対応するようにとの指示。  このような大規模公共事業は滅多に出ないので細かいことは抜きに何はともあれ現金収入に繋がる工事が行われるのであれば大歓迎だったのかもしれません。

正直のところどう評価して良いの?? ・・・・・ 判断に迷います。

 山師について・・

子供時分のことになるが、どこからともなく大人たちの ”山師” に対する良からぬ風評を耳にしたものです。
「長年かけて大事に育てた山林を安く買いたたき、これを高く売って大儲けをする」 、 これを分かっていながら結局は山師の言いなりにならなければならない悔しさ・・・・、」

大庄屋 吉兵衛が、山林所有者に 「山師には誠意をもって交渉にあたるように言ってある。 山師からの申し入れを無視しないように 」・・・と、敢えて通達に付け書きしたことから推察するに、こうした住民感情は江戸の昔から継続してあったということなのでしょう。

根が深い、とはこういうことを言うのかもしれませんね。
もっとも、山師にも言い分がある筈ですが・・・・。

経済行為には人間の感情が強く作用するのでなかなか難しいものです。


< 読めない文字、意味が分からない文字 >

元伐 ・・・・ ”はじめ切り” ではないですよね。


< 御用留 原文写し >

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[実俣村(鶴岡市山五十川)につたわる御用留]文久4年(2月)12番目のお達し

お上(藩)の山濱通り担当役人が代わった、  ・・・との通知です。

庄内藩の人事異動の季節なのでしょうか。
実俣村が属する山濱通りを担当するお役人が代わった、との通知が届きました。



< 御用留 本文 >

●1; 新任のお役人 片桐治郎吉から 大庄屋 本間吉兵衛に宛てられたお達

私儀今度山濱通御用取扱候様被 仰付候
目今返被仰合被下度達(?)候此段村役人
共江も為相心得可被下候右御次値旁可得御
意如此御座候以上
   正月二十七日       片桐治郎吉
 本間吉兵衛様

●2; 温海組大庄屋本間吉兵衛から配下の村々の肝煎に宛てたお達しの表書き

右之通各為承知申達候已上

   二月十一日      吉兵衛
  各


< 現代文に・・・ >

●1; 新任のお役人片桐治郎吉から 大庄屋本間吉兵衛に宛てられたお達

私、この程、山浜通りのご用向きについて担当することが決まったので、このことを村役人達に知らせてもらいたい。
次の山濱通りの担当を務めるようにと、以上のとおり藩庁が決定されました。
     1月25日                 片桐治郎吉

●2; 温海組庄屋 本間吉兵衛から配下の村々の肝煎に宛てたお達しの表書き

右の通とおり通達が届いたので皆様方承知しておいてください
     2月11日             吉兵衛
   皆様方へ


< 考察してみましょう >

 山濱通りについて

庄内藩は現在の山形県の日本海側にめんした庄内地方の全域を領地としており、飽海郡と田川郡から成ります。
この領内の地域行政として最上川以北については遊佐、荒瀬、 平田の3郷、そして最上川以南を狩川、中川、櫛引,京田、山浜の5通りに区割りし、夫々に2人の代官を置き支配した、とのことです。
上記の片桐氏は郡奉行所に属した山濱通り担当の2名の代官のうちの1人であった、ということかもしれません。

これまでの代官は、茂兵衛と金右衛門であったと思われるのでこのうちの1名が交替したということでしょうか?
この後のお達しの発信人が、どのように代わっているのか・・・・・???

  読解できていない部分について

この部分 ”目今返被仰合被下度達(?)候 ” をどう読むか?
文字通りでは意味が掴めません。 
素人考えではありますが・・・・
自今乍恐被仰合被下度奉存候
    ・・・・ではないかと思っているのですが、自信はありません。
どなたか、下に示す原文をご覧になってご教示頂けると助かります。


< 御用留 原文 >

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]文久4年(2月)10、11番目のお達し

 春、宗旨人別帳の改定時期になったようです

2月は現在の戸籍に相当する宗旨人別帳の改定時期のようです。 
2月1日(朔日)に給仕人と旗指のものを、そして2月11日には一般百姓のものを提出するよう大庄屋吉兵衛殿から実俣村にも指示が届きました。

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< 御用留本文 >

●1;  2月1日付で大庄屋吉兵衛から配下の村々に発せられたお達し

以廻状申達候然者各村々寺院修給仕人宗旨
證文人別帳上り扣幷御籏指共宗旨證文共
拙方致出来候間右面々当月六日七日両日中
致直印候様不快彦合之積者其段書付相添
右日限無間違印形指出候様通達可被致候
右廻状弐通ニ而申達候間早々順達留ゟ可被相返候
                        已上
   二月朔日          吉兵衛

●2; 2月11日付で大庄屋吉兵衛から配下の村々に発せられたお達し

以廻状申達候然者當子年御百姓共宗旨人
別帳取調方新帳ニ而御改被 仰付候間各村々
扣帳同組ハ勿論他組共縁組手形為取替
等無間違年付増減等慮入念相調三月六日迄
右調へ取懸候各古帳も持参無相違我等方へ
可被差出候右廻状弐通ニ而申達候間早々順達
留ゟ可被相返候以上
    二月十一日        吉兵衛

   猶々村々家順幷増家或者是迄書上落相出居候
   人家等有之候ハハ勿論都而無落調出し人数合男女
   等ニ至迄都而入念取調閑夜取可被差出候若落入(?)候儀も
   有之候ハハ伺出可申候右申達候已上


< 現代文にチャレンジ >

言葉の意味や言い回しについて理解できないところがあります。
ですから、現代語訳が正しいかどうかちょっと自信がもてませんが一応がんばってみます。

どなたか手助けして頂けると嬉しいのですが・・・・、


●1;  2月1日付で大庄屋吉兵衛から配下の村々に発せられたお達し

廻状により通知する。
さて、各村々の寺院修給仕人宗旨人別帳の上り控えと御籏指達の宗旨證文共、庄屋の方で出来上がったので右の給仕人、旗指達は当月(2月)、6日・7日中に捺印するので異論(不快な事項?)があればその旨書いた書面を添付して期限までに印鑑を指し出すこと。
この廻状は2通作成し回付する。 早々に各村々を持ち参り最終の村から本状を庄屋宅へ戻すこと。
    2月1日            (庄屋)本間吉兵衛
  肝煎殿

●2; 2月11日付で大庄屋吉兵衛から配下の村々に発せられたお達し

廻状により通知する。 
子年にあたる当文久4年、お百姓達の宗旨人別帳を調べ直して新たな帳簿にするようお上からの指示なので各村々は控え帳に同じ組はもちろん他の組共、縁組(婚姻)証明書を取り替えるなど間違いなく1年間の増減を十分なる考えのもと念入りに調べて3月6日まで庄屋まで届けられるよう業務に取懸ってもらいたい。
新たな宗旨人別帳を提出する際は、今までの古い帳簿も併せて提出すること。
     2月11日            (庄屋)本間吉兵衛

   (追伸) なお、各村々の家の順番や増加状況 或いは これまで帳簿
       に記載漏れとなっていた
       家などがあればもちろん全て調べ直すこと。
       更に、各戸の合計人数、男女の別等々に至るまで全て入念に
       調べ直し、閑することな人別帳をまとめ提出すること。
       何か不都合があれば伺い出るように。
       以上のとおり通達する。


< 考察してみましょう >

考察してみましょう、とは言ってみたもののこの部分については十分に読解できていないのでどうしたものか???   分からないなりの考察ということで・・・・・・。

その前に、”宗旨人別帳”とは何かについて辞書を書き写しておきます。

江戸時代、幕府がキリシタン信仰を禁止するために設けた制度で、家ごと、個人ごとに仏教信者であることを檀那寺に証明させた宗門改めに基づいて作成された帳簿。  同時に戸籍簿としての役割も果した」


●1;2月1日付で庄屋吉兵衛から配下の村々に発せられたお達しについて

  先ずは、とっかかりの ”寺社修給仕人” というものが、具体的にどんな人を指すのか分かりません。
給仕人とは一般的に給仕を行う人で、食事や宴会などの席において、お客や主人のそばでお世話する係と思うが、ここにご出場の給仕人とは具体的にどのような人々のことを指すのであろうか???
藩庁等で下働きとして給仕でもしていた人ということなのだろうか?

 ”上り控え” とは、お上提出の人別帳の控えとでもいうのでしょうか。 

 ”旗指” とは辞書によれば 「 戦場で、主人の旗を持って供奉(ぐぶ)する 武士” とあるが、庄内藩においては、幕末のこの当時、人件費抑制のためと思われるが正規雇用の武士階級ではなく、屈強な身体の農民が非正規雇用として雇われその任に当たっていたようです。
もっとも、戦争のない時代なので本来業務としての籏を持つ機会も少なかったであろうから、たぶん城内の力仕事を中心とした雑用などを行っていたのかもしれません。
普段は、奴さんのようなイメージであったと推測されるので或いはかなりの荒くれでもあったのでしょうか。
相当数の旗指が、我故郷の実俣村や蕨野村など温海組から出ていたようです。

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 事務手続きについて”
このお達しの文章からは、「給仕人」の宗旨人別帳と「旗指」の宗旨を示す証明書は庄屋のところで作成しそれに各村の肝煎の印鑑を押す、というようにも受け取れます。
(そうでないのかもしれません) 
「給仕人」および「籏指」は、藩の御用を勤めている、ということでこうした取り扱いが成されていたということなのでしょうか。
専門家のご指導を仰がないと残念ながら全く判断がつきません。


●2; 2月11日付で 庄屋吉兵衛から配下の村々に発せられたお達し

 このお達しこそが、宗旨人別帳の定期的な改定作業を示すものなのでしょう。

 改定作業を行うに際し、お達しの本文記載留意事項としては婚姻にかかわることが挙げられています。

同組とは温海組内、他の組とは温海組以外と理解され、また 「縁組手形取り替えさせ」とあるのは婚姻の結果生ずる人別帳の書き換えにあたっては檀那寺から発行された証明書の取り扱いに十分留意せよ、ということなのかもしれません。
檀那寺の違った者同士の結婚であれば移動の証明、そして婚姻により新たな世帯が生まれたり、死亡に伴い消える家など多様で煩雑な取り扱いが多々あったものと思われます。
よくよく考えて入念に調べるようにとのお達しです。

 また、猶々書きとして・
家順のこと、家数の増減、これまで記載漏れになっていた人家、各戸毎の人員数、男女の別など全て洩れなく閑を惜しんで入念にしらべるようにと付け加えた形で改めて念を押しているところをみると十分留意したつもりであっても実際のところ完璧に仕上げることが難しかったのかもしれませんね。


< 御用留 原本 >

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]文久4年(正月)9番目のお達し

緊急!! 未開の蝦夷地で働く職人さん大募集。

ロシア軍艦到来に備えて庄内藩は幕府から蝦夷地警備を命じられました。
そして、浜益から天塩までの西蝦夷地が領地として与えられ当地の開墾も併せて行うことになります。
当然ながら軍人としての武士だけでは任務が果たせません。
陣屋や道路・運河などのインフラ建設の作業者として、開拓農村の経営等々、職人の存在がなければ事は進みません。

「急ぎ蝦夷地行きの職人を集めよ!!」・・・と蕨野村にもお達しが届きました。
職種は郷夫、郷夫取扱い役人、大工、葺師、木挽き、桶師、作(図?)師、とのこと。

だが、応募する者が殆どいなかった、・・・のだと思われます。
2度にわたって緊急のお達しです。

外国からの圧力が幕末の出羽庄内の庶民にも大きな影響を与えたことが分かります


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<御用留 本文>

2度のお達しですが、先ずは初めのお達しから・・

●1-1; 温海組庄屋吉兵衛から配下の村々の肝煎りに宛てたお達の表書

急以廻状申達候蝦夷地下り諸職届之
もの有無相糺申上候様別紙写之通御
達ニ付各村々入念承糺相届候右御取
急ニ付廻状弐通ニし而申達候間早々順
達留ゟ可被相返候已上
    正月二十八日     吉兵衛
  肝煎

●1-2; 庄内藩庁の山浜通担当の代官から配下の大庄屋に宛てたお達し

當年下り蝦夷地郷夫大工葺師木挽
桶師作(図?)師右職仕心得候者ニ而届之
もの有無相糺し可成丈永住ニ而妻子
召連候なれは(?)キ御沙汰ニ付早々相
糺し可被申聞候被下向者是迄之通(ほ?)彼
地職道格別之者ハ作(数?)外増三人扶
持被下候由右可被申達候此段申達候早々順達
留ゟ可被相返候以上
    正月二十四日         茂兵衛
                   金右衛門
  吉兵衛殿


追加で出たお達し

●2-1; 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てたお達の表書

急廻状を御申達し候別紙写之通御達
ニ付村々相糺有無之訳共書付を以此状
達次第取急我等方へ可被相届候右廻
状弐通ニ而申達候間早々順達留ゟ可被相
返候已上
    正月二十九日        吉兵衛
  肝煎

●2-2; 庄内藩庁の山浜通担当の代官2名が連名で配下の大庄屋に宛てたお達し

当年下り蝦夷郷夫取扱役人随分差
働候者弐人名前書出指出候様御沙汰ニ付
相糺し届之者有無取急可被申聞候右
申達候順達留ゟ可被相返候以上
    正月二十六日       茂兵衛
                 金右衛門
  吉兵衛殿

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                浜益の庄内藩陣屋跡


< 現代文にチャレンジ >

蝦夷地に赴く職人(郷夫・大工・葺師・桶師・作図?師)がいないかどうか調べるようにと各村々に立て続けに2回お達しが出されました。
藩庁から発せられた1月24日のお達しに郷夫取扱役人のことが洩れていたため2日後の26日に追加で通達されたようです。

幾つか読めない字があるので現代訳は少々違っているかもしれませんが・・・・・

最初のお達し

●1-1; 温海組大庄屋本間吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状

緊急で廻状により通知する。
蝦夷地に赴きそこで働いてもよいとする職人の届出についてその有無を確認し報告するようにと別紙写しの通りお達しがあった。
各村々は入念に確認し届け出てもらいたい。
このことは非常に急ぐので廻状を2通作成し2つのルートで各村々に回付する。
廻状は順送りに持回り早々に最終の村から当方へ戻すこと。
   正月28日           吉兵衛
 各肝煎殿

●1-2; 山浜通担当の代官2名が連名で配下の大庄屋に宛てたお達し

郷夫、大工、葺師、木挽き、桶師、作(?)師の技術を持つ者で、今年度、蝦夷地に向かっても良いとする届出の有無を確認すること。
これらの者が蝦夷地に向かうにあたっては永住が基本になるので妻子を連れて行くことになるため以下に示す条件が付されることをしっかり伝えた上で早々に希望を聞くこと。
その条件とは、蝦夷地において格別仕事に励めば約束の報酬に加えて3人分の食費に相当する手当を支給するということである、とのこと。
以上のとおり通知するので配下の村々に通達すること。
早々に本書を回付し、最終の所より返却すること。
   正月24日         茂兵衛
                 金右衛門

二日後に追加で出されたお達し

●2-1;

急ぎ廻状にて通達する。
別紙写しの通りの藩から指示が来たので各村々は確認の上、希望者の有無を書面に認め、この廻状が届き次第急いで当方に届け出るように。
特別に急ぐ用件なので廻状を2通作成し回付する
以上のとおり通知するので廻状を早々に各村々持回り、最終の村から当方へ戻すこと。
     正月29日         吉兵衛門
  各肝煎殿

●2-2;

今年、蝦夷地に下る郷夫取扱役人として有能な働きができる者2名について名前の書いた書面を差出すようにとのご支持である。
調べた上で至急希望者の届があるかどうか聞いてもらいたい。
以上通知するのでこの廻状を村々申し送り最終の村から戻すこと。
     正月26日             茂兵衛
                       金右衛門
   吉兵衛殿


< 素人なりに考察してみましょう >

  庄内藩と蝦夷地警備

安政元年(1854年)に日露和親条約が締結された後もロシアの南下政策が強化され幕府は東北地方の諸藩に蝦夷地の分割警備を命じました。
庄内藩にも安政6年(1859年)、幕府から西蝦夷地に領地が与えられ当領域の統治と400KMにも及ぶ日本海側の沿岸警備を行うことになります。
出先拠点として現石狩市浜益に陣屋を築き警備要員として200~300人くらいが送り込まれたようです。

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しかしながら、殆ど未開の原野に住みつく訳ですから武士だけでどうとなるものでもありません。

先ずは木を伐り、抜根し、整地し、家を作り、生活用品も現地でできる限りのことはしなければならなかったでしょうから大変な力仕事、職人仕事を必要としたはずです。
武士階級の人達よりもこうした一般庶民の人々の方が員数としてはるかには多かったのではないでしょうか。

それにしても移住者は雪国生まれといえども蝦夷地の冬は格段に厳しく感じられた筈。

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                       蝦夷地への入植はこんな状態からスタートしたのでしょう


こうした中にあって庄内藩は蝦夷地領内の開拓も目指し、早くも入植から5年目にあたる文久4年改め元治元年(1864年)には、道央で最も早い水田耕作を行ったとのことです。
多くの農民が動員され血のにじむような苦労が重ねられた結果であり東北人の粘り強さ、不屈の根性が偲ばれます。

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                                          浜益風景


幕府からの命令は庄内藩にとって財政的にも大きな負担になったと思われるが、一般の領民にも大きな影響を与えたことがうかがい知れます。

 
  文久4年の職人募集について 

入植して5年目にあたる文久4年(1864年)には寒冷地の蝦夷地(浜益)で米作をスタートさせた、とあるので非常に厳しい状態ながらも現地の暮らしはそれなりに落ち着いてきたのかもしれません。
こうした中で、不足する職人を追加して送り込んでもらうべく現地の陣屋から出羽庄内の藩庁に要請があったものと思われます。
郷夫と郷夫を束ねる親方2名、大工、木挽き、葺師、桶師、作(図?)師と具体的な名称が示されています。

・郷夫とは農村から募集された力仕事をする者でいわゆる人夫、或いは土方
 とでもいう人のことでしょうか、
・大工は説明するまでもなし
・木挽きは伐採した立木を大鋸でひいて建材へと加工をする者
・葺師は茅葺屋根を作ったり葺きかえたりする職人
・桶師は桶づくり職人
・作(図?)師は、真ん中の字が勉強不足で読めないので分かりません

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                 木挽き

募集される職人は基本的に永住することが前提であったようで、腕がたちよく働き、しかも妻子を連れて行けば決まった報酬の外に3人分の扶持(米15俵)が別に支給される優遇策が示されてもいます。

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                             葺 師

いずれにしても、大変急いでいたようで温海組では廻状を2通作成し2つのルートで緊急に回し募集活動に協力した様子が分かります。

  蝦夷地に渡った庶民達のその後は・・・・・

さて、庄内藩から蝦夷地に派遣された武士階級の者は、この後、戊辰戦争が勃発したことで全員が内地である本拠、庄内(鶴岡)に戻った、と記録されています。
残された庶民は、蝦夷地定住を基本に半強制的に募集された者達なので恐らくは大半がそのまま当地に留まり骨を埋ずめることになったのでしょう。
(武士階級の者よりも徴発された庶民層の方が人数として多かった筈)
庄内藩としては幕命による政策実施であり途中で引き揚げることなど予測だにしなかったことではあろうが、ともあれ為政者側にはいろいろ大義があるにせよ庶民の目線からすれば政治とは結局のところ気まぐれであり無責任極まりない。
ある意味、庶民・国民を守るといいつつ結局は庶民・国民を犠牲にすることで成り立っているのが政治とも云え、これは江戸の昔も現代も変わらぬ構図なのかもしれません。
そういう観点で考えてみると、政治とは進化論から最も遠いところに存在する世界とも見做されましょう。


< 御用留の原本 >

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