本日(6月5日水曜日14時〜15時40分)、池袋の東京芸術劇場でエリアフ・インバル指揮都響のコンサート。昨夜(サントリーホール)と同じブルックナーの交響曲第9番第4楽章付(第3楽章まではノーヴァク校訂版、第4楽章は2021ー2022年SPCM版)の演奏。第4楽章だけかなり予習したが悪くないと思った。しかし前夜の第4楽章の評判があまりに悪かったので、そんなこともあるまいと出掛けてみたのだが、やはりこれは余計というか、無用の長物だと同感。

第3楽章までが超絶的名演だっただけに、残念。第4楽章の途中で退出する客が5人ほど。

それにしても、都響の機能性の高さには唖然とした。コンサートマスターは、同楽団の支柱ともいうべきソロ・コンサートマスター矢部達哉ではなく山本友重、やはり支柱の一人であるオーボエ首席の広田智之も不在で本日の首席は鷹栖美恵子だっただけに尚更だ。フォルティッシモは、いつもより音力1割増しだが、ダンゴにならずキレイに分離して聞こえる。弦楽器の奮闘が涙ぐましいほどだ。それにミスが聞こえない凄まじい集中力。これは2000年11月12〜14日に聞いたオペラシティコンサートホールのヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団の高みに並ぶ凄演かもしれない。あれから24年。ヴァントも当時88歳、今日のインバルも88歳。ヴァントのフォルテも凄かったが、音力はこちらが上か。2階センター3列目だったが、まさに直射という感じだった。ヴァントの呪縛から解き放たれたような気持ちになったほど。ヴァントの後期ロマン派的アプローチに対して、やはり現代的ではあるが。独断だが、ヴァント=キリスト教的、インバル=ユダヤ教的という違いなのではないか。バッハの受難曲の嘆き、悲しみ、憐れみ、贖罪といったものと通底するヴァントに対して、インバルにはそうした通底はなく、変な例えだがアウシェヴィッツとかスターリンの粛正とかそうした20世紀の残虐で悲しい歴史がフラッシュバックしてくるのだ。この日の第2楽章はまさにそんな地獄絵だった。

ともあれ、第3楽章まで素晴らしい演奏を久しぶりに聞いた。


演奏後のインバル。今年のマーラー交響曲10番の演奏後もこんな感じだった。どうもこれがお得意のポーズのようだ。



第4楽章のSPCM版作曲の4人のうちの一人ジョン・A・フィリップスが演奏終了後にステージに登場。ブーは出なかった。