chihiroイグレシアスの ぼんくら日記 -5ページ目

富士スピードウェイ50周年イベント ~1976年にタイムスリップの巻 ~

なんかもう忙しくて、気が付けばもう4月って、こりゃ何てこったい。

でも、そんなに忙しかろうが何だろうが、どうしても行かなければいけないイベントがあったので、行ってきましたよ。「富士スピードウェイ50周年イベント ・ 富士ワンダーランドフェス」。

 

懐かしのレーシングカーが集結、疑似レースもやったりと云う、最近よくあるイベントなんだけど、キモは何と言っても 1976年に開催された、本邦初の F-1レースの主役だったロータス77、マクラーレンM23、フェラーリ312T2がやってくる、走るという点。

しかも、全て実際にそのレースを走った実車が来ると云うのだから、「こっ、これを逃したら一生後悔する!」 と、イベント翌日を休みにしてまでスケジュール確保、えっちらおっちら、愚息と二人でランボルギーニ・ラパンで行ってきました。

最初に言っておく、今回は長文だよ。

 中坊のガキの頃から小田急と御殿場線、バスを乗り継いで通った富士スピードウェイは、仙台に引っ越したこともあって、きっちり20年ぶりの再訪。 前回は確か、ミニのイベントで行ったはず。



三菱地所からトヨタに買われた時点で施設は完全に造り変えられてしまったけど、全体的な佇まいは一緒。 新装後初めての訪問だけど、まるで何度も来ているサーキットのように歩き回ることができました。 ちゃんと昔の雰囲気を残してくれてありがとう、トヨタさん。

さて、まずは自由に入れたピット裏から各マシンの展示を見物。 右京が駆ったローラは、いま見てもなかなかにフォトジェニック。

  

あああ、憧れのフェラーリ312T2、それもラウダが乗った個体・・・・あれ? 76年仕様ではなく、77年仕様、しかも後半仕様のカウルが付いている・・・?

  

これが76年仕様。 ラム圧を発生させるためのダクトが大きい仕様が76年の特徴、世間では 「カッコいい方のT2」 と呼ばれているヤツ。 これが来るのではなかったのか!!  どうなってんだよ富士SWさん!

  

・・・・・まあ、いろいろ事情があるんだろうけど、76年仕様が観たかった。 だけど実は、世間が何と言おうが、ワタクシは77年仕様、しかも後半仕様が一番カッコいいと思っているので、それが来たってのは結果オーライ。

個体としては、77年の日本GPにスペアカーとして上陸するも、実走することはなかった個体とか。 来日しなかったラウダは勿論、ロイテマンもヴィルヌーヴ (オヤジの方ね) も、ここ富士を走ることはなかった個体。 う~ん、なんかビミョウな気分。

それにしても今でも疑問なのは、これで本当にエンジンのエアファンネルにまで空気が入り、ラム圧が発生していたのだろうか。 当時の最新の空力トレンドだったNACAダクトを備えているが・・・・? 



周りの人物との対比に注目。 当時のF-1マシンの小さいこと! いや、いまの F-1がうすらデカくて長っぽそいだけか・・・。
 
 

驚いたのは、エンジンを始動するのに、市販フェラーリと同じメーカーと思われるセルモーターを使っていること。 旧いフェラーリの市販車は 「クー・・・・」 と云う連続音で回るモーターを使っているんだけど、あの音が響いたので 「あれ? セルモーターで始動なんだ、エアスターターではないんだ」 と、目からウロコ。

  

何度やっても始動しないので、スポイトの親分みたいなのを使って直接エアファンネルにガソリンを掛けている、の図。 これをやったら、傲然とエンジンが掛かりました。 威厳のある音にムネアツ。

午後にやった疑似レースでは、「ぱおーん」 という快音を響かせながら走っていたけど、最近の何万回転も回るエンジンみたく 「くぅおーん」 という音じゃないのが、いささか拍子抜け。個人的には、あまり心に響かない音だったな。

フェラーリにばかり人が群がり、さっぱり人気が無かったのがマクラーレンM23。 ジェームズ ・ ハントが実際に搭乗、ここ富士でタイトルを奪取したクルマそのものなのに。 そのヒストリー性を考えれば、時価は数億はすると思われ。

  

「ストーカーズーム」 でアップ撮影のエンジン。 フォードではなく、コスワース名義のヘッドカバーが付いています。

  

今回のイベントで参集したマシンのほぼすべてが、あくまで「実走可能」の車両であったのに対し、現役バリバリのマシン、ロータス77。
 
 

現役バリバリ、と云うのは、このマシンは現在もヒストリック F-1マシンを使って開催される公式戦に出て、優勝までしている個体だから。

実験的に過ぎ、ドライバーを悩ませたサスペンション。アジャスト領域が広いコトがキモであり、そしてウィークポイントだったと聞きます。

  

これの田宮のプラモを造ったガキは世界で何万人いるのだろう。 未だにちょいちょい再販されるほどの大人気マシン、ウルフWR-1。

  

デビュー戦でいきなり優勝、値千金のモナコでも優勝、そしてチームの本籍があるカナダでのレースでも優勝と、出来過ぎの感さえある戦績。

  

広島のとあるヒストリックカー専門ショップが買い取って、実走状態にまで仕上げたと云うが、本当に感謝。 あのウルフを間近で観れる日が来るなんて・・・。

  

こ、こ、これも来たか! のコジマ007、日本レース界の至宝。どう至宝なのかは、拙ブログの 「下町 F-1に世界が驚愕 ・ 壱 - 参の巻」 をお読み頂ければ、少しはお解り頂けるかと。

  

それにしてもこのマシン、製作したコジマ側と、レストアした某ショップとの間で真贋論争が繰り広げられているとか。 あの、76年のレースを走ったシャシーそのものではない、と云うのがコジマ側の主張なんだけど、「そんなの、どうでもいいよ」 で済ませる訳にはいかない、歴史上非常に大事な部分で見解の食い違いだけに、ファンとしては哀しい事態。 解決できないモンでしょうか?

白目 & 失禁モノの国産 F-1、マキ。

  

当時の目で観ても珍妙だったと言われる、プロトタイプスポーツカーとフォーミュラカーを足して二で割ったようなカウル、ちゃんと冷えるのか? と突っ込みたくなるラジエターの配置。 見るからに重そうだけど、実際に重かったというカウルは、工作技術が低かったから、ぼってりと厚みがあったと聞いています。

これが軽井沢のタイヤショップに、集客用のディスプレイとして外壁に張り付いているのを見たときは、目を疑ったけど、ちゃんとレストアされてよかったね。

 

ディスプレイ当時の画像。何をしよるねん!

謎が多くて、海外メディアにも 「ミステリアス ・ マキ」 と称されたマキ F-1チーム。 いわゆるベンチャー企業のアドバルーンとして F-1チームを結成したと云うが、監督やドライバーが劇画に出てくるような偽名を使ったり、だけどマシンは予選も通らないようなマシンだったりと、胡散臭いにも程があるチームだったようです。

憧れの F-2マシン、ペンタックスNOVA532P。 

  

メタメタに速くて、星野一義をチャンピオンに押し上げた名機だけど、製作者の由良拓也いわく、「ヨーロッパ遠征の時は、彼の地を走っている最新の F-2マシンと比較して、あまりに旧い設計に自分でも嫌気がさし、恥ずかしくてカウルなんて開けられなかった」 と云うのだから、解らんモンですな。

その由良拓也の名声を確固たるものにした名機、ムーンクラフト・スペシャル。 通称 MCS ー 1。

  

個人的には、このMCSと38年ぶりに再会できたことが、今回のイベントのキモだったな。 中坊だったワタクシが、コースサイドの金網にへばり付きながら、食い入るように見つめていたのが、このマシン。

  

この辺になると、「伝説のビッグマシン」 という認識のみ。ローラT70。

  

「TNT対決」 なんて言われ、日本グランプリが国民的関心事だった時代があったと云うが、本でしか知らない世界だ。

F-1マシンのデモンストレーションランは、コジマとマキは結局走らずじまい。前述の通り、いまだ現役のロータス以外はみんな軽-く流す程度にとどまり、流石に全力疾走はなかったので、解っちゃいるけど、ちょっと不満。 あと、台数ももう少し多く走って欲しかったが、まあ、贅沢を言えばキリがない。

はっきりと不満なのは、国内のレジェンド級のドライバーが大挙して参加してくれていたのに、ピットウォークとかに出てきてくれたのは、従野孝司さんぐらいだったってこと。

混乱を防ぐためとか、いろいろ理由はあるんだろうけど、それがとても残念でした。

でも、これだけ貴重なマシン群をいっぺんに観れる機会なんてそうはないだろうから、感謝申し上げます、富士スピードウェイさん。またやってね。


おまけの画像、金色のトヨタ2000GT(前期型)。たった2台しか制作されなかった前期型のゴールド仕様、丁度40年前に都内某所でワタクシ、これそのものかは判らないけど、写真撮影してました。

  

2000GTって、案外と謎が多いクルマなんだよね。

むかーしは、きったない屋台が立ち並んでいて、カレーとラーメン、焼きそばの臭いが漂っていたスタンド裏。

  

トイレも汚くて往生したけど、小奇麗になって・・・。

これなら彼女も連れてこれるけど、あの雰囲気もまた、なかなかに捨てがたいものがあったなあ (遠い目)。
 

鎮魂

その日のワタクシは、朝の6時から納品で県内の海っぺりの方の重要顧客様の元にお邪魔していました。

昼前に無事に納品も終わり、事務所に帰ろうとしたら、今度は山の方にある顧客様から入電。そちらにもお邪魔して、事務所に向けて車を出したのが、2時半ころ。

郡部から仙台市内を結ぶトンネルを抜け、ハトのマークの商業施設を右に見やりながら信号待ちしていました。 ラジオからは、地元のカリスマDJの軽妙なトークが流れています。

突然、けたたましくアラーム音がラジオから発され、「緊急地震速報、大きな揺れが来ます」 と、緊張したアナウンスが流れました。

「あぁ? 地震? ナニ言ってんだよ、早く続きを聞かせろよ」

ああ、人間はどうしてこうも、つい最近のことさえ忘れてしまうのでしょう。

たった二日前、けっこうな規模の地震と、50cmの津波が来ていたと云うのに。 友達に、「いつか来ると云われている 『宮城県沖地震』、できれば今回ぐらいの規模の地震で小出しに何回も来て、それで済ませてくれないかな」 とか、メールを送っていたと云うのに。

なのに、そんなことはすっかり忘れて、危機意識は日常に埋没させてしまう。 都合のいいことだけ考えて、「なかったこと」 にしてしまう。

凄まじい揺れに、社有車は小舟のように揺さぶられました。

「これは・・・・ 数年前に県北を襲った巨大地震と同じレベルの・・・・参ったな、それよりちょっと強いかな」

必死にハンドルにしがみ付きながら、そんなことを考えていました。

「家の中、帰ったら片付けないと。 明日は土曜日だけど、出勤しないといけなくなるな」

揺れが収まりかけ、まだそんな呑気なことを考えていた次の瞬間、突き上げるような大きな揺れに襲われ、近くのビルの外壁が破裂 (!)、がれきが歩道にぱらぱらと落ちて行きました。

電線が鞭のようにしなり、電柱も虚空に円を描くように揺れています。

「折れないでくれ・・・」

やがて揺れも収まり、当然だけど全く用をなさなくなった信号を一応見ながら、そろそろとクルマを進めました。

肩で息をし、カラカラになった口からは、うわ言のように 「本当に来た、本当に来てしまった・・・・」 と、言葉が漏れました。

「大変なことになった・・・」


約30年周期で来ると言われている 「宮城県沖地震」、もう、いつ来てもおかしくない、99%の確率で来る、と言われ続けていて、ラジオでは毎日、前回の地震の発生時刻になると、注意喚起を促す放送が流れていたと云うのに、「まあ、来るとしても、もっと後の時代の話だろ」 と、都合よく見積もっていたのです。 何の根拠もなく。

信号が機能しないので、譲り、譲られながら、そろそろとクルマを走らせ、その間、「事務所もめちゃめちゃになったので、今日は解散です。 気を付けて帰って下さい」 と、同僚の女の子からメールが入ります。

帰る?  何処に?  事務所? 自宅?

頭が混乱します。

「自宅だろ、ここは。 どう考えても」

幹線道路を抜け、旧道に入ると、通っている病院の愛想の無い看護婦が、道端に出て笑いながらおしゃべりしています。

「あの看護婦さんも、笑うことがあるんだ」

歩道には、イヤホンで音楽を聴きながら、ドヤ顔で悠然と歩いている若者。

それを見て、なんか、もの凄くイラっときました。

「なんだあの小僧。 『オレ、地震なんてカンケーないね。 何があってもオレはオレだ』 とでも言いたいのか」

どうでもいいことにイライラするってのは、かなり冷静さを失っている証拠だ、落ち着け、オレ。

地割れを避けながら、ゆっくりとクルマを進めます。 ゆっくりと進むクルマと、狂ったように飛ばしているクルマとが混在し、気が抜けません。

日常と変わらないような落ち着きを見せる旧道沿いの光景に、あの地震は白日夢だったのでは、と惑わされますが、ひっきりなしに 「〇〇地域、津波の第一波の到達予測時刻は〇時✕分、いますぐ避難してください、高台に上がってください」 と、アナウンサーが必死に呼びかけるのを聞いていると、地割れが走っている地面を見ると、旧道沿いの崖のとんでもないトコから水が噴出しているのを見ると、ああ、やはり地震はあったんだ、と思い知らされます。

アクセルを床まで踏みつけているのか、というぐらいぶっ飛ばしているクルマとすれ違い、小高い丘を回る裏道を抜けて家に辿り着くころには、雪が舞い始めました。

「電気使えないのに、雪かよ・・・・」

家に入ると、ヨメも愚息も帰っていませんでした。

「何で誰もいないんだ!」

モノが落ちている以外は案外と、いや、ほぼ何も起きていない各部屋を見るに、引っ越しの時に勧められた耐震マットが効いたのだな、と、その効能を思い知りました。

一方で、何故コレがココに? と言いたくなるような、まるで自分の意志で移動したかのような、とんでもない動き方をしている卓上カレンダーを発見した時に、やはり尋常じゃない揺れだったのだな、とも思い知りました。


「どうする、どうする、情報収集のためにも、いったんは事務所に戻るか?  だけど、二人とも何処に居るんだ???」


とりあえず、愚息の通う小学校に向かいました。 「ヨメも、ここに居るのかもしれない」。

果たして、集団下校しようとしている愚息と落ち会い、全身の力が抜ける思いだったのですが、ヨメが居ない。

いったん帰り、「これ以上ウロウロするのは、却って事態を混乱させる。 ここは待とう」 と、腹を決めました。

おびえ切った愚息は、ワタクシから離れようせず、揺れが来るたびに 「もうやだ・・・・」 と、べそをかきました。

「どこかに買い物に行くにしても、近所だろう。 徒歩圏内なら、歩いて帰れる筈だ」

しかし、6時、7時になっても帰ってこない。

「まさか、どこかで事故に巻き込まれたのか? ダメなのか?」

灯りの点かないリビングで二人、白い息を吐きながら身を寄せ、悪い事ばかりが頭をよぎる中、玄関のチャイムが鳴りました。

上の階の奥さんに付き添われて、ヨメさん帰宅。 曰く、検診で市内の病院に行き、地下鉄の構内にいる時に地震に見舞われたそうです。

「へたり込みながら柱にしがみ付き、『ああ、私はここで今日死ぬんだ』 と思っていたら、駅員さんが 『お客さん、大丈夫です。 地下鉄の駅は崩れたりしませんから』 と、励ましてくれて。 で、バスは動いていたから、バスで帰って来たんだ」。

「ああ・・・・(脱力)」

安心したら、思考が戻りました。

「とにかく、当座の食糧を確保しないと!」

三人でクルマに乗り込み、かなり遠くのコンビニまで行きました。 何故か、そこなら開いている筈だ、という確信があったのですが、今にして思うに、第六感だったのでしょうか。

勘は的中、そこは開いていました。

ろうそくが灯る店内、目ぼしいものはあらかた売れてしまっていましたが、それでも高級カップ麺や缶詰、飲料水やジュース類は残っていました。

「ああ、朝、お金をちゃんとおろしておこうと云う気持ちになったのも、第六感だったのかな」

電卓で計算するレジの女性からお釣銭を受け取りながら、そんなことを思いました。

「次にちゃんと食えるのは、いつか判らないからな。 カップ麺も、一人一個ね」

そう言いながらボンベ式のコンロで湯を沸かし、カップ麺で夕食を済ませたら、あとは寝るだけしか、することはありません。

「本当に、家族全員無事でよかった」

毛布をかぶりながら、そう思ったのですが、止むことなくヘリコプターが飛んでいて、寝付けません。

「あれだけヘリが飛んでいるってことは、本当に本当に大変な事が起きたんだ。 ウチは無事だったが、いま、世間はどうなっていのだろう。 ケータイも繋がらない。 みんな、心配してるかな」

そんなことを思いながら、泥のように疲れ切った身体を横たえ、眠りにつきました。

本当に大変だったのは、それから後の日々だったのですが。

本社では 「きょう、chihiroさんは津波が酷かった海の方に行っている筈だ!」 と、ちょっとした騒ぎになり、死亡説が流れたと知ったのは、後日の話。


3月11日が巡ってくる度、あの日の一部始終がエンドレスで蘇ります。

無事では済まなかった人が、そして、その人の家族、友達、知人 ・・・・・ 関わりがある人が何万、何十万といると云うことを考えると、あの災害はまさしく 「国難」 であり、そしてそれは、今も続いています。

福島から避難してきた人たちが苛められていると云う話を聞くと、たった6年かそこらの歳月で、どうしてそんなにも 「しょせん人ごと」 にしてしまっている人が多いのかと、愕然とします。

「オレ達のコミュニティに入ってくんなよ」 と、よそ者をシャットアウトして苛めているアナタ、次はアナタかも知れませんよ。

無念の想いを抱えて亡くなった全ての方々に、祈りを捧げます。

今にして思うに

いやー、遂に一か月以上放置してしまいました。

死んでた訳でもなく、単に忙し過ぎたんだけど、それにしても過酷な日々で、しばらく仕事したくない気分。しますけどね。

で、いつの間にか季節も変わり、仙台でもほんのり、春の気配など感じる今日この頃。 そうなると当然、F-1 の方も開幕前テストたけなわ、あそこが速いだの、遅いだのと。

遅い方の 「あそこ」 に、マクラーレン・ホンダが入っているのは、何だかな、と云うか、ホンダも本気でやる気がないなら、さっさと止めればいいだろうに。

それはさておき、バーニー・エクレストン閣下が引退しましたね。

 
「引退したから、これからはバイクにも乗るぞい」

株式売り払って、自身が40年以上に渡って育て上げてきた F-1というコンテンツを手放した訳ですが、オリンピック、サッカーのワールドカップとも並び称されるほどに 「視聴率の獲れる」 コンテンツと言われる F-1 をたった一人で牛耳り、私物のようにしていたという事実に、今さらにビックリですね。

私物化と云っても、60年代はスポーツカー選手権より下に見られていた F-1をどんどん発展させて 「レース界の唯一絶対神」 のような位置づけにまで持っていき、世界中から請われ、各国が誘致に血道を上げるようなシリーズにまで成長させたのだから、その功績は正当に評価されるべきでしょう。

やっと F-1がバーニーの手から離れたことを喜ぶ勢力がある一方で、今後に不安を抱く向きがあるのも、当然と云えば当然。 ホントに大丈夫なんスかね?

でね、バーニー否定派が言うことには、「小規模や、『超 ・ 小規模』 コンストラクターを邪険に扱い、F-1というスポーツの敷居をべらぼうに高くしてしまったのは、バーニーの功罪の 『罪』の部分だ」 と言うのですね。

ワタクシも、ほんのちょっと前までそう思っていましたよ。

確かに昔の F-1 は、小規模なコンストラクターが出たり入ったりすることが許されていたし、そういう小規模コンストラクターが大化けして一流チームになったりするのを見ているのは、楽しいものでした。

あのウィリアムズだって、ワタクシが F-1をフォローするようになった頃はまだ、新興コンストラクターの一つに過ぎなかったし、勝つだ、負けるだ、なんて話が出来るようなレベルではなかったんだから。

 

だけど、真剣味に欠ける、「オラがマシンは世界一!」 みたいなノリで参入してきたり、風呂敷は大きく広げてきたモンだけど、このチーム、実態はあるのか? みたいな怪しげなチームに入って来られたら、「・・・・ 参入のハードルを上げないとダメだなコリャ」 と、なりますよ。

年季の入ったファンの方なら、悲惨を通り越して笑ってしまうような、そもそも、どういうつもりで参入してきたんだ?  と言いたくなるような 「ライフ」 というチームがあったことを覚えておられるかと。

 
恰好は良かったけどねえ

航空機用レシプロエンジン、ようは、放射状にシリンダーが伸びたエンジンを縦に割った構造の 「W型エンジン」 を引っさげ、勇躍参戦したはいいが、肝心のエンジンが (韻を踏んでます) まるでダメ夫で、しまいには市販のジャッドエンジンを積んで予備予選に挑むと云う本末転倒をやらかし、いつの間にか消えていました。

そうかと思えば、超大手のクレジットカードをスポンサーにつけ、唸るほど金がある的な触れ込みで参戦発表したはいいが、前半戦を折り返す頃には、もう居なかったチームとかね。

マッドサイエンティストや、 「ショーン ・ K」 ばりの胡散臭い人物に闊歩されたら、やっぱ、自身の築き上げてきた 「F-1」 というブランドの価値を下げない為にも、敷居は高くしますわね。当然の判断ですよ。

 
「すいません、もうしませんから、ちょいちょい引き合いに出さないで下さい」


「でも・・・・」 と思われる方、まあお聞きなさい。


例えば、いま旬な話題の 「ワールド・ベースボール・クラシック」 に、「アパッチ野球軍」 みたいな連中が参加するとなったら、どうします?

 
やってるのは、野球・・・だよね?

高い金出して、アメリカまで行くツアーチケットを買ったのに、観戦するゲームが、その 「アパッチ野球軍」 とのカードだったら、どうします?

あるいは、来期は日本に居ないだろうと言われている、日本ハムの大谷君。

彼のメジャー行きを巡っては、きっと多くのエージェントが暗躍するんでしょうが、日本ハムの中枢にガッチリ食い込んでいるのが、あの 「クヒオ大佐」 だったら、どうします?

 

「その人ダメーッ!」  って、言いたくなるでしょ?

これまで、F-1 には、そのレベルのトンマな話、冗談では済まされない、ほぼ犯罪レベルの話が山ほどあったんですよ。

婚約者を射殺した後、自分もショットガンで自分の頭を吹っ飛ばして自殺した、共同経営オーナー。

マルチまがいの錬金術を説いて金を集め、その金でチームを率い、だけど最後は塀の向こうに墜ちた怪人物。

 
「呼んだ?」

新進気鋭のデザイナー兼オーナーだったけど、金を集める方はさっぱりで、だけどヤバめな気配を感じるや、とっとと自己破産してチーム売却、自分は大手のチームにいちデザイナーとして潜り込み、メルセデスを乗り回していたチンピラ。

そして、日本人がカモられた話もあれば、日本人が舞台の中心にいたことも。

どうでしょう、それでもやはり 「ヘンなチームが居るのも、味わい深いものだよ」 なんて言っていられます?

「視聴率がどうかは知らないが、スポーツとしてどうかって目線で観ると、オリンピックやワールドカップに比べると、やっぱ F-1って、一枚二枚、格下だよね」

そう言われて当然ですよね。 「味わいが・・・・」 とか、言ってられないですよね。

こんなカオスな状況を払拭するために、ちゃんと自己資金があることを示す意味で供託金を入れなければ参戦不可、としたのは当然の成り行きだし、もっと早くそうするべきだったかもしれませんね。

長くなりそうだから、この項続きます。