勲章の起源に迫る。薩摩藩VS幕府の熾烈な争いとは?
「古代・現代を問わず、勲章なしでやっていけた共和国があるというなら教えてもらいたい。諸君はこれを玩具だと言うかもしれないが、さて人間を動かすのはそうした玩具なのだ」
市民の平等という原則への攻撃と見た者もいたが、第一統領ナポレオン・ボナパルトは国務院でこの制度をこう正当化していた
勲章コラムの2回目にあたる今回は、日本の勲章の歴史を中心にみていきましょう。
(前回の記事「レジオン・ドヌール勲章 〜日本勲章の手本とされた制度〜」)
日本で初めて勲章が与えられたのは明治8年12月30日と31日とされています。
ただしそれが「勲章」と呼ばれるようになったのは翌年、明治9年のことです。
その後、勲位菊花大褒章や大勲位菊花章、明治20年以降には宝冠章、瑞宝章などが新たに定められたのです。
それまでなかった女性のための勲章ができたのも明治20年以降のことでした。
現在の勲章は全部で22種類。
それらは、菊花章、桐花章、旭日章、瑞宝章、宝冠章、文化勲章に分けられます。

日本の勲章の始まり
時は幕末。
討幕運動が高まりを見せ、大政奉還が目前に迫ったまさにそのころ、パリで開かれたのはパリ万国博覧会でした。
はじめて参加した日本からは、徳川慶喜の弟、松平昭武が列席しています。
出展したのは江戸幕府、薩摩藩、長州藩。そこでは出展作品である「勲章」を巡り、当時の国内情勢さながらの政治的で熾烈な戦いが繰り広げられました。ひとつの映画にもなりそうな他国をも巻き込んだ頭脳戦の一部をここで紹介します。
まず、タイトルのごとく薩摩藩VS幕府という図式。
ここに強豪、長州藩の名前があがらないことに違和感を覚えます。後に明治維新を牽引することとなる彼らが出遅れた理由、それは国内政治に足を引っ張られていたためと考えられます。
当時は幕府による長州征伐に苦しめられていました。対応に追われる長州藩はパリ万博まで手が回らなかったのでしょう。
一方、薩摩藩が幕府に台頭できたのには、ベルギーに城を所有するフランス人のコルト・モンブラン伯爵の存在がありました。
モンブランは日本から利益を得ようと幕府に接触を試みるも幕府の財政難によりすげなく断られてしまいます。
以降、五代友厚ら薩摩藩の青年たちとパリ万博に向けての出展を模索しはじめます。
やはり良いものをつくるにはそれなりの資金が必要のようです。
薩摩藩は“モンブラン”という資金源を早いうちから確保していたのです。
薩摩藩台頭の理由にはもう一つあります。
それは、藩という小さい単位で計画を進めていたため情報の把握が早く、俊敏に行動できたということです。
比べて幕府は大きくなりすぎました。
そうでなくとも国内は尊王攘夷と倒幕運動で揺れていましたから勲章の製作に心血を注ぐ間もなかったはずです。
「少数精鋭」を地で行く薩摩藩は幕府をも成し遂げなかった日本の勲章の原型を見事に作り上げたといえます。
勲章の鍵は七宝にあり?
薩摩藩がつくった勲章は「薩摩琉球国勲章」と呼ばれます。
薩摩琉球国として独立国家としているところが、当時はまだ一つの藩に過ぎない故、国家に忠義を尽くさざるを得ない状況が見て取れます。同時に、それでも一つの国家と名乗りを上げたことに薩摩藩の気概を感じるのは私だけでしょうか。
事実は定かではありませんが、薩摩琉球国勲章はフランスで作られたものではないかともいわれています。
その根拠は、勲章の中央にある七宝部分です。
当時、日本で七宝を作れるのは幕府側の人間であった平田彦四郎ただ一人でした。
ここにもやはり構想段階から薩摩藩とつながりのあったモンブランの存在が見え隠れしています。
山動く時の前には決まっていくつかの小さな事象があるものです。薩摩藩と幕府の勲章を通した一連の出来事はまさに明治維新前のそれにあたるのではないでしょうか。
