誰もが生まれながらに個性を持っている。
 
これは理想ではない。事実だ。
 
だが現実には、個性は社会性と合わせるために縮小され潰されていく。。。
といって、放っておけば、個性が育つわけではなく、自身の個性を知る機会がないだけだ。。。
 
このところの子育てや他人とのかかわりにおいて、個性を尊重し引出す接し方が風潮としてあるのはとても良いことだ。
 
だが現実には、個性の引出し方を知る人は少ない。
ましてや、個性を発揮したり知るための環境を提供できる人はほぼいない。
 
それでも、誰もが自論を持っているもので、誰もが正解のない道を模索し続けている。
 
誰もが正しいと信じて行動しているはずなのに、結果が伴わなければ批判される。
実は、この批判が個性を潰していることとも知らずに。。。
たまたま上手く行くと、あたかも正解のように子育て論を披露する。
実は、この子育て論が画一的な方向を生み個性を潰していることとも知らずに。。。
 
もちろん自分にも自論がある。
 
これまでもブログで自論を述べている。
子育てに正解はない。
だが、何かしらの指標や方向がないと人は迷うものだ。
その迷いのヒントになることを望んで書いている。
 
 
その中で、もっとも単純に示すことのできる事柄がひとつある。
 
それは自然と向き合うこと。
 
具体的にできるものとして同じ山に何度も登ることがある。

 
自分の子供は山好きなわけではない。
つまり子供の個性が山向きではないということ。
 
登山から得られる体験が個性を引出す切っ掛けになると思っているからだ。
 
自然は一時も同じ顔を見せない。
振り返った瞬間に表情を変える。
 
自然が圧倒的に支配する山では、同じ道を辿っても、毎回違う。
景色はもちろんのこと、自分の感情や体力でもその表情が違って見える。
 
特に子供は成長による体力増強が確実で、10歳を過ぎると感情も大きく変わってくる。
子供にとって、同じ道、同じ景色がまるで違ったものとなり、より細かく鮮明に情感高く見える。
 
体力は自分の成長を知る機会となり、感情はより良いものに上書きされる。
 
山は、直感的に、けがや死まで感じ取ることができる。
そんな危険を自分の力で解決できるし、対策できる。
そして、誰も頼れないことと、誰かに頼ることを知る。
 
それは、分かった。
では、それがどうして個性を引出すのか?だ。

自然は圧倒的な力があり、1人の人間がどうにかできると考えない。
これはもう本能に近い意識だ。
 
自然をどうにかできないなら、自分が合わせるしかない。
#自然をどうにかしてやろう、という衝動も、また、考え方で個性だ。
 
そうすると自分ができることとできないことが分かる。
 
やがてできることを大きく伸ばし、できないことは負けない程度に身に着ける。
できることが分かれば、自分を助け、他人を助ける能力となる。
 
つまり、個性を知り伸ばすことにつながる。
 
対する相手がどうにもならないほどの存在であることが、自分を知り、個性を伸ばすことになろうとは、そんな自然の摂理に恐れ入る。
 
もし対する相手がどうにかなる存在だとしたら、人はどのように振る舞うか考察してほしい。
 
もちろん自然の中でなくとも気付く機会はたくさんある。
だが、文明の中にあっては、できないことをできるようにする道具や機能がたくさんあり、人類にとって、とても素晴らしいことであるが、個人にとって学びにはなりにくい。
文明は個性を求めていない。
#文明は個性を機能として広めることができるため、誰もが持つ必要がない。。。異論はあるだろうけどね。
 
やりたくないことでも、できてしまうのは、本意ではないだろう。
それは本当にやりたいことやできることから離れてしまう原因になるかもしれない。
逃げることも、また可能だ。
 
でも、文明を捨てることはできない。
だからこそ、自然が支配する場所に身を置くことで、自分を知り育んでほしいと願っている。
 
 
最後に。
 
個性とは、他人と違うことではなく、持っていない者はいない。
個性とは、自分の可能性のことで、他人と同じで構わない。