今回はちょっと休憩ってことで……

いつの時代も、最近の若者は!っていう言葉を耳にします。

医学の世界でも例外ではなく、最近の研修医は!とついつい愚痴をこぼしてしまいます。

確かに、見た目だけで言いますと、私が研修医だった頃よりはちゃらけた奴らが多いです。いや、これは客観的に見て、です。大学を歩いていると、茶髪にピアス、

君たち、今からおやじ狩りか? って……

つい反射的に避けてしまう自分が情けない……。

しかし、である。先日、そんな医大生数人と話をする機会があったのです。
そしたら、以外と将来のことを真面目に考えてたりして、ちょっとびっくりでした。

君は将来何科の医者になるつもりだ?

はい、産婦人科を考えてます

おおお、産婦人科! めずらしーなー

ええ、どうしてですか?

だって、このご時世、なかなかいないぞ、産婦人科希望

そうなのです。やはり世間で言われているように産婦人科、特に産科は人手不足。激務の上に、すぐに訴訟。割に合わないと考える医者は多いのです。

どうしてなんですか? 教えて下さい!

しかし、働きだした後の“大人の”事情など説明するのがちょっと恥ずかしくなる位の一途な医大生の眼差しに、

頑張れよ!

としか答えられませんでした。まだまだ見捨てたもんじゃないぞ、茶髪の医大生!

自分も初心に帰って頑張らねば……。
結局のところ、家康の死因を想像してみると…

末期梅毒、およびその治療に用いた水銀、ヒ素による中毒

が直接の原因だったと考えられます。胃癌という線も捨てきれませんが、梅毒の末期にゴム腫と言われる腫瘍ができ、これが胃癌と誤認されたのではないかと……。胃癌の可能性は死に至るまでの状況より積極的にと言う訳ではないですが、除外診断としてもよいのではないかと考えられます。



さて、今、岳宏一郎の「群雲 関ヶ原へ」という本を、もうかれこれ5回目くらいでしょうか、再読しております。史実に基づいた非常に細かな描写や、当時の武将の心の揺れ、など今まで読んだ小説の中では群を抜いて素晴らしいものです。阿部龍太郎の「関ヶ原連判状」も面白いのですが、やや現実離れした感もあり、んんー、と言う感じでしょうか。
梅毒における第3期の状態はゴム腫と言われる腫瘍が全身に出来ます。

まあ、私自身実際の臨床の場でこのゴム腫というものにはお目にかかったことはありません。お目にかかったという話も聞いた事がありません。これはペニシリンが発見されてからの劇的な治療が奏功していると考えられますが、現代においては重症化した梅毒はめったにお目にかかれません。

梅毒の検査は血液検査で行います。少なくなっているとはいえ、手術、血管造影の検査、内視鏡の検査などの前には必ず梅毒の検査を行います。入院した時点でも自動的に検査をしている病院がほとんどです。前回も書きましたが、たまーに陽性の患者さんがいて、ペニシリン系の抗生物質で治療をする程度です。

ただ、当時はペニシリンはもちろん、病気に対する知識もなかったため、爆発的に蔓延していたようです。

さて、徳川家康ですが、1月に発病して4月に死亡、というこの3ヶ月という期間がやはり重要な意味を持ってくるのだと思います。発病(倒れた)のが1月で、それから3ヶ月間”生きていた”のです。食中毒にしては期間が長過ぎる、というのは以前にも述べましたし、一般的にも言われているみたいですが、私は胃癌としても長過ぎるのではないか、と思います。

もし胃癌だったとしたら”倒れる(症状が出る)”程に進行していたことになります。胃癌が原因で明らかな症状が出る場合、かなり進行していたと言えます。

胃癌で症状が明らかになるとき、その原因としては、

1胃癌からの出血による貧血
2食欲不振が原因の栄養不良、脱水
3痛み

などが考えられるのですが、中心静脈栄養などが発達している現代ならいざ知らず、点滴さえなかった当時では、これらの症状が出現してからはせいぜいもって一ヶ月といったところが大まかな見当だと思います。つまり、症状が出てから3ヶ月も生きていた、と言う事はやはり胃癌が原因ではなく、梅毒の末期だった可能性が高いと思います。