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虹初めてお越しの方はブログの目次(⇒ココ) 虹





みつろう
「全ては等価で、全てが素晴らしいのだから、

闇にも役割があるんですよね?」



神さま
「当然じゃ。闇にしか出来ない役割がある。

わししかおらんかった頃、

まぁ、お前がわしじゃった頃とでも言おうか、

その頃は、影なんて無かった。

前に一度言った通り(⇒ココ)、わしは光じゃ。


そして、わしと影の間には、絶対にモノ(人間)がおる。

要するに、人間が居なかったら、闇なんて出来ない

闇とは、ただ人間が(居るせいで)創りだした幻想じゃ。

わし(光)だけの世界に、闇なんて無い。

そして、光と闇の間に立っているお前たちは、

後ろも向けるし、前も向ける。」





みつろう
「そうですね。

もし人間の両隣りには、絶対に、「光」と「闇」が用意されているのなら、

「光」を見る事も、闇」を見る事も出来ますね。」


神さま
「当然コレは、身体の外側の話しではないぞ。

あなたの、ココロが、闇を向くか、光を向くか

いつ、いかなるトキにおいても、選択出来るんじゃ。


どんな場所でも、「場所」があるその相対性の世界に居る限り、

どちらかを向けるんじゃよ。

光を向けば安心し、闇を向けば不安になるじゃろう。



どれだけ悲惨だと思える状況でも、どれほどの幸福の絶頂でも、

絶対に、あなたのココロは、闇を向くか光を向くか選べる。

感謝するか、不満を言うか。

さぁ、みつろう。

言うなれば、わししか居なかったころ、そこには光しかなかった

と言う事は、じゃ。


その世(この世)でしか味わえないモノがあるとすれば、それは闇じゃ。

感謝する事はとても大事な事じゃが、不満(闇)だって、それに等価じゃ。

光だけが必要ならば、別にその世(この世)は必要ないじゃろう。

人は、ココロが、闇の方向にしか向かないトキだってあるじゃろう

どうしても、ネガティブから抜けれない時

そんな時は、この話しを思い出してほしい


『闇さえも、素晴らしい』と。

『この世でしか味わえない事を、味わっているのだから』と。



みつろう
「なるほど。

いつだって人間のココロは、究極の二択に迫られている。

闇を向くか、光を向くか。

そして、光を向かなければいけないと言うわけでもないという事ですね。

つらい時(闇しか向けない時)には、それを思い出せば、ホッとしますね。」


神さま
「我が子よ、なんというまとめる力!(言われる事3回目くらい)

そうじゃ。『光を向かなければいけないと言うわけでも無い』ということを、

いつでも思い出すのじゃ。



よし、お前があまりにも、まとめる力を発揮したモンじゃから、

もうちょっと、闇の話しをしてあげよう。サービスじゃ。


良いか、その世界に居るトキ、光とは太陽じゃ。

そして、太陽は二十四節季によって高度を変え、

冬至の日は、太陽が一番低く出るし、昼が一番短い日じゃろ?

要するに、冬至とは闇の日とも言える。


事実、北の方では一日中太陽が出ない。

さぁ、さっき、「闇の日こそ、この世の楽しみ」とわしは言った。

ということは、どう言う事じゃと思う?


冬至の日は、まさに、その世(この世)を楽しむ日なんじゃ。」



みつろう
「なるほど、パーティでもしましょうか?

なんなら僕、『不幸を楽しむ会』の会長にでもなりましょか?」



神さま
「お前は、ちょっとバカにしておるが、

事実、古来の中国でも、ヨーロッパでも、日本でも、

冬至の日はパーティをしたもんじゃ。

キリストの誕生日(クリスマス)も、冬至にかぶせただけじゃ。

この日が闇の頂点で、この日以降は徐々に光のパワーが強まる。

だから、「闇極まって、光と転ず(コウテンズ)」と日本の神社では言うのじゃが、

それも、正しい伝わり方では無い。


第一、「今日から、光が強まるぞ、イヤッホーイ!」

って祝うと思う?

「強まるぞ?」


もしそうなら、どう考えても、「強まった日(夏至)」に祝うはずじゃろ?


違うんじゃよ。

本当は、


「今日は、闇を祝うぞ、ヒャッホーイ!」のパーティの日なんじゃ。」


みつろう
「なるほど、じゃあ、マジの方の話しとして、

闇を楽しむパーティをしなさいと?」




神さま
「そうじゃ。

良いか、先程お前は、「不幸を楽しむ会会長」と言った。

それは、間違いじゃ。

「不幸」を「楽しんだ」のなら、それは「幸福」になっちゃうじゃろ?

「不幸」の価値を認めておらん。

「不幸」を「不幸のままに」味わう日なんじゃ。」



みつろう
「うっわ~。マジ、つまんなそう。

ただ、ドヨーンとしてろと?

つまんねー。」


神さま
「無理に、ドヨーンとする必要は無い。

「不幸」を無理矢理、「楽しもう」とするな、と言っておる。

「不幸」を、「楽しもう」に無理矢理変えようとするということは、

「不幸」の価値を認めていない事になる。

「不幸」は「幸福」と同じほど、素晴らしいと言ったじゃないか。

この世でしか味わえない、言うなればこの世にそれを味わうために来たのに、

「不幸」を「楽しみ」に変える必要は無いんじゃ。


人間の一番間違った教育は、「幸せになりましょう」じゃ。

「幸せ」じゃなきゃいけないと洗脳されておる。

そんな事は無い。

どうして「不幸」がダメなことだと思っておる?

教えられた(洗脳された)からじゃ。

「不幸」がダメな事なら、わしはそもそも「不幸」をそこに用意しない。



まぁ、今日の話しは、

年中浮かれポンチの状態のお前には伝わらない話しじゃが、

今、幸せから程遠い場所にいる人にとっては、

涙が出るほど、安心できる話しなんじゃ。



「不幸を不幸のまま味わう」「むりやり笑う必要は無い」というのは。



だから、この話しは、伝わる人にしか伝わらない。

でも、伝わっている人には、重宝されるから、この話しもブログに載せるように。」







ということで、冬至とは闇の日、「不幸を不幸のままに味わう日」とのこと。


それを、パーティと呼べるとは思えないけど、

闇の価値が光の価値と等価なら、

どうして、むりやり笑う必要があるの?って話しなんだと思う。


「笑おうとする」=「闇め!ファッキュー!この!」でしょって。


闇を避けようとしている限り、「闇にも価値がある」とは言えて無いよねー。

説得力無いよね~って話し。


不幸を、不幸のままに見つめましょう。

不幸を、無理に楽しもうとしたら、それ、不幸じゃ無くなっちゃうじゃん。

不幸は、「不幸」だから価値がある。

「不幸」を無理矢理に「幸福」に変えようとするなら、

「不幸」は無価値です。



・・・安心した人、いる?



(⇒いてもいなくても、明日に続く⇒)



↓もちろん、幸せを無理矢理、どよーんに変える必要は無いよ。当然だよね。

いま、幸せなら、幸せを味わう(見つめる)。

いま、不幸なら、不幸を味わう(見つめる)。

起こる事すべてに、価値を与える。

人間は「不幸」だけはいつでも「幸福」に変えようとしてるなんて、

なんか、変な話しじゃない?

もし本当に、全てを等価だと認める事が出来るのなら、

なにも「よけない」と思うよ。



そして、そのトキ、その生き方をしている人には、

「不幸」が原理的に存在できません。

全てを認めてるんだから、当然だよね。

何かを変えようとはしないし、何かを選択した自分に「ダメ」とは言わない。

よって絶対に苦しまないのだから。



見つめましょう、判断せずに、見つめましょう。全てが等価と言うのなら。

↓今日は下の二つのボタンを押す際、

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